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【考察】『かくしごと』~飽和した日常系に新たな風を吹き込むか~ 前編

 『かくしごと』は2020年春アニメの一つである。一人娘の姫(ひめ)に自身の職種である漫画家を隠し通す父親可久士(かくし)の話だ。ギャグ要素が多く、非常にテンポよく見ることができる、日常系のアニメ作品だ。

  とは言うものの、私はあまり日常系のアニメを見ない。もちろん『けいおん!』『のんのんびより』など大好きな日常系の作品はあるけれども、大抵の作品は私はどうしてか途中で飽きてしまう。

 しかし、私はこの作品に夢中になった。ではなぜ、日常系に飽きる私がこの作品の虜になったのか。きっとそこには、他の日常系の作品とは一線を画す特徴があるからに違いない。

 

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出典: https://kakushigoto-anime.com

 

 今回初の試みとして、前編と後編で記事を分けようと思う。こちら前編では主に「日常系」について考えていきたい。

 

日常系とは

 まず、日常系(空気系とも)を私なりに定義してみようと思う。様々な方が様々な形でこれを定義しているが、私はこう定義する。

登場人物の余計な関係性・緻密な設定・ストーリー性・メッセージ性・伏線などを排除し、時間や空間のような最低限の舞台に登場人物がコミュニケーションをとる作品

  いわば、必要最低限の世界観のなかで、登場人物が中心となって展開される系統のアニメだ。

 例えば、『けいおん!』『ご注文はうさぎですか?』のように、多くは複数の未成年の女性が登場するが、最近では男性が登場する作品(ハーレム作品等)や、逆に男性だけが登場するものも多くある。

 また、日常系はギャグ作品との線引きが難しいと言われるが、主に視聴の目的だろう。ギャグ作品の場合、視聴者は「笑い滑稽さ」を求めるが、一方で日常系では「癒しかわいらしさ」を求める。

 故に、日常系は「萌え要素」が必要不可欠なものとなってくる。

 

日常系とキャラ文化

 私は、日常系は「キャラ文化の極地」であると考えている。私がよく言う「キャラ文化」を、ここで簡単に話しておこうと思う。

 キャラ文化とは、ストーリーやその裏にあるメッセージ性より、キャラクター(あるいは声優)にスポットライトを当てる文化だ。

 この文化の浸透は、消費者と生産者の二つの側面で説明する必要がある。

 消費者は、二次創作にその原点がある。80~90年代の同人誌の発展により、本来のストーリーを度外視し、キャラに焦点を当てたオリジナルストーリーが展開されることがある。

 00年代、ニコニコ動画YouTubeMAD動画が流行する。これもまたキャラクターが重要視され、その作品のストーリーは無視されがちだ。

 10年代、誰もがスマホを持ち、ネットがより身近なものとなった。これによりTwitterやpixivでキャラクターの二次創作や画像がより多く拡散されるようになった。ここでも、ストーリーの居場所はない。

 一方、生産者側もこの文化に火をつけた張本人である。東浩紀氏は、『新世紀エヴァンゲリオン』の制作会社が『綾波育成計画』を発売したことを皮切りに、生産者も本編のパロディのような作品を販売しているという。(例えば、『進撃の巨人』のパロディ作品『進撃! 巨人中学校』が公式に販売されている。)

 

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出典: https://www.broccoli.co.jp

 また、前回の私のブログ*1にもあるように、アニメ制作は資金がかかるためキャラクターのグッズで資金を回収する。無断転載の横行もあり、制作会社はこの方法で利益を得ている。その影響で、ストーリーの面白さよりキャラのかわいさ・カッコよさが優先されてしまった。

 このキャラ文化の浸透は、ストーリーの衰退を呼んだ。映画・アニメ監督の押井守氏は「物語の退潮が著しい」と危惧した。*2 そして衰退が加速したストーリーが、とうとう無になった。これが、「日常系」として落ち着いたのではないのだろうか。

 

ここが変だよ、日常系

 ここで、私が覚える日常系の違和感について、いくつか書こうと思う。

 

