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気ままに生きます

【考察】『KITE』シリーズ ~ハリウッド化までされたエロアニメ~

 最近、『A KITE』の18禁版および『KITE LIBERATOR』を見た。監督はかの有名な梅津泰臣氏が務めており、なんとハリウッド化もされている。これは是非見てみたいと興味を持った。

 しかし、18禁版がなかなか見つからない。サブスクに18禁版は勿論なく、近所や都内のTSUTAYAで探してもてんでダメ。「これは長い旅になりそうだ……」とか思い始めた矢先、我々が日頃お世話になっているDMMさんにレンタルがあるではないか。即ポッチってレンタル。ワイの努力……

  あっけない幕引きだった、ぶらりエロアニメの旅。それでもその努力が無駄にならないほどに完成度の作品であったことは間違いない。

 前置きが長くなってしまって申し訳ないが、今回はこちらのシリーズの考察を書こうと思う。

 (今回は都合上、ハリウッド版は割愛させていただきます)

 

 ネタバレを多く含みますので、未視聴の方はご注意ください。 

 

 

A KITE

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©︎1998・梅津泰臣・アームス・ビームエンターテインメント

 

 

あらすじ

 本作の主人公サワは、女子高校生にして殺し屋という表と裏の顔を持っている。彼女は赤井に両親を殺され、彼によって殺し屋として、女として育てられた。赤井もまた、鑑識と殺し屋という二つの顔を持ち合わせている。

 サワはある時、同じ殺し屋であるオブリと出会う。彼女は彼とタッグを組み暗殺を遂行するが、徐々に彼らは殺し屋としてではなく異性として惹かれあっていく・・・

 

 考察

 1998年に梅津泰臣監督によって公開されたアニメ、『A KITE』。18禁のアニメーションではあるものの、現在のアニメと比べても遜色がないほどクオリティが高い。緻密な作画は、彼が原画を担当した『AKIRA』を彷彿とさせる。

 

サワとオブリ

 暗殺者とは、常に孤独である。さらに赤井からの一方的な体目当ての愛に、思春期女子のサワは一生懸命に耐えてきた。そんな中、彼女は同業者であるオブリと出会う。

 親身に会話してくれるうちに、互いに魅了される二人。オブリのヘマに無邪気に笑うサワ。二人はまるでカップルのようで、とても冷酷な殺し屋同士とは思うまい。

 サワは赤井からオブリの暗殺の命を受けるも、「必ず帰ってきて、ここに」と彼を逃がす。ここで、彼女は赤井ではなくオブリと歩む道を選んだ。

 しかし、悲劇は突然訪れる。オブリはとある少女に撃たれてしまった。それを知らないサワは、「もう少しでオブリ君がくるからね」と彼を待つ。

 床板の軋む音の正体は分からないまま、物語は幕を閉じる。ただ、歩くには若干遅めな音や、電車で男に撃たれていても無事であった過去を考慮すれば、やはり正体は撃たれてもなおサワの元に訪れたオブリなのだろう。

 

サワと赤井と赤いピアス

 サワは、赤いピアスをとても大切に着けていた。彼女曰く、「両親の血が入っている」という。そのピアスは赤井から贈られたものであり、サワが赤井によって処女喪失したのを、ピアスから滴り落ちる血で表現しているように、彼女のピアスは両親への愛と同時に赤井の呪縛を表している。

 赤井とサワはしばしば体の関係を持つ。彼らのピロートークが妙にムーディで、彼女のセックスやまばたきが、生きていることを実感させる。赤井の腕の中ではあるが。

  それでも、サワは両親の仇として赤井を虎視眈々と狙っていた。ハリウッド俳優暗殺で左耳のピアスを失くした時も、赤井は彼女の銃だけを取り、彼女のピアスには目もくれなかった。赤井にとってサワは単なる暗殺者かつ性の対象としてしか見なしていなかった。ぶっきら棒な彼の態度にサワはオブリの家へ逃げ込む。

 最終的にサワは赤井を殺し、もう片方のピアスも投げ捨てたことで、両親の復讐を成し遂げ、彼の呪縛を自ら解いたことになる。

 

芸術的なエロチック

 このアニメは18禁であり、エロ描写も多い。ただ、それはオナニーのおかずというより、もはや芸術の域に近い。

 

 

 

 前述のように処女喪失をピアスから滴り落ちる血であったり、ピストン運動をおもちゃで表現するのも斬新。梅津監督の観察力に驚嘆する。

 

 昔のエロアニメあるあるだが、モザイクが雑すぎる! 下半身ほとんどモザイクやんけ! と思ったらSpecial Editionで修正されてたのね。そっち借りればよかった。

