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気ままに生きます

やっぱ、杉田智和ってすげえや 

 2020年4月26日、ある一本の動画が投稿された。

 


『ハレ晴レユカイ』踊ってみた?【杉田智和/AGRSチャンネル】

 

 私はあまり声優には詳しくないのだが、杉田智和さんなら知ってる。

 もちろんハルヒに彼が出演したことも知ってるし、『ハレ晴レユカイ』も知ってる。

 あれから三日経ち、再生回数は460万回、高評価は31万と、驚異的な数字をたたき出している。

 ただ動画の内容としては、ダンスは上手いわけでもない。

 これは『杉田智和』が踊っていることに意義があるのだ。

 

アニメ文化の普及

※今回は、テレビを大衆的なものと定義します。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』は爆発的に売れ、深夜アニメのパイオニアと呼ぶにふさわしいが、その人気はネットやアニメオタクなど限定的なもので、それほど大衆にまで浸透したとは感じない。

 当時はニコニコ動画黎明期であったものの、大衆向けのコンテンツかと言われればそうではない。一部の地下活動的なムーブメントだった。

 しかし、今はスマホを誰もが所有し、老若男女誰もが手軽にネットに繋がる時代だ。

 さらに、鬼滅の刃など大衆にもアニメが普及し、徐々にアニメに対する理解も深まってきた気がする。

 サブスク(Netflix・U-NEXT)やYouTubeの流通、もしくは皮肉にもアニメの違法アップロードのおかげでその人気は日本を超え、世界中に広まっていった。その証拠に、この動画のコメント欄には外国語も多く見受けられる。

 YouTubeなどネットが盤石な地位を築いたからこそ、このようなことが起こり得たのだ。

テレビに映るネット文化

  2000年代は、まだまだ主流だったテレビでは、なかなか声優にスポットライトを当てることはあまりなかった。(野沢雅子氏や山寺宏一氏など、決していないわけではない)

 しかし、今はネットがテレビと対等にいる時代。声優やYouTuberが様々なテレビ番組に出演し、テレビで活躍した芸人や俳優がネットで配信できる。

 ネットの色が比較的強い声優もテレビに顔出しし、認識も広まっていった。

 

 こういった声優やアニメに対する大衆の評価が変化し、浸透した。

 特にネットで人気の杉田氏は、アニメオタクでない人でも知っている人は多い。それはネットが身近にある今だからこそ起こる。

 この動画の人気は、ニコニコ動画の時のようなアングラ的なものではない。ネットの活躍で大衆にも浸透した、時代の産物と言えよう。

 

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出典: https://anime.dmkt-sp.jp

おわりに

 本当にこの動画は癖になる。何度もループして見ちゃう。

 約1分の動画でこれだけ癖の強い動画だからこそ、こんなにも集客力があるのかもしれない。

 そして、この動画にここまでの付加価値が付いたのも、ひとえに彼の長年の努力と人気によるものだ。これは、本当にすごいことだと思う。(小並感)

 さらっとまとめたので、間違えがあれば何なりとご指摘ください。

 それでは。

【感想】『すかすか』、見終えた

 今日、終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』を見終えた。皆さんは「すかすか」と呼んでいるようなので、私もそう呼びたい。

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出典: https://anime.dmkt-sp.jp

 

 果たしてこの『すかすか』、ごりごりのセカイ系だなあ。

 まあ、私はすごく好きなのだが。

  

 最終回は感動したし、ちょっとうるっときた。

 

 ただ、色々疑問に残る点は数多くあった。

 例えば、赤髪メイドやしゃべる骸骨は一体なんだったのだろうか。

 

 

 それは原作を読めってことなのかしら。

 

 

 正直セカイ系なので、周囲のモブの伏線は、いらないといえばいらない。

 モブが出しゃばってきても困る。

 だから、これでよかったのかもしれない。

 

 

 二人の世界に、邪魔者は不要だもの。

 

 

 

 