 倒錯したコミュニケーション

 まずそもそも、我々人間はどのようにして他人を理解していくのか。それは、紛れもなく「コミュニケーション」である。我々はコミュニケーションを行うことで、人の意見や性格を知り、他人のブラックボックスな心を少しでも理解し、徐々に関係を築き上げていく。

 しかし、日常系はどうか。登場人物は互いにコミュニケーションをとるけれども、それは他人を理解するためではない。むしろ、完璧な関係が成立した上で会話が行われている。もちろん、現実では「完璧な関係」などありえない。(アニメの世界に現実を持ってくるのはナンセンスだと言われればそれまでだが)

 本来「人と関係を築くため」の手段にすぎないコミュニケーションが自己目的化していて、なんだか変な気分になる。

 すなわち、彼女たちが行っているのは倒錯したコミュニケーションでしかなく、その意義はただ一つ、視聴者が求める「萌え要素」の一環でしかないのだ。

 

時間・空間の固定化

 日常アニメといっても、時間や空間の設定は現実に依存しがちだ。登場人物は中・高校生、場所は学校やバイト先が多い。そして時間や季節に応じて行われるイベントも、入学式・夏冬休み・文化祭・ハロウィン・クリスマスなど、現実に即する。いわば現実のコピーだ。

 だから、作品ごとに設定が被る。もちろん作品それぞれに違った展開が工夫されているが、如何せんストーリーがないので、結局どれも似た色になる。これが新味のない原因なのかもしれない。

 

心のない思春期少女達

 日常系の多くは「思春期の少女たち」が多く登場する。特に思春期という多感な時期なので、外見だけなく内面も書く必要がある。思春期で発生する将来の不安や人間関係の悩みなど、慎重に書かなければならない。

  だが、日常系において「思春期の子にしては不自然だ」と思う節がある。例えば「勉強を忘れてのうのうと生きる」であったり、「将来を案ずることなくのうのうと生きる」であったり、ハーレム作品に限定すれば、「経緯を省略して唐突に主人公に好意を寄せる」であったり。ロボットじゃないんだから。

 私は、これはかなり危険なことに思える。思春期特有の不安や悩みを無理やり喪失させ、あたかも自分の人生を何も考えずのらりくらりと過ごしている。

 これは思春期少年少女の本来の姿ではない。

 「アニメにリアルを持ち込むな」という意見はごもっともだ。しかし、思春期の人間の日常を模している以上、現実の人間を投影する必要がある。彼女たちの行動に因果関係を設けるためには、心情描写にも注目するべきである。ただ起こったことを会話だけで成立させては駄目なのだ。

 男の妄想垂れ流しは、抜きアニメだけにしろ!

 

 終わりに

 これは一般論で話しているので、個々の作品を批判しているわけではない。

 そして冒頭にも述べた通り、『けいおん!』などは大好きなので一概に日常系が嫌いとはいえない。ただ、苦手なだけなのだ。

 

 だが、『かくしごと』は日常系であるが、その特質を維持しながらもこれらの違和感を解消した唯一無二の作品だと感じた。

 

 では、どの点でそう感じたのだろうか。

 それはまた後編で。(近いうちに出します。ご覧になってくれたら幸いです。)

 ご指摘やご質問がございましたら、ご遠慮なくコメントください。

 それでは。

『鬼滅の刃』が遺した貢献と課題

 5月25日、『鬼滅の刃』が華々しくクライマックスを遂げた。昨今ジャンプ作品の人気が久しく燻っていた中、これほど売れた作品は珍しい。

 オリエンタルラジオ中田敦彦氏など、多くの方々が「なぜ『鬼滅の刃』は売れたのか」について分析しているので、今回私は「『鬼滅の刃』が遺したもの」について語ろうと思う。

 

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出典: https://www.aniplex.co.jp

 

アニメへの認識の変化

 大衆は、特に深夜アニメをどこか色眼鏡で見ていたはずだ。メディアも、ある事件の犯人とアニメを関係性を執拗に強調していたことがある。

 しかし、今回の一大ムーブメントは、メディアも積極的に取り上げた。その影響で、アニメ・漫画オタクでない人にもこの作品が普及した。本作はグロテスクな描写もあるが、女性や子どもまでもが、この世界観に魅了された。