 

 エロチックな描写が苦手な方は、『A KITE INTERNATIONAL VERSION』をお勧めします。セックスシーンがごっそりカットされた全年齢版です。U-NEXTやTSUTAYAにもあるので、視聴は困難ではないと思います。

 

KITE LIBERATOR

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出典: https://anime.dmkt-sp.jp

 

あらすじ

 サワが失踪して数年後の世界、女子高生のモナカは、「死の天使」と称される殺し屋を生業としていた。一方で、娘の裏の顔を知らない宇宙飛行士の父が、不慮の事故に巻き込まれる。体が肥大化して怪物に成り果てた父が地上に飛来し、暗殺任務を遂行する娘と邂逅する・・・

 

考察

  2008年に公開された『KITE LIBERATOR』は前作の数年後の世界を取り扱っているが、前作にはなかったモンスター映画感が色濃く出ている。また、全年齢向けということもあって、過激な描写はほとんどない(せいぜいパンチラとかおっぱいくらい……)。しかし、作画は前作より格段に進化している。特に、宇宙ステーションが爆発するシーンは、ガンダムと見紛うほどの作画である。この時期は00か。

 

 共通点が相違点に

 前作と本作の主な共通点、それは「親への思い」であろう。両親の血が入ったピアスを身に着けるサワ、父から贈られたブレスレットを身に着けるモナカ。双方とも親を背負って学園生活を送り、暗殺を全うする。

 しかし、結末がまるで違う。サワは形見のピアスを捨てた一方で、モナカはブレスレットを手掛かりに父と再会を果たした。なぜ、ここまで真逆の結末になったのか。

 この理由を知るには、モナカのバイトの先輩向井万夏がカギになる。

 

向井さんの正体

 結論から申し上げるが、バイトの先輩向井さんの正体はサワではないだろうか。2人の殺し屋がいるカフェで一緒に働いていたり、モナカの護身術を一瞬で見抜いたり、ロケット花火を打つのに手馴れていたり……

 極めつけは、花火中にモナカに発したこのセリフ。

 

恋人でも家族でも、大切な人がいて大事に思うなら、自らを正さないとだめよ

 

  何とも意味深。そうとしか思えなくなってきた。

 向井は1児のシングルマザーであり、夫はいない。詳細は不明だが、仮に向井がサワだとすれば、夫はやはりオブリの可能性が高く、前作最後の足音の正体が彼ならば、傷がもとでその後死んだのだろう。たらればの羅列はナンセンスなのは承知の上であるが、結構的を射ていると思う。上記のセリフも、彼の死によって説明がある程度つく。

 

モナカとサワというギャップ

 では、なぜ「向井=サワ」であることが、結末の違いのカギになるのか。

 向井もといサワは、両親も恋人も死んでしまった不遇な存在である。一方でモナカは変わり果てた姿ではあるものの父と再会し、刑事とデートの約束をしている。

 このアニメシリーズには、「、「ギャップ」が往々にして使われている。「女子高生暗殺者」「」「エロス」のように、二つのコントラストが時に美しく、時に残酷なアニメである。

 察しのいい方は、もうお気づきだろう。すなわち、モナカサワも、『KITE』という物語におけるギャップの一つではないだろうか。

 本作の主人公モナカは、父親と再会し、恋人もできる。そんな彼女を、両親も恋人もいなくなったサワと対比している。モナカと向井が話しながら興じている「冬の花火」にも、どこかギャップを覚えるだろう。

 

 多くの箇所に「表と裏」を散りばめるだけでなく、ひいては新旧主人公の運命にもギャップを生じさせることで、我々はこの作品により一層魅了されているのではないか。

 

 正直これは「向井=サワ」という前提が間違えであれば、破綻する考察だ。だが、曲解のないものであると自負している。

 

モナカちゃんかわいい

 とりあえず、モナカちゃんはかわいい。表はドジっ子だけど裏は冷酷というモナカちゃんの性格のギャップが、なんともたまらない。訛ってるのもかわいい。僕も抹茶好きだよ。一緒に食べよ。殺してもいいから。🤗

 

 最後に

  執筆中に、下記の記事を偶然見つけた。

 

otapol.com

 

 監督自らが言及するのは面白い。『KITE』シリーズを視聴した方は、この記事も必読である。

 今ではすっかり馴染んだアニメという文化。けれども、18禁にスポットが当たることはなかなかない。そのため、私は今回『KITE』シリーズを取り上げ、裾野を広げてみようと思っている。

 梅津泰臣監督の18禁アニメ作品はもう一つ、『MEZZO FORTE』がある。今度はこの作品をフィーチャーしたいなあ…

 