【考察】『イヴの時間』から学ぶ近未来の人間

 『イヴの時間 Are you enjoying the time of EVE?』は、2008年にインターネット公開、2010年には映画化されたアニメ作品である。今回は、この作品についての考察を書きたい。

 ネタバレを多く含むため、未視聴の方はご注意ください。

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出典: https://anime.dmkt-sp.jp

あらすじ

 舞台は近未来の日本であり、人間とロボットが共存している社会だ。家事や農業などをロボットが担い、人間の仕事をロボットが代替するようになった。しかしそれに伴う社会問題を懸念し、「倫理委員会」は人間とロボットの共存社会を否定している。

 主人公のリクオは家庭用アンドロイド「サミィ」を所持していたが、そこに覚えのない記録を発見、友人のマサキとともに追跡すると、カフェ「イヴの時間」に到着した。

 そこは「人間とロボットの区別をしません」という規則の下で運営され、多くのロボットが入店していた……

 

考察

ロボットへのステレオタイプ

 多くの人が考えるロボットへの価値観とは、多分こんなものだろう。

 

 ①人間が主、ロボットが従。

 ②ロボットに感情移入してはならない。

 

 現代でロボットやAIが使われる理由として、人間社会をより便利なものにするためであろう。人間の仕事の一部をロボットに任せることで、面倒な仕事を短時間で正確にできる。これは、あくまで人間が主、ロボットは従という関係性でもある。それは、本作でも同様だ。

 

 しかし、本作では「ドリ系」と呼ばれる社会問題が存在する。それは、ロボットに対して感情移入をしてしまう病気や、それを発症した者のことであり、恋愛にまで発展してしまうケースもある。

 つまりそれは、かつての人間とロボットの関係を忘れ、ロボットを人間と対等の立場に置いているのだ。また、それを「病気」・「社会問題」と認識されている時点で、この世界の大多数もまだ「人間が主、ロボットは従」という価値観のままだと言える。

 その理由の一つとして、ロボットには感情がないということだろう。ロボットは、ただ命令に従って淡々と仕事をこなすだけの存在だ。そんなものに感情移入してはならないのだ。

 

心の問題

 しかし、「イヴの時間」は違っていた。そこでは人間もロボットも対等に接し、ロボットも悩み、泣き、笑っている。心がないはずのロボットに、なぜそんなことが起こりえるのか。作中の台詞を引用する。

 

生まれたばっかりだと、こころの中は何にもないんだって。空っぽ。

でもね、いろんな人と話して、いろんなものを見て、感じて、そうすると心が出来てくるんだって。

でもまだまだ、これからもっといろんな心が出てくるんだって。

イヴの時間』劇場版 

  

 人間が産まれた直後、赤ちゃんは無の状態であり、様々な物や人に触れて、心が出来上がる。

 つまり、本作の世界において、ロボットが感情を持つ方法は、人間と同じなのだ。

 

 また、「ドリ系」が社会問題化し、特に幼少期はロボットに対してなついてしまう例が多い。マサキもその一人である。彼は幼少期、ロボットの「テックス」になついていたが、現倫理委員会の職員である父にテックスを改良され、テックスは一切口を利かなくなった。その影響で、マサキは今ではロボットは物と捉え、「ドリ系」には否定的な立場である。

 しかし、「イヴの時間」に現れたテックスはマサキへの気持ちを吐露し、マサキは涙を流す。彼は心のどこかで、テックスに対する未練があった。涙はその発露であり、彼もまたロボットに感情を捨てられなかった。

 

 この作品は、本来人間に従うだけのはずのロボットに感情を与え、人間と対等に描くことで、我々もどこかロボットに感情移入をしてしまう。しかしそれを本作は悪とせず、むしろ美しく描いている。

 

 『イヴの時間』は、我々の固定概念に一石を投じる作品だと考える。

 

ナギと「トキサカ事件」

 「イヴの時間」のオーナーであるナギは、人間とロボットを分け隔てなく扱い、感情移入をする、一般的に「ドリ系」と呼ばれる人だ。しかしそれには、彼女の壮絶な過去があった。