 やはりネットの台頭によって、ネットの文化が普及したのだ。『鬼滅の刃』の人気は、それを完全に具現したものであるといえる。

 ネット文化の浸透はこちらでまとめているので、是非ご覧ください。

 

yururiyuruyuru.hatenablog.jp

 

キャラ文化の再確認

 アニメは専ら、キャラを中心として放映されることが多い。要因は様々あるが、ドラマのような実写と比べて、アニメ制作は資金や労力、時間がかかる。その資金をキャラクターグッズや声優のイベント等で回収する。昨今は違法アップロードもあるため、制作会社はこのような方法で利益を得ることが往々にしてある。

 これが、キャラ文化の始まりだった。ストーリーよりもキャラを重視したことで、興業化は成功し、世界的に日本のアニメは人気を博した。

 そして今回の『鬼滅の刃』の流行も、やはりキャラクターを中心としている点もある。

 以前にも『進撃の巨人』のリヴァイ兵長や『ヒロアカ』の爆豪のような、比較的ストーリー性のある作品でも圧倒的に人気なキャラが際立って存在していた。そして、『鬼滅の刃』にも同じ現象が起こっている。(善逸など)

 ネットの登場で、Twitterやpixivでそのキャラを描いた画像が拡散される。それがより一層キャラ文化を浸透させ、ついに大衆にまで行き渡ったのだ。

 (とはいっても、大衆文化であるテレビドラマも、ストーリーよりキャスト目当てで視聴する人も多いので、大衆も潜在的にキャラ文化と似た性質を持ってはいたが)

 

違法アップロードの横行

 勿論、これは『鬼滅の刃』だけの問題ではなく、全ての作品に通じるものだ。しかし、『鬼滅の刃』は需要が高いためか、無断転載の数はより多く見受けられた。

 

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2020年5月27日現在のYouTubeの検索予測結果 赤枠が漫画の無断転載を表している

 

 YouTubeではアニメより漫画の無断転載が多かったが、いずれにせよ無断転載や海賊版著作権法に違反しているので、いずれ出版社が何らかの処置を行うだろうが、今後も付きまとう課題となるだろう。

 というより、検索候補に出るほど無断転載の漫画を視聴していたことに驚愕した。

 

 民度

  さて、人気になればなるほど付随される問題。それは「民度」だ。

 よく、「『鬼滅の刃』のファンは民度が悪い」と耳にする。他の作品を排斥し、『鬼滅の刃』を一番だと豪語しているという。

 確かに全ての作品のファンに秩序を乱すものは一定数存在し、分母が多ければそれもおのずと増える。しかし全体から見れば彼らはマイノリティであり、悪目立ちしているだけなので、彼らを批判するならまだしも、『鬼滅の刃』を批判するのはお門違いだ。

 これは正直どうしようもないが、実際作品の評判を落としかねないので、ファン同士で注意し合うことが重要である。

 すなわち、我々ファンの態度も改めるべき時なのかもしれない。

 

おわりに

 民度の問題も、逆に考えれば、新規のアニメファンが増えたといえる。

 『鬼滅の刃』の流行で、アニメの大衆への浸透は明白となった。アニメは今重要な局面に立たされているのかもしれない。

 今後これらの課題を解決しながら、新規のアニメファンを取り込むか否かが、命運を左右しうる。

 私は、アニメがより良いものになることを切に願う。

 

 間違いがございましたら、何なりとご指摘ください。

 それでは。

 

『生徒会役員共』~私の下ネタの根源~

先日、あるアニメが公式に投稿された。(現在はリンク切れです)

 

www.youtube.com

 本作は、ボケ役の会長天草シノ・書記七条アリアとツッコミ役の副会長津田タカトシ・会計萩村スズの4人を中心に繰り広げられるギャグアニメです。もちろん色々なキャラクターが登場しますが、そのどれもが個性的で津田を苦しめます。