(他にも『cool devices series episode07』もあったらしいです。全然知らんかった…)

 

 それでは。

【感想】興奮覚めやらぬうちに、『シン・エヴァンゲリオン』

 ※ネタバレ注意です※

 

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 10日に満を持して、『シン・エヴァンゲリオン』見てきた。しばらく経った今でも、まだ余韻が残っている。うまく言語化できるか分からないが、それをひたすらに綴ってみようと思う。

 

ゲンドウとシンジ

 本作を語る上で、ゲンドウは絶対に外せない。

 アニメ版では伝説の「おめでとう」エンド、旧劇では「気持ち悪い」エンド。そのため、本作は3つ目のエンディングとなる。どのエヴァンゲリオンにも通底するメッセージ性は、「自分と他人の距離感」であろう。

 他人が怖い。 だから心の壁を張る。 だから一体化する。

 それはシンジ君だけでなく、父のゲンドウも同じであったということが、本作で明らかとなる。

 

 ゲンドウは、幼いころから他人との関わりを避け続けていた。だが、ユイとの出会いは彼のすべてを変えたようだ。

 

(ユイとゲンドウの関わりは、漫画で詳細に描かれている。ユイ健気でかわいい)

 

 ゲンドウとユイの二人が紡ぐゴリゴリのセカイ系。しかし、その世界の変革は、息子のシンジ君によって阻止される。

 成長したよ、シンジ君。

  旧劇では人類補完計画の餌食になったゲンドウが、本作でようやく救済された形となった訳である。

 

同級生らのいる社会

 年齢的にも精神的にも大人になったトウジ・ケンイチ・委員長

 まさか出てくるとは思わなかった・・・

 

 無免許ながら医者になったトウジ、自らの技術で貢献するケンイチ、新しい命を育む委員長。死んだ世界の中で、彼らは明日に向かって生きていた。

 

 アヤナミ(仮称)も、彼らとともに誰かのために仕事に励む。 モエー

 彼らのコミュニティに曲がりなりにも順応していくうちに、感謝や苦労の気持ちを覚えるアヤナミ(仮称)。 モエー

  

 助け合うこの小さな共同体は、まるで我々の社会の縮図のようで、また私もこの構成員の一人なのだろうと改めて感じた。もっとシフト入れなきゃ。

 

 ミサトさんとかマリとか書きたいけど、キリがないのでここで終わりに・・・

 

最後に

  個人的に、綾波に放った委員長の言葉が未だに自分の胸の中に響いている。

 

生きることは、辛いことと楽しいことの繰り返し

  

 エヴァンゲリオンの完結は、正直悲しい。

 また延期だとか言ってたのも、心のどこかで「エヴァは終わらないもの」と決めつけていたのかもしれない。

 だけど、いざ公開されて終劇の文字を見ると、やるせなさと脱力感が襲ってきた。すべてが終わった。自分とともに成長してきたエヴァンゲリオンが。

 

 エヴァが終わるのは辛いこと。でも、委員長の言うように、楽しいこともまたあるはずである。

 シンジ君がようやく進み始めたのだから、私たちも日々前向きに生きていこう。

 エヴァの完結に落胆するのではなく、それを糧にして。

 

 ありがとう、全てのエヴァンゲリオン

 

 

 ・・・パシャッ

【感想】『BANANA FISH』、見終えた

※ネタバレ注意です※

 

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出典: https://bananafish.tv/

 

 今更ながら、『BANANA FISH』を見た。

 

 このアニメは(多分)女性向けだと思うが、過激な描写は我々男子にとっても垂涎の的だ。

 本作は「バナナフィッシュ」たるものを追い求める、という至ってシンプルなストーリーだ。しかし、「バナナフィッシュ」の正体よりも、その過程で絡み合う人間関係が、残酷かつ美しい。

 

 主人公のアッシュ、なんとも悲劇的な青年だ。幼くして美少年であったが故にレイプをされ、銃を握り、マフィアのボスであるゴルツィネの思うままに育てられた。

 皆、無垢な宝石を傷つけていく。それでもアッシュは、その傷を隠しながらアングラな世界で生きていた。

 

 しかし、英二という青年と出会うことで、彼の人生に一筋の光が差し込む。英二は、何の対価も求めることなくアッシュを癒す。まるで、傷ついた宝石を優しく撫でるかのように。いつしかアッシュも彼の無償の愛を求めるようになった。

 

 だが、英二の存在が、やがて無敵であったアッシュの唯一の弱点と化した。帰国する英二から貰った手紙を読み感慨にふけるアッシュは、道端でラオに刺されてしまう。

 手紙の最後には、こう書かれていた。

 

My soul is always with you. (僕の魂は、いつも君と共にある)」

 

 図書館で事切れたアッシュの死に顔は、最高に穏やかであった。司書が寝ていると勘違いするほどに。

 それは英二の思いを最後に知れたからか、悲劇の連続であった"生"からようやく解放されたからか、あるいはその両方か、私には分からない。

 いずれにしても、アッシュは死ぬことに一切の後悔はないだろう。

 天国で、アッシュは日本語を勉強しているのだろうか?