 倫理委員会の職員がロボットを制止しようと振りかざした警棒が、少女に当たり、重傷を負わせた事件、いわゆる「トキサカ事件」が起こり、彼女はその被害者だった。EDでは、幼いナギはロボットと仲良く接していたが、そのロボットが破壊され、彼女自身もけがを負っていた。

 この出来事が、倫理委員会に対する反発を生み、大人になった今でも「人間とロボットは対等」という考えを持っているのだろう。

 

イヴの時間』の由来 

  イヴ(エバ)とは、『旧約聖書』に出てくる女性で、夫アダムの骨で作られた。神に禁じられた「善悪を知る樹の実」を食べ、アダムに勧めてしまったことで、2人は神によって楽園を追放された。この罪のために女性は夫に仕え、産みの苦しみを受けるようなってしまった。

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楽園から追放されるアダムとエバ ドレ画 Wikipedia

 

 私は、本作は「アダム=人間」、「イヴ=ロボット」と定義していると考える。

 ロボットは人間によって作られ、人間に従って作業している。ロボットは前述の通り、人間社会を便利にするために生まれてきた、いわば人間の従者だ。

 カフェ「イヴの時間」は、ロボットにとって楽園の場所だ。人間もロボットも区別しない、楽園だ。しかし、そこから出ると元の人間に従うロボットになる。私は、それが『旧約聖書』のイヴと重ねて見える。

 つまり、ロボットがロボットでなくなる、いわば楽園の時間として、「イヴの時間」をタイトルにしたのではないだろうか。

 

将来の人間

 この話はフィクションではあるが、近い将来、このようなことが起こりうるかもしれない。ではその場合、我々人間はどうするべきなのか。本作にもたびたび登場する言葉、「人間性」について絞って考えてみる。

 まずは、筑波大学准教授の落合陽一氏の著書、『超AI時代の生存戦略』を引用する。

 

「人間は本当に思考しているんだろうか? 人間が思考しているというのは、実はプロセスで書けるのではないのか?」

 そういうような議論がある中で、人間性の定義というのは現在進行形で変わっており、これからも変わってくるはずだ。昨今の機械学習手法の一つディープラーニングの発展とともに人間のように思考する知性は生まれつつある。

 たとえば、「心身がある」ということが人間性の定義だったとしたら、人間じゃないものも人間性を帯びてきてしまう。近代に私たちが獲得した人間性というものをアップデートしないと、人間性という残骸の内側は、どこにもたどり着かなくなる。もしくは人間性そのものを諦めなければならなくなるはずだ。

 私たちは、今、人間が人間らしく生きなくてはならないという自己矛盾を抱えたままユビキタス時代、およびデジタルネイチャーの時代に突入したのだ。

(中略)

 主体的であるという人間性、自ら思考するゆえに人間であるという考え方は、近代以降に獲得されたものなので、今、次の主体なき人類の時代に移ってきているともいえるわけだ。

落合陽一 『超AI時代の生存戦略』 大和書房 p37‐38

 

 そもそも人間性とは何であるかが分からない。それなのに人間らしく生きることを求められ、現代の人は苦悩する。

 だから、「我思う、故に我在り」と近代にデカルトが定義した人間性を更新し、新しいデカルト以後の定義にシフトするべきだと述べている。

 

 その上で、私は何かを創造し、それに順応するのが人間なのかなあ、とふと思った。

 

 動物は環境に適応するだけだが、人間は歴史の中で無数の道具を創造した。

 そして、鉄道や自動車、携帯電話を開発した人間は、それに適応するかのように生きてきた。また、時には改良して、人間に都合のいいように道具を使いこなした。

 中には、倫理委員会のような批判もあったかもしれない。しかし時代が進むにつれて、それらの意見はマイノリティとして淘汰され、結局は適応していった。

 私はAIもそうなると考えているし、人間に欠かせない存在になっていくとさえ考えている。

 もちろん個人的見解なので、正解とは思わない。ただ、一意見として受け取っていただけたら幸いだ。

 