 このアニメ、恐ろしいほどの中毒性。なぜか何度も見てしまう。

 驚異的な下ネタを早いテンポで畳みかけ、的確な津田のツッコミが本当に癖になる。

 

 私が中学生の時に漫画を初めて読み、次にアニメに入り、だんだんと私の下ネタは培われてきた。当時は何言ってるのか分からなかったけど、今では分かる。

 

 今はこんなんになってしまったよ、お母さん。

 

 ラジオも聞いてみたのですが、ツッコミ役2人の中の人の方が実はやばいんですよね。アニメ以上にはっちゃけちゃってます。

 コロナで予定通り公開されるのかは不明ですが、今年は二度目の劇場版も公開されます。下ネタが苦手でなければ、本当に爆笑必至の作品なので是非ご覧ください。

 

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出典: http://king-cr.jp

 

 

 

 ↓この辺にスズ

 

【考察】『妄想代理人』~現実逃避とデータベース消費~

  『妄想代理人』は2004年に放送されたテレビアニメで、今敏監督が手掛けた初めてのテレビアニメです。

 今監督は平沢進さんのファン(通称馬の骨)としても有名で、平沢進さんのOP曲「夢の島思念公園」に加え、不気味に笑う登場人物が印象的です。

 今回はこの作品を自分なりに考察してみました。

 ネタバレを多く含みますので、未視聴の方はご注意ください。

 

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出典: https://anime.dmkt-sp.jp

 

 

あらすじ

 大人気キャラクター「まろみ」を生み出したデザイナー鷺月子は、スランプに陥っていた。その帰路彼女は通り魔「少年バット」に襲われ、怪我を負ってしまう。それから「少年バット」に襲われる事件が多発し、世間を恐怖に陥れていく。

 

考察

少年バットの正体

 「少年バット」は現実に疲れ切った人を次々と襲う。被害者は怪我を負うものの、どこか晴れ晴れした顔をしている。

 そして、「少年バット」の模倣犯として留置されていた偽少年バットも、「少年バット」によって殺される。そこから連続通り魔事件を追っていた元刑事馬庭は、「少年バット」を幻想妄想と定義した。

 

 彼の正体は、馬庭の言う通り月子が生み出した幻想だった。幼い頃、彼女は愛犬を自身の不注意で亡くしてしまう。自身の過失で起こったもののはずなのに、彼女は内気な性格のせいで父親に真実を言えず、「少年バット」に殺されたとでっちあげた。

 ここに、妄想の「少年バット」は現れたのだ。

 「少年バット」は初めは普通の大きさだったものの、市民の噂や妄言でどんどん肥大化し、最終的に手が付けられなくなるほど大きくなってしまう。ここからも、「少年バット」は単なる幻想にすぎないことが分かる。

 

「まろみ」と「少年バット」の関係性

 そして、もう一つ忘れてはならないのが、「まろみ」だ。「まろみ」は月子が生み出したキャラクターで、世間を大席巻している。

 「まろみ」には元になったものがある。それは、彼女が幼い時に飼っていた愛犬の名前だ。前述の通り彼女はその愛犬を亡くし、その責任逃れのために「少年バット」を作り上げた。

 最後、月子が幼少期の事件を自身の過失と受け入れることで、「少年バット」も「まろみ」も消滅する。つまり、「まろみ」も「少年バット」も同時に生まれ、同時に消えたのだ。

 

 私は、この「少年バット」と「まろみ」の関係性は、「暴力」と「癒し」の関係性と同義であると考えている。

 「少年バット」によって暴力をもたらされた者は、心地よさそうな表情を浮かべている。暴力は、辛い現実から解放できるのだ。

 一方で、「まろみ」もまた同義だ。癒しキャラとして、「まろみ」は爆発的なブームになった。しかし、結局それは辛い現実を覆いかぶせるだけの存在であり、「まろみ」が一斉に世界から消えてしまうと、現実に直面せざるを得なくなり、「まろみ」欲しさに街や人は混乱状態になってしまう。