 

 このセリフ、私も女の子の口説き文句として今後使います。重いか。

 

 

 個人的に、ショーターが一番気になるキャラだ。

 ショーターは「バナナフィッシュ」を強制的に投与されて無惨な最期を遂げた。彼の性格は非常に明るく社交的で、閉塞感に包まれた世界で異質な存在であっただけに、彼の死はなかなかキツいものがあった。

 では、取り残された彼の姉は一体どうなってしまうのか。彼女のアフターストーリーも是非見てみたい。

 

 

 それにしても、本作の最終回のタイトルにも使用されている『ライ麦畑でつかまえて』、この小説は何かとアニメ作品に関与している気がする。

 『攻殻機動隊SAC』であったり『天気の子』であったり・・・

 一度読んでみようかしら。

 

 

 とにかく、アメリカに行くときは上の口と下の口には気を付けましょう。

 ゴルツィネが、いつどこで狙っているか分かりませんからね。

【感想】『ハッピーシュガーライフ』、見終えた

 

 深夜テンションのまま、自分の思いを綴りたい。

 

※ネタバレ注意です※

 

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出典: https://magazine.jp.square-enix.com/joker/series/happysugarlife/

 

 今更ながら、とんでもないアニメ、『ハッピーシュガーライフ』を見た。

 

 このアニメを一言で表すなら、「狂気」「insanity」だろう。間違いなく。

 

 かわいい&かっこいいキャラクターに反して、彼ら彼女ら登場人物に同情や共感が一切できない。幼女"しお"を誘拐する主人公"さとう"、ストーカーする教師、ロリコン青年、魔性の叔母……。雁首そろえてクズ中のクズ。夢の島に埋めたいほどに。

 

 理不尽な叔母によって作られた不格好な愛のカタチ。さとうはそれを打破し、しおとの唯一無二の愛を見つけたものの、しおは、さとうによって理不尽に愛を作られてしまった。いわば、さとうは叔母と同じ轍を踏んだ結果となる。

 

 しおは、一体どのような人生を歩むのだろうか。叔母の言う「様々な愛のカタチ」を了解して生きるのだろうか、あるいは、さとうのように自身の愛を打ち破るのだろうか。残念ながら、私の想像力では到底分からない。

 

 『ハピシュガ』には、つらい境遇で育ち、悲惨な状況に陥った登場人物が多い。であれば、視聴者からの同情や共感を買うのが普通であるが、このアニメではその免罪符が通用しない。それほど、彼らの行動がぶっ飛んでいるのだ。

 

 同情や怒りを超越して、もはやドン引きしか残らない。カタルシスや信賞必罰も何もない。だって、みんなクズだから。

 

 バッドエンドというより、ずっと胸糞である。この感覚は『School Days』の時と似ている気がする。

 

(一人の女性を愛するさとうは、超絶浮気者○出し野郎の伊藤誠より断然マシだろうけど)

 

 ここまで狂気を演出できるのは、むしろ芸術ではなかろうか。何千年後の考古学者は、是非参考にするといい。

 

 とりあえず、私は銀髪の店員さんを指名します。彼女が唯一の聖人だと信じて。

ジャンプの性規制運動が、本当に求めるべきもの

 先日、このようなツイート・署名が物議を醸した。

 

 

 結論から言って、私は「少年ジャンプにおける過激な性表現は、何らかの処置を施す必要がある」と考えている。

 しかし、私はそこに署名をしなかった。忘れていたわけではない。発起人の関口氏の論調には一部同意できない論調もあるからだ。また、関口氏及びその支持者は圧倒的な間違いを犯しており、最も大事な点を見失っている。

 彼らの論拠のおかしさと、本当にすべきことを今回まとめた。

 

yururiyuruyuru.hatenablog.jp

 

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 私の主張と解決案

 私の根拠として、「青少年は判断力が鈍い」、これに尽きる。AVや薄い本には、必ず年齢制限が設けられる。青少年は創作と現実を見分ける判断力が欠如していて、成人より影響を受ける恐れがあるからだ。何でもかんでも制限をかけるべきではないが、露骨な表現(性器の露出や性行為など)に限って、ある程度の処置を甘受する必要があるだろう。