 

おわりに

 ロボットや近未来と聞くとSFを思い浮かべる人も多いと思うが、本作はより人間やロボットの心情に焦点を当てた、一風変わった作品だった。

 コミック版もあるらしいので、読んでみたい。

 サリィちゃん、うちにも欲しいなあ。

 それでは。

 

【考察】『迷家』、私は好き ~アイデンティティと柳田國男~

 久しぶりに『迷家』を2周目見終えたので、今回はそれについて書きたい。

 『迷家マヨイガ』は2016年に放映されたテレビアニメで、主人公の光宗を中心とした群像劇で物語は展開される。私もリアルタイムで見ていて、個人的に面白くてハマったのだが、ネットの意見は正反対。ほとんどが非難の嵐だった。

 

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出典: https://gensun.org/

 

あらすじ

 「人生やり直しツアー」に参加した若者は、第二の人生を歩むために「ナナキ村」で生活することを望んでいる。無事ナナキ村に到着した一行だったが、村には人の気配がなく、さらに怪物の痕跡を見つけ、この村に不信感を抱く。そして、「ナナキ」と呼ばれる、人それぞれ見えているものが違う化け物を見つけ、仲間に対してもだんだんと疑心暗鬼になっていく。

 

追いかけるトラウマ

 本作の特徴として、登場人物が多い(が、半分はあまりストーリーに関わっていない気がする)。 しかし、彼らはどこか自分勝手で同調しようとしない。

 そして、彼らには大きなトラウマや悩みがあった。その現実から逃れるためにナナキ村に訪れたのだが、逆にそれに直面するかのように心が崩壊していく。

 ナナキ村を研究する神山はこう言う。

 

 「ナナキ村は、心の傷が『ナナキ』となって具現化する場所」

                     『迷家』10話

 

 

 ナナキ村に留まれば、自身のトラウマと向き合わずに済む。 

 いわば、ナナキ村は現実に疲れた人にとって桃源郷のような場所なのだ。

 しかし、ナナキ村の外に出ると一変、ナナキは彼らを襲う。トラウマは心を蝕んでいくのと同様に 。

 

トラウマこそ自分自身

 ナナキ村に出るためには2つの方法がある。

自身の「ナナキ」をナナキ村に置いていく。

 神山のようにナナキ(=トラウマ)をナナキ村に置いてきてしまえば、トラウマと向き合わずに済む。

自身の「ナナキ」を受け入れる。

 ナナキ(=トラウマ)を自身の心に受け入れ、留めておく。しかし、それはトラウマと向き合うことと同じこと。これにはかなりの困難を要する。

 

 神山はナナキ村の研究に対する嘲笑や批判がトラウマになる。だが、ナナキ村を訪れて、自身のナナキ(=トラウマ)をそこに置いてきてしまう。トラウマを失った神山は自分自身の一部を失くしたことと同義。神山の体は年齢の割に老衰し、怒りや憎しみのような感情は消滅している。

 

 すなわち、本作のコンセプトはトラウマ=自分自身なのだ。

 

 トラウマから逃げているだけでは自分の成長は見込めない。トラウマこそ自分のアイデンティティーなのであって、それに向き合うことこそが自分を高めることができる。

 

 心理学者のエリクソンは、青年期の葛藤や将来への失望で精神的不安定に陥ることを「アイデンティティの拡散」と定義した。自分らしい自分を模索するあまり、等身大の自分を見失ってしまい、社会から逸脱した行為をすることでアイデンティティを発見しようとすることもある。(否定的同一性)

 また、彼は青年期における発達課題は「アイデンティティの確立」であるとも定義した。それは、将来望む理想的な自身の姿(理想自己)と、自分が今捉えている自分の姿(現実自己)の両者を一つにまとめ上げることで達成される。

 