 一見、「暴力」と「癒し」は正反対の意義として捉えられる。しかし、「暴力」も「癒し」も現実逃避させるものとしては同義であり、「暴力」は時には人を癒し、「癒し」は時には暴力になりうる。

 つまり、それらは表裏一体な関係なのだ。「暴力」も「癒し」も、現実から妄想へ逃げるための橋渡しのような役目をしている。

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今敏マッドハウス妄想代理人」製作委員会

 

黒い塊

 最終回、黒い塊が街を襲い、市民を飲み込む。私は黒い塊は少年バットの最終形態」と捉え、「まろみ」を失い現実に直面した市民を襲撃したと考える。

 そして、最後には「まろみ」と混濁し、街ごと飲み込んでしまう。しかし、月子は愛犬を自身の不注意で亡くした現実を受け入れ、黒い塊は消滅し、そこには廃墟と化した街と人だけが残った。

 荒廃した街の様子を、元刑事の猪狩はこう言った。

 

まるで、戦後じゃあねえか

妄想代理人』 第十三話「最終回。」 

 

 彼の台詞は、廃墟と化した街だけを言っているわけではない。戦前の日本は、困難な現実を、神国思想のような無根拠な理想で覆い隠ししていた。しかし玉音放送の後、終戦という現実を突き付けられた市民は、すがるものが何もないまま彼らは生き続けなければならない。このような人々の精神的な面も含めて、彼はそう言い放ったのかもしれない。

 

繰り返す現実

 街はすぐに復興したものの、そこは元と変わらず、人々は責任逃れや言い訳をしながら生きていた。そして「まろみ」に代わる新たな癒しキャラも登場し、人々を現実逃避へ誘い込む。

 結局、人間は何かにすがって生きなければならないのかもしれない。

 

データベース消費

  この作品を考察していて、どこか東浩紀氏の『動物化するポストモダン』に酷似している点が多いと思った。

 

 東氏は、オタクの消費を「データベース消費」と定義した*1。我々現代の消費者は、キャラクター(大きな非物語)のさらに背後にあるデータベースを消費しているのだという。

 例えば、萌え要素(メイド服・猫耳アホ毛etc)は単に情報であって、それらを組み合わせることで、我々は初めてそのキャラに「萌える」のだ。

 そして、作家のメッセージ性より萌え要素の嗜好や相性で判断され、即物的で単純に消費するようになった(本書では「薬物依存の行動原理に近い」としている*2)ことを、「動物化」とも定義した*3

 しかし、それは90年代においてはオタクだけにとどまらないと東氏は主張する*4

 

 今回の「まろみ」にも当てはめることができると私は考える。様々な構成要素で癒し系「まろみ」を作りだし、人々はそれを受容し、動物のように渇望する。『妄想代理人』は、このような薬物依存的な消費をする現代の人々を表したのではないのだろうか。

 『動物化するポストモダン』の初版は2001年、『妄想代理人』が放送された2004年と比較的年代が近い。やはり、どちらも90年代~ゼロ年代の世相を反映しているといえよう。

 

おわりに

 いかがでしたか? 15年以上前の作品なのに、結構現代にも通ずる皮肉や風刺が効いてますよね。

 偉そうに考察してますが、お爺さんとか正直まだまだ分からないことだらけです。

 でも、あえて謎を残して視聴者に判断を委ねているのも、今監督の作品の特徴と言えるかもしれません。

 平沢進さんのOPは、やっぱり頭に残りますねえ……。

 ほかにも今監督の作品を考察をしているので、ぜひご覧ください!