 ”少年”ジャンプとして名を売っている以上、対象は少年少女であり、他の雑誌と違って注意深く考える必要がある。

 そこで、私の解決案を提示しよう。

 

① 巻頭に注意書きを記す。

 

② 少年ジャンプから青年誌に移行する。

 

③ 性教育を強化する。

 

 ①は、注意書きを記すことで、すぐにでも実行に移すことを抑止できる。年齢層が高い青年誌に移ることも、一つの手だ。

 ③は私が最も強調したいことで、これを是が非でも行ってもらいたい。(理由は後述)

 

規制を求める支持者

 発起人の関口氏の主張は、「エロ」と「性暴力」の区別して「性暴力」に対して注意喚起を促すべきだという。その指摘に私は同意するし、想定できる事態を回避するために、やるべきことは最大限にするべきだろう。

(ただ、性知識アンケートに関しては集英社がやるべきことではないと考えるが。)

だが、関口氏の意図に反するかは分からないが、彼の支持者の中には「性表現全体の規制」を主張している者が多く存在した。

 しかし、私は一貫して「性表現の規制反対」の立場をとっていて、そもそも彼らとはスタンスが違う。支持者の多くは規制せよの一点張りであり、規制せずに付き合い方を変えてゆく私の主張と相容れないものがある。

 しかし、「性表現の規制」は本当に正しい方向へ導いてくれるのか。

 

規制はできるか

 規制の対象が性暴力であれ性表現全体であれ、「青少年への悪影響」という理由で規制ができるのか。

 保護者が「性を我が子に一切触れさせない」という教育方針を家庭内で決定しようが、それは自由だ。だが、全ての保護者がそのような方針をとる訳ではない。にもかかわらず、「性=青少年に悪影響」と決めつけ、規制するのは過剰な処置ではないか。

 保護者が不快なら、家庭内で性表現を禁止することで事足りるはずだ。わざわざ公権力を使って規制する必要はなく、むしろ表現の自由を侵害していると言わざるを得ない。

 

エッチは悪か

 関口氏および彼の支持者の主張を聞いて、どうやら「 性やエッチなことはタブー・マイナスなものである」という論拠があるようだ。

 確かに、レイプやセクハラなど細かい点を見れば、性をマイナスなものとして捉えるだろう。しかし、これは性のごく一部に焦点をあてたミクロ的な見方であって、マクロ的な視点で見れば、性は必ずしも悪いこととは言えないのではないか

 アメリカの心理学者マズローは、三大欲求や排泄・呼吸のような人間が生活する上で不可欠な欲求を生理的欲求と定義している。もちろん性欲もその一つであり、 性欲がある以上、性的興奮を覚える、エロいと思うことは至って普通なのだ。

 

(勿論アセクシャルの人もいるので、性欲の存在が当たり前だとは一概には言えない。)

 

 女体や男体に性的興奮を覚えるのは、何らおかしいことはない。また、それに基づいた自慰行為や性行為、性を創作物として表現するような行為は、反社会的でない限り普通のことであって、性を発信することに後ろめたさを感じる必要なんて全くない。

 

 彼が女の子に性欲を感じた自身を懺悔する分には勝手だが、性表現を巻き込む必要はないし、盗撮して退学になったと書いてあるが、それは個人の意識の問題であり、今回の運動と何ら関係のない話だ。

(詳細は前回の記事を是非ご覧ください。)

 

 彼はエロを求める人を「パブロフの犬」と例えていたが、彼らはメトロノームを鳴らされるだけの実験体ではない。青少年らは多くを学び、多くを経験し、多くを思考する。それらの過程を踏んで成長するにつれて覚える、異性ないし同性への性的興奮は、有史以前から存在する欲求なので、漫画どうこうの話ではない。何度も言う。性的興奮を覚えることは狼ではなく、ごくごく普通のことなのだ。

 したがって、ここで大事なのは「正しい性的知識に基づいて性欲を行動に移す」よう導くことではないか。そこで、「性教育」が必須となってくるのだ。

 

徹底的な性教育

 私は、この運動をどこか冷ややかに見ていた。彼らの主張はどれも「性表現の規制」ばかりで、「性教育の強化」を主張する人を見かけることはなかった。

 

 関口氏も「性的な表現に関しては、十分な性教育を受けていなかったので正しい判断はできてなかった」と言及してはいるが、結局「性暴力表現の注意喚起」に帰結し、「性教育の強化」を主張することはなかった。

 

 前項と関連した話になるが、日本には「性はタブー」という風潮があり、性について子どもに教えることも消極的だ。それは前述のように、家庭に落とし込んだ話であれば問題ない。