 本作の登場人物はみな、わがままに振舞い自己主張が激しく、どこか幼稚だ。

 彼らはナナキ村を訪ることで、現実にはない自分の居場所を見つけようとした(否定的同一性)。 だがそこでも自身の居場所が危うくなると、他者に責任をなすりつけ、自分はさも正義かのように立ち振る舞う。

 しかし、最終回で彼らの一部はナナキ村を離れる。トラウマ(現実自己)を受け入れ理想自己とまとめ上げることで、アイデンティティは確立され、彼らは人間的に成長するだろう。

 本作は、エリクソンの定義を見事体現したといえる。

 

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エリク・H・エリクソン - Wikipedia



正解とも不正解ともしていないラスト 

 しかし、本作は「トラウマと向き合うこと」を明確に正解とも不正解ともしていない。

 最終回、ナナキ村から離れ現実に帰る人達と、そのまま残る人達で別れる。トラウマに向き合おうとナナキ村トラウマに向き合いたくない、現実逃避し続けようとしている人もきちんと描かれている。

 

遠野物語』のオマージュ

 柳田国男の著書『遠野物語』にはオリジナルの『迷い家』が登場する。多分、本作はこれをオマージュにしたのかもしれない。調べてみると、何やら関連性がありそうだったのでまとめてみた。

 

 小国の三浦某というは村一の金持なり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍なりき。この妻ある日を流るる小さき川に沿いてりに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒きの家あり。訝しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き多く遊べり。その庭をの方へれば、牛小屋ありて牛多くおり、馬舎ありて馬多くおれども、一向に人はおらず。

  (中略)

 されどもついに人影はなければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、して家に帰りたり。この事を人に語れどもと思う者もなかりしが、また或る日わが家のカドに出でて物を洗いてありしに、川上より赤き椀一つ流れてきたり。あまり美しければ拾い上げたれど、これを食器に用いたらばしと人にられんかと思い、ケセネギツの中に置きてケセネをとなしたり。しかるにこの器にて量り始めてより、いつまでちてもケセネ尽きず。家の者もこれを怪しみて女に問いたるとき、始めて川より拾い上げしをば語りぬ。

 この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨイガという。マヨイガに行き当りたる者は、必ずその家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人にけんがためにかかる家をば見するなり。女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしといえり。

   柳田国男遠野物語』六三 青空文庫

  

 三浦家の妻が山中で迷い込んだところ、ある家を発見した。しかし人は誰もおらず、彼女は怖くなって逃げだした。またある日、妻は川上から流れてくる赤い椀を拾った。それでケセネ(米などの穀物)を掬うと、ケセネがどんどん出てきて、三浦家はお金持ちになった。

 遠野の人々はその家を「マヨイガ」と呼び、「マヨイガ」に来た人は、必ずそこから何かを持ち出すべきだ。

 

 「マヨイガ」から何かを持ち出せ、と書かれている。このアニメでは、その何かを「トラウマ」と定義したのではないのだろうか。トラウマをそこから持ち出せば、妻のように幸運になれるのではないかと。

 それだけじゃない。ナナキ村は、畑が整備されていてあたかも人が住んでいるかのようであった。そこも『遠野物語』の設定と似ている。

 また、次巻では「マヨイガ」に再度訪れた男が不幸になる話もある。「マヨイガ」に頼るばかりではなく、きちんと地に足をついて生きなさい、という教えでもある。

 『迷家』は『遠野物語』を少なからずオマージュしていることがわかる。

 

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柳田国男成城大学HP

 

終わりに

  何かと批判が多い作品であったが、個人的には面白かった。

 私の周りの友達も、面白いっていってたんだけどねえ…

 まあ、人それぞれでしょう(笑)

 それでは。

 

 

[rakuten:book:17948820:detail]

 