 それでは👋

 

yururiyuruyuru.hatenablog.jp

 

参考文献

東浩紀動物化するポストモダン』(講談社、2001年)

*1:東浩紀、『動物化するポストモダン』、講談社、78頁。

*2:東浩紀、同右、128頁。

*3:東浩紀、同右、126頁。

*4:東浩紀、同右、137‐138頁。

やっぱ、杉田智和ってすげえや 

 2020年4月26日、ある一本の動画が投稿された。

 


『ハレ晴レユカイ』踊ってみた?【杉田智和/AGRSチャンネル】

 

 私はあまり声優には詳しくないのだが、杉田智和さんなら知ってる。

 もちろんハルヒに彼が出演したことも知ってるし、『ハレ晴レユカイ』も知ってる。

 あれから三日経ち、再生回数は460万回、高評価は31万と、驚異的な数字をたたき出している。

 ただ動画の内容としては、ダンスは上手いわけでもない。

 これは『杉田智和』が踊っていることに意義があるのだ。

 

アニメ文化の普及

※今回は、テレビを大衆的なものと定義します。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』は爆発的に売れ、深夜アニメのパイオニアと呼ぶにふさわしいが、その人気はネットやアニメオタクなど限定的なもので、それほど大衆にまで浸透したとは感じない。

 当時はニコニコ動画黎明期であったものの、大衆向けのコンテンツかと言われればそうではない。一部の地下活動的なムーブメントだった。

 しかし、今はスマホを誰もが所有し、老若男女誰もが手軽にネットに繋がる時代だ。

 さらに、鬼滅の刃など大衆にもアニメが普及し、徐々にアニメに対する理解も深まってきた気がする。

 サブスク(Netflix・U-NEXT)やYouTubeの流通、もしくは皮肉にもアニメの違法アップロードのおかげでその人気は日本を超え、世界中に広まっていった。その証拠に、この動画のコメント欄には外国語も多く見受けられる。

 YouTubeなどネットが盤石な地位を築いたからこそ、このようなことが起こり得たのだ。

テレビに映るネット文化

  2000年代は、まだまだ主流だったテレビでは、なかなか声優にスポットライトを当てることはあまりなかった。(野沢雅子氏や山寺宏一氏など、決していないわけではない)

 しかし、今はネットがテレビと対等にいる時代。声優やYouTuberが様々なテレビ番組に出演し、テレビで活躍した芸人や俳優がネットで配信できる。

 ネットの色が比較的強い声優もテレビに顔出しし、認識も広まっていった。

 

 こういった声優やアニメに対する大衆の評価が変化し、浸透した。

 特にネットで人気の杉田氏は、アニメオタクでない人でも知っている人は多い。それはネットが身近にある今だからこそ起こる。

 この動画の人気は、ニコニコ動画の時のようなアングラ的なものではない。ネットの活躍で大衆にも浸透した、時代の産物と言えよう。

 

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出典: https://anime.dmkt-sp.jp

おわりに

 本当にこの動画は癖になる。何度もループして見ちゃう。

 約1分の動画でこれだけ癖の強い動画だからこそ、こんなにも集客力があるのかもしれない。

 そして、この動画にここまでの付加価値が付いたのも、ひとえに彼の長年の努力と人気によるものだ。これは、本当にすごいことだと思う。(小並感)

 さらっとまとめたので、間違えがあれば何なりとご指摘ください。

 それでは。

【感想】『すかすか』、見終えた

 今日、終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』を見終えた。皆さんは「すかすか」と呼んでいるようなので、私もそう呼びたい。

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出典: https://anime.dmkt-sp.jp

 

 果たしてこの『すかすか』、ごりごりのセカイ系だなあ。

 まあ、私はすごく好きなのだが。

  

 最終回は感動したし、ちょっとうるっときた。

 

 ただ、色々疑問に残る点は数多くあった。

 例えば、赤髪メイドやしゃべる骸骨は一体なんだったのだろうか。

 

 

 それは原作を読めってことなのかしら。

 

 

 正直セカイ系なので、周囲のモブの伏線は、いらないといえばいらない。

 モブが出しゃばってきても困る。

 だから、これでよかったのかもしれない。

 

 

 二人の世界に、邪魔者は不要だもの。

 

 

 

 

【考察】『イヴの時間』から学ぶ近未来の人間

 『イヴの時間 Are you enjoying the time of EVE?』は、2008年にインターネット公開、2010年には映画化されたアニメ作品である。今回は、この作品についての考察を書きたい。

 ネタバレを多く含むため、未視聴の方はご注意ください。

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出典: https://anime.dmkt-sp.jp