 ただ、学校教育となると話は別だ。性は我々の生活において避けて通れないものであり、正しい性知識を教育しなければならない。しかし、現状はそれが整っているとはとても言えない。中高生の妊娠が増加しており、日本の性教育の遅れを改めて痛感する。

 

 性教育が行き届いていない状況で性表現を規制したところで、何の効果が見込めるのか。それを見せないことで、子どもが健全に育つと本当に思っているのか。子どもに判断力がないのは正しい性知識が欠如しているのであり、性教育によって本人の意識を変えることこそ、早急に取り組むべき問題ではないか

 学校の性教育で子どもが正しい性知識を得た上で、保護者が子どもに性表現を見せるか否かを決定すればよい。

 

 ちなみに、この記事を執筆する上で、SHELLY氏ら女性三人の議論が非常に興味深く、参考になった。

veryweb.jp

 

 健全な青少年を育てるには、性表現の規制より性教育の強化を政府に求めた方が、断然建設的ではないか。

 

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しずちゃんのお風呂を規制したからといって、

風呂の覗きや盗撮がなくなるのかって話よ

©藤子・F・不二夫/小学館

終わりに

・・・極論、ジャンプにエロ表現がなくても僕たちは大学生までジャンプを購読し続けただろうと思います。

ジャンプ作品の性暴力表現は誰のために書かれているのか、僕は今、甚だ疑問です。

 

 私は、この表現にずっと違和感を覚えている。あなたがそれを求めていないからといって、ジャンプ読者全員にまで拡大適用するのは、流石に厚顔無恥も甚だしい。

 青少年を守りたいのか、それとも単に自分が嫌なだけなのか……。理念が優柔不断であり、無責任としか言い様がない。

 

 もし青少年の健全な性の観念を守りたいなら、やるべきことは「性=タブー」という日本の風潮を見直し、性教育を積極的に導入するべきだ。

 もちろん、注意喚起も大事だ。しかしそこで満足してはならず、ましてや支持者の主張する「規制」は無意味であり、論外だと私は考えている。

オタクもフェミも的外れ ~爆乳ポスターと性規制~

 お久しぶりです。

 今期絶賛放送中の『宇崎ちゃんは遊びたい!』。

 しかし、私はどうもこの作品を見ると、「例の献血のポスター問題」を思い出してならない。

 そこで、(遅ればせながら)今回はこのポスターの撤廃の正当性と様々な界隈の意見を述べようと思う。

 水を差すようで申し訳ないが、それでも表現の自由・性表現・ジェンダーを巻き込んだ騒動が今でも発生している以上、最も表面化したこの問題を触れないわけにはいかないのだ。

 今回は書きたいことが多く、冗長な文章になってしまったが、最後までお付き合いいただけたら嬉しい限りだ。

 

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丈 KADOKAWA 日本赤十字社

 

 

 結論から言うと、このポスターの撤去は妥当であると、私は考えている。

 このポスターのキャラクターは明らかに胸が大きく、そしてこの煽り文句。これは人によっては性表現と捉えられても仕方がない。

 だが、批判派も擁護派も、大きなおっぱいに気を取られて、本来の問題の本質と乖離してしまっていた。胸の大きさとか二次元だとかいうより、公共でこれを掲載したこと、これこそが問題の本質ではないか。

 

ポスターの撤廃の正攻法

 日本国憲法二一条一項において、日本国民は表現の自由が保障されている。これは単に表現物を発信する自由だけでなく、その表現物を受け取る自由もある訳だ

(現に、情報を自由に受け取れる権利として「知る権利」がある。)

 一方で、情報の受信を選択できる表現の自由が存在するならば、受け取らない自由「見たくない自由」も存在する。この問題は、ここに焦点を当てるべきではないか。

 

 勿論、ポスターを掲載した側にも表現の自由があり、それに則りこのポスターを作成・公然に掲示し、献血を行うよう宣伝する。それゆえ、このポスターは多くの人の目に止まる。しかし、中にはこれに不快感を抱く者も少なからず存在するだろう。

 R-18の暖簾の中とは、状況が全く異なるのだ。店内は入らなけばいい話だが、公共であればそうはいかない。性表現に不快感を抱く者も、ふとそれが目に入る可能性が高いのだ。となれば、彼らの「見たくない自由」を侵害していることになる。

 

 これこそ、性的なものを含むポスターの表現の自由を規制できる正攻法である。

 単に性表現だからではなく、「大人数が見られる状態で流通している性表現」だからこそ、このポスターは不適切であり、撤廃は妥当なのだ。

 