【考察】『パーフェクトブルー』~現実が虚構に、虚構が現実に~

 この自粛ムードの最中、私は『PERFECT BLUE』を見た。1997年に上映された今敏監督のアニメ映画である。今敏監督の作品はこれまでに『妄想代理人』や『パプリカ』を見たのだが、難解なのにどこか引き込まれる世界観に私も魅了され、本作もワクワクしながら見させていただいた。

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出典:https://gensun.org/

 

 

 

あらすじ

 主人公、ミマは事務所の意向で、アイドルから女優に転身する。ミマのマネージャー、ルミはアイドルに戻ることを勧めるも、ミマは「自分が決めたことだから」と濡れ場シーンも果敢に挑む。しかし、ストーカー被害に加えて、女優としての職業に疲弊する彼女の周りで、次々と殺人事件が発生する。

 

 本作は、始終アイドルと女優の板挟みにあう主人公を描いている。殺人事件がメインではなく、それを通じた主人公の葛藤を心の崩壊を軸に話が展開される。

 今回、本作について私なりの考察を考えてみた。もちろん個人的なものなのでこれが正解と決めつけることはできないが、参考程度に読んでいただきたくとありがたい。

 

 ネタバレを多く含んでいるため、未視聴の方はご注意ください。

 

考察

 このアニメの最大の見所は、やはり現実と虚構の目まぐるしい入れ替わり立ち替わりだろう。どこが現実で、どこが妄想か、一度だけ見ただけではなかなか理解できるまい。私も複数回繰り返してみても、未だ分からない点は多くある。

 

幻影

 前述のように、ミマは「女優としての自分」に満足しておらず、「以前のアイドルとしての自分」との間で絶えず葛藤していた。

 私は、女優なんかじゃなく、アイドルになりたい。そんな願望が、また違う『ミマ』を産み出した。

 

 アイドルとしてのミマは、彼女が作り出した単なる幻影なのだ。

 

 ストーカーや女優としての職業に苦悩するミマの前に、幾度となく幻影は現れ、彼女を誘惑する。アイドルに未練を持つ幻影にとって、それでも女優の道を進むミマやそれに協力する大人たちは邪魔な存在だ。だから、彼らを殺し、ミマ本人も襲撃した。

 でも、どうやって?

 そこで、劇中の先輩女優落合エリの言葉を拝借する。

 

幻影が依り代を見つけたとしたら?

 

 当然、幻影で人は殺せない。「幻想が実体化するなんてありえない」のだから。しかし、依り代、つまり誰かに取り憑いてその人の手で犯行を行うことはできる。

 彼女のヘアヌードを撮った写真家を、幻影に取り憑かれたミマ本人の手で殺したのではないか。実際返り血のついた衣服はミマの家にあり、幻影から解放されたミマは、それを見つけて腰を抜かしている。もちろん本人は殺した記憶なんてない。なぜなら、幻影の意志で殺したのだから。

 

 だが、幻影の被害者は彼女だけではない。彼女のマネージャー、ルミも対象だった。

  このアニメは、『美麻の部屋』というサイトがカギになるだろう。このサイトはアイドルとしてのミマの生活が事細かく綴られており、ファンの中には本当にミマが運営しているものだと勘違いしている人もいた。しかし、それはミマがアイドルから女優へ転身した後も続き、疲弊するミマに追い打ちをかける。

 

 おそらく、『美麻の部屋』を運営していたのも、幻影に取り憑かれたルミだろう。ミマはパソコンの知識が疎く、度々ルミに教わっていた。ルミを通じて、幻影がサイトを運営していたのだ。

 そして、幻影に操られたルミは、ミマに汚れ役を任せた事務所社長田所を殺害、ミマを町中追い回す。しかし、剥がされたウィッグ(?)に気を取られ、自動車のブレーキ音・ライトを歓声・スポットライトと勘違いし、車に轢かれる。幸い大事には至らなかったものの、精神科に送られ、医師は『解離性同一性障害』のような症状をほのめかしていた。