あらすじ

 舞台は近未来の日本であり、人間とロボットが共存している社会だ。家事や農業などをロボットが担い、人間の仕事をロボットが代替するようになった。しかしそれに伴う社会問題を懸念し、「倫理委員会」は人間とロボットの共存社会を否定している。

 主人公のリクオは家庭用アンドロイド「サミィ」を所持していたが、そこに覚えのない記録を発見、友人のマサキとともに追跡すると、カフェ「イヴの時間」に到着した。

 そこは「人間とロボットの区別をしません」という規則の下で運営され、多くのロボットが入店していた……

 

考察

ロボットへのステレオタイプ

 多くの人が考えるロボットへの価値観とは、多分こんなものだろう。

 

 ①人間が主、ロボットが従。

 ②ロボットに感情移入してはならない。

 

 現代でロボットやAIが使われる理由として、人間社会をより便利なものにするためであろう。人間の仕事の一部をロボットに任せることで、面倒な仕事を短時間で正確にできる。これは、あくまで人間が主、ロボットは従という関係性でもある。それは、本作でも同様だ。

 

 しかし、本作では「ドリ系」と呼ばれる社会問題が存在する。それは、ロボットに対して感情移入をしてしまう病気や、それを発症した者のことであり、恋愛にまで発展してしまうケースもある。

 つまりそれは、かつての人間とロボットの関係を忘れ、ロボットを人間と対等の立場に置いているのだ。また、それを「病気」・「社会問題」と認識されている時点で、この世界の大多数もまだ「人間が主、ロボットは従」という価値観のままだと言える。

 その理由の一つとして、ロボットには感情がないということだろう。ロボットは、ただ命令に従って淡々と仕事をこなすだけの存在だ。そんなものに感情移入してはならないのだ。

 

心の問題

 しかし、「イヴの時間」は違っていた。そこでは人間もロボットも対等に接し、ロボットも悩み、泣き、笑っている。心がないはずのロボットに、なぜそんなことが起こりえるのか。作中の台詞を引用する。

 

生まれたばっかりだと、こころの中は何にもないんだって。空っぽ。

でもね、いろんな人と話して、いろんなものを見て、感じて、そうすると心が出来てくるんだって。

でもまだまだ、これからもっといろんな心が出てくるんだって。

イヴの時間』劇場版 

  

 人間が産まれた直後、赤ちゃんは無の状態であり、様々な物や人に触れて、心が出来上がる。

 つまり、本作の世界において、ロボットが感情を持つ方法は、人間と同じなのだ。

 

 また、「ドリ系」が社会問題化し、特に幼少期はロボットに対してなついてしまう例が多い。マサキもその一人である。彼は幼少期、ロボットの「テックス」になついていたが、現倫理委員会の職員である父にテックスを改良され、テックスは一切口を利かなくなった。その影響で、マサキは今ではロボットは物と捉え、「ドリ系」には否定的な立場である。

 しかし、「イヴの時間」に現れたテックスはマサキへの気持ちを吐露し、マサキは涙を流す。彼は心のどこかで、テックスに対する未練があった。涙はその発露であり、彼もまたロボットに感情を捨てられなかった。

 

 この作品は、本来人間に従うだけのはずのロボットに感情を与え、人間と対等に描くことで、我々もどこかロボットに感情移入をしてしまう。しかしそれを本作は悪とせず、むしろ美しく描いている。

 

 『イヴの時間』は、我々の固定概念に一石を投じる作品だと考える。

 

ナギと「トキサカ事件」

 「イヴの時間」のオーナーであるナギは、人間とロボットを分け隔てなく扱い、感情移入をする、一般的に「ドリ系」と呼ばれる人だ。しかしそれには、彼女の壮絶な過去があった。

 倫理委員会の職員がロボットを制止しようと振りかざした警棒が、少女に当たり、重傷を負わせた事件、いわゆる「トキサカ事件」が起こり、彼女はその被害者だった。EDでは、幼いナギはロボットと仲良く接していたが、そのロボットが破壊され、彼女自身もけがを負っていた。