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オタクたちの反論

 一方で、このポスターの撤廃に対し、異議を唱えるオタクたちが一定数存在した。しかし、その反論はどれもナンセンスで的外れなものばかりなのだ。

 よく耳にする反論は、こんなものだろうか。

 

① これは性表現ではない

 

② 二次元と三次元を区別せよ

 

③ アニメを嫌悪・排斥するな

 

④ これだから三次元はクソ

 

 まず①についてだが、 表現物に対して抱く感情は人それぞれなのだ。これが性表現と捉え、不快に思うのも人それぞれであり、これが多くの共感を得ていることは、性表現と捉えられても仕方ないのではないか。

 次に②、二次元は今や三次元と同様の社会的地位を築き、経済効果を生み出すと考えられ、今回のようなポスターの広報にまで抜擢された。二次元の絵も実際に生きる三次元も、一緒くたに考える必要がある。

 「二次元と三次元を区別せよ」というのはオタクの中での常識なのであり、一般的社会では通用しない。二次元であれ三次元であれ、性表現を不快に感じる人が一定数存在することを忘れてはならない。

 ③の嫌悪・排斥したいという主張も、排斥の対象が「一般公衆の面前にある性表現」なので、二次元やアニメだからだという問題ではない。

 ④を主張する人、一瞬ネタかと思うが、これが案外多い。我々が生きる世界は三次元なのだから、それを否定すれば、二次元も生まれない。なぜなら、二次元を創造する作家や絵師は、三次元に生きているのだから。本気で言っていないことを願う。

 

フェミニズム的観点からの性表現規制

 しかし、このポスター撤廃の根拠として、「性表現は女性差別を助長する」という意見が多く見られた(正直、見たくない自由よりも遥かに多く)。今回のポスターに限らず、性表現は女性差別を助長するから規制すべきだという主張が、今でも存在する。

 では、性表現は本当に女性差別を助長するのか。今回のポスターに限定せず、二次元・三次元の境界線を超えた全ての性表現について、できるだけ中立に、慎重に検証しようと思う。

 

  よく性差別が女性差別に繋がるとして、二つの理由が挙げられる。

 

① 性表現は女性を侮辱するもの

 

② 性表現による女性の価値観の固定化

 

 どちらの意見も、フェミニズムの観点からよく唱えられる。①は女性を侮辱する性表現は女性差別を促す。②は、今回の場合では「女性=豊満な胸」と女性に対しての間違った認識が当たり前になり、そうでない女性に対しての差別に繋がる恐れがあるという考えがある。

 

性表現と行動の関係性

 まず、①からまとめよう。確かに、女性の尊厳を蹂躙する性表現は少なからず存在する。しかし、性表現全てがそうであるとは限らず、仮にそうであったとしても、そのような表現に触れた人に女性に対する差別を本当に植えつけるだろうか。

 たとえそのような表現であっても、現実に対して強制しているものではない。「性表現」と「実際に女性を害する行為」は分けて考えるべきではないか。それでも感化されて実行に移すのを危惧するのであれば、凌辱系の作品には「※この物語はフィクションです。実際に行うことは犯罪です」というような注意書きを添付することで、予め阻止することができるはずだ。

  公共で掲示されたものであったり、現実に対し教唆・強要しているものであったり、実在の人物を明らかに連想させるような性表現であれば、特定の人物に精神的苦痛・実害をもたらしうるとして、規制は適切な処置であるといえよう。しかし、そのような性表現でなければ、女性差別の生産という因果関係が確認できず、規制は不当であると考えるべきだ。

 公権力は因果関係の不明瞭な性表現の規制より、実際に女性の権利を侵害する行為を取り締まる方を優先すべきではないか。

 

固定化された価値観か、個性か

 次に、②だ。「豊満な胸でない女性も存在するのにも関わらず、女性への価値観を固定化させる性表現は規制すべきだ」という。しかしこの理屈が通用すれば、貧乳の女性を描いても、「女性=貧乳」という固定化が発生してしまう。

 これは男性にも同じことが言える。マッチョな男性を描いても、「男性=筋肉質」という男性への認識の固定化が発生する。マッチョじゃない男性も沢山いるのに、だ。そして、逆も然りだ。そして、「男性=同性愛者」と固定化させるBLも当然規制の対象となる。

 また、「女性への価値観の固定化」を懸念するのであれば、規制は性表現だけにとどまらなくなる。 服装や顔立ち、髪形等にもその理屈は適用され、規制される。さらに、例えば西野○ナのような女性の気持ちを歌ったラブソングだって、「女性の気持ち=歌詞」と女性への間違った価値観ができあがってしまうではないか。彼女の歌詞に共感できない女性だって、大勢いるのに。

 

 この理屈が罷り通れば、際限なく規制がかかってしまい、いずれ何も表現できなくなるだろう。これはもはや規制ではなく、「弾圧」だ。こんなものは、憲法が保障する表現の自由を侵害しているどころの話ではない。

 

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 そもそも、価値観の固定化なんてあり得るのか。二次元・三次元や性別、年代を問わず、現在世間に流通する無数の表現物の中には無数のキャラクターが存在し、その多種多様な性格・身体的特徴・メッセージ性を我々は享受している。それらの特徴は、(いくら非現実的なものであっても) 固定化された価値観というより、個性として捉える方がよっぽど賢明ではないか。

 

 爆乳も同性愛も恋の気持ちもすべて個性の一つであるため、現実の人々にそれを強制しない。また、個性は特定の誰かを差別する道具でもない。十人十色で多種多様な個性の流通は、現実世界の個性を認めることと同じではないか。(なお、レイプや殺人のような犯罪行為は例外であり、創作と現実を分けて考えなければならない)

 例えば、同性愛を扱った表現物は、三島由紀夫の『仮面の告白』に端を発する。そこから徐々に同性愛の存在が認知され、近年では性表現を含んだBL作品の隆盛や『おっさんずラブ』の流行が訪れた。その読者や視聴者は、「男性=同性愛」という間違った認識を持っているだろうか。むしろ、「同性愛=個性」と認められ始めているという方が辻褄が合う。

 

  我々は表現物で描かれたある特徴だけに絞り込むよう強要されるのではなく、マジョリティもマイノリティも非現実的なものも個性として総じて受け入れる。これは、差別意識の助長というより、多様性の容認に繋がるのではないか。

 

性表現が悪になる

 「女性に対する間違った価値観を固定化しうる表現を排斥すべき」として性表現を規制すれば、固定化されるとして槍玉に挙げられた特徴は、差別の象徴である「悪」と見なされ、必ず忌避される。

 しかし、これもまた女性に対する間違った認識であることは、無視できない。これこそ、かえって価値観の固定化に繋がり、市民の差別意識を助長しうる。

 

(なぜそれが分かるかというのは、歴史を見れば一目瞭然だ。戦前に弾圧された社会主義自由主義は悪という風潮が、一般社会に流布した。そこで生き残るには、転向して体裁上でも悪から脱却するしかなかった。公権力が規制したものは、無条件に「悪」というレッテルを張られることが、歴史で既に証明済みだ。)

 

 例えば、「豊満な胸」があたかも悪だと決めつけてこれを公権力が規制すれば、豊満な胸を持つ女性の差別が広がる。そして、前述のように性表現だけでなくあらゆる表現物が規制され、さらなる差別意識を植えつけるだろう。

 

 前述のように、表現物に対して抱く感情は人それぞれなのだ。ある作品を拒否する者がいれば、共感する者もいる。両者とも思想・良心の自由に基づいて、何人たりとも侵してはならないはずだ(十九条)。だから、拒否したい人は「見たくない自由」が、見たい人はそれを追求できる「幸福追求権(十三条)」がそれぞれ保障されているのだ。

(幸福追求権は、必ず公共の福祉に沿わなければない。例のポスターの掲載は見たくない自由を侵害しており、公共の福祉に反したため幸福追求権は認められない。)

 ある表現に共感できないからといってそれを一方的に弾圧するのは、戦前への回帰のような気がして、何だかきな臭い・・・・

 

 多角的・多様な表現を流通させてこそ、多くの個性を認めることに繋がるのだ。

 

 女性の多様性を認めようとして性表現を規制すれば、かえって自縄自縛に陥るのは火を見るよりも明らかだ。性表現の規制の根拠を女性差別に求めるのは、あまりにも飛躍した論理ではないか。

 

容姿罵倒と性表現

 また、他の記事では「女性は男性に容姿を罵られるが、それは性表現に起因するから、規制すべき」といった批判も存在した。これは、①でまとめた女性差別が身近で発生している問題である。

 勿論、他人の容姿を嘲笑するのはもっての外であり、絶対にやってはならない行為だということは当然である。

 しかし、容姿の罵倒と性表現には、一体どのような因果関係があるのか。性表現を閲覧している人全員が女性の容姿を罵倒しているのであれば、双方の因果関係を確認し、規制の余地はあるが、そうではない。では、性表現は覚醒剤のように判断力を鈍らせるものなのか。いや、違う。①でも述べたように「性表現」と「実際に女性を害する行為」は分けて考えるべきである。

 性表現がそのような行為を誘発しているとは、とても言えない。性表現と容姿の