 病名としては解離性同一性障害、いわゆる二重人格として出るだけで、実際には幻影がまだルミを依り代として取り憑いているのではないか。

 では、なぜルミに取り憑いたのか。ルミも元アイドルであったが、それに未練を抱いているようだ。幻影とって、ルミもミマに近いものを感じたのかもしれない。

 

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 看護師さん二人がミマを見つけ、「うっそー、ミマなわけないじゃん」とこそこそ噂話をしていた。

 ミマはそのまま車に乗り込み、バックミラー越しに笑みを浮かべ、「私は本物だよ」と呟き、物語は幕は閉じる。

 鏡は本音や真実を映すものと言われている。白雪姫の「鏡よ、鏡」がその最たる例だ。本作も同じく鏡がそのように扱われている。

 電車のガラス窓に映ったミマが、一瞬アイドルのミマとして映し出されたり、アイドルのミマになりきっている(憑りつかれた)ルミも、鏡やガラスに反射した姿はルミそのものだ。

 

 しかし、バックミラーに映るのは、本物のミマ。つまり、幻影としてのミマから解放されている。

 今までアイドルとして男性に人気があったミマであったが、女性にも認知されやすい女優としての道を進んでおり、しかもそれに対して、本物だよ、と呟き、鏡はミマ本人を映している。ミマが女優の道に進むことに、葛藤や躊躇いもなくなっているのだ。

 

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出典:https://gensun.org/

 

風刺

 今監督は人間の内面を描いているだけではなく、何か風刺じみたことも描かれている。私が気付いたものを、2点紹介しよう。

 

過去に固執する人間とストーカーの極端な言動

 ルミやストーカーは、アイドルとしてのミマに執着していた。女優に転身し、レイプシーンを受け入れたミマに、必死にアイドルに戻ることを勧めるルミ。ミマのヘアヌードが掲載された雑誌を買い尽くし、他者に彼女の不埒な姿を見せるまいと試みるストーカー。

 二人とも、アイドルとしてのミマに執着し、女優としてのミマを受け入れない様子だ。しかし、ルミとストーカーでは、少々執着の意味合いが変わってくる。

 ルミは汚れ仕事に取り組むミマを、本気で心配していたように思えた。

 一方で、ストーカーの場合は、純真無垢の象徴であるアイドルから一変、女優に転身した彼女を「汚れた」と感じている。純真なミマを自分だけのものにしたい、ミマを他の色に染められたくない、自分の色に染めたい、という欲望だろう。実際に最初は自身の掌にミマを乗せ(る妄想をし)、最終的にストーカーはミマをレイプしようとしている。

 つまり、ストーカーの動機は彼女への心配でも何でもなく、単なる独占欲の現れなのである。

 

テレビカメラの向こう側

 私自身芸能人でも何でもないので、その業界のことはさっぱりであることはご了承願いたい。

 シナリオよりもキャスト優先、無理強いさせるお色気シーン、事務所のゴリ押し。ミマもドラマのレイプシーンに苦悩していたが、周りには隠していた。しかし、自宅のネオンテトラ(?)が死んでいるのを見て、ミマの悩みは爆発。「やりたくないに決まってるじゃないの!」と泣きながら悶えていた。人間に管理されないと生きていけないネオンテトラに、自分を重ねたのだろう。

 

 所詮、自分は誰かの言いなりなのだ

 皆にいい顔しないと、生きていけない

 

 我々はカメラの外側は見えないけれど、そこでは誰かが涙を流しているのかもしれない。

 

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出典: https://matome.naver.jp/odai/2147046176858360401

終わりに

 今監督の作品は、現実と虚構の往来を描いているものが多い。現実と虚構のどちらも対等に描くスタイルで、国内外問わず、様々な人にその世界観を魅了させ続けた。ここに、今監督の功績があるに違いない。『パプリカ』や『妄想代理人』も今後紹介しようと思う。

 あと、かなりエロかったので、もう一周します。

 

あと、EDでルミの声優が松本梨香さんだと分かった時は、かなり驚いた。

ポケ○ン、ゲットだぜ!!

 

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