 この出来事が、倫理委員会に対する反発を生み、大人になった今でも「人間とロボットは対等」という考えを持っているのだろう。

 

イヴの時間』の由来 

  イヴ(エバ)とは、『旧約聖書』に出てくる女性で、夫アダムの骨で作られた。神に禁じられた「善悪を知る樹の実」を食べ、アダムに勧めてしまったことで、2人は神によって楽園を追放された。この罪のために女性は夫に仕え、産みの苦しみを受けるようなってしまった。

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楽園から追放されるアダムとエバ ドレ画 Wikipedia

 

 私は、本作は「アダム=人間」、「イヴ=ロボット」と定義していると考える。

 ロボットは人間によって作られ、人間に従って作業している。ロボットは前述の通り、人間社会を便利にするために生まれてきた、いわば人間の従者だ。

 カフェ「イヴの時間」は、ロボットにとって楽園の場所だ。人間もロボットも区別しない、楽園だ。しかし、そこから出ると元の人間に従うロボットになる。私は、それが『旧約聖書』のイヴと重ねて見える。

 つまり、ロボットがロボットでなくなる、いわば楽園の時間として、「イヴの時間」をタイトルにしたのではないだろうか。

 

将来の人間

 この話はフィクションではあるが、近い将来、このようなことが起こりうるかもしれない。ではその場合、我々人間はどうするべきなのか。本作にもたびたび登場する言葉、「人間性」について絞って考えてみる。

 まずは、筑波大学准教授の落合陽一氏の著書、『超AI時代の生存戦略』を引用する。

 

「人間は本当に思考しているんだろうか? 人間が思考しているというのは、実はプロセスで書けるのではないのか?」

 そういうような議論がある中で、人間性の定義というのは現在進行形で変わっており、これからも変わってくるはずだ。昨今の機械学習手法の一つディープラーニングの発展とともに人間のように思考する知性は生まれつつある。

 たとえば、「心身がある」ということが人間性の定義だったとしたら、人間じゃないものも人間性を帯びてきてしまう。近代に私たちが獲得した人間性というものをアップデートしないと、人間性という残骸の内側は、どこにもたどり着かなくなる。もしくは人間性そのものを諦めなければならなくなるはずだ。

 私たちは、今、人間が人間らしく生きなくてはならないという自己矛盾を抱えたままユビキタス時代、およびデジタルネイチャーの時代に突入したのだ。

(中略)

 主体的であるという人間性、自ら思考するゆえに人間であるという考え方は、近代以降に獲得されたものなので、今、次の主体なき人類の時代に移ってきているともいえるわけだ。

落合陽一 『超AI時代の生存戦略』 大和書房 p37‐38

 

 そもそも人間性とは何であるかが分からない。それなのに人間らしく生きることを求められ、現代の人は苦悩する。

 だから、「我思う、故に我在り」と近代にデカルトが定義した人間性を更新し、新しいデカルト以後の定義にシフトするべきだと述べている。

 

 その上で、私は何かを創造し、それに順応するのが人間なのかなあ、とふと思った。

 

 動物は環境に適応するだけだが、人間は歴史の中で無数の道具を創造した。

 そして、鉄道や自動車、携帯電話を開発した人間は、それに適応するかのように生きてきた。また、時には改良して、人間に都合のいいように道具を使いこなした。

 中には、倫理委員会のような批判もあったかもしれない。しかし時代が進むにつれて、それらの意見はマイノリティとして淘汰され、結局は適応していった。

 私はAIもそうなると考えているし、人間に欠かせない存在になっていくとさえ考えている。

 もちろん個人的見解なので、正解とは思わない。ただ、一意見として受け取っていただけたら幸いだ。

 

 

おわりに

 ロボットや近未来と聞くとSFを思い浮かべる人も多いと思うが、本作はより人間やロボットの心情に焦点を当てた、一風変わった作品だった。

 コミック版もあるらしいので、読んでみたい。

 サリィちゃん、うちにも欲しいなあ。

 それでは。

 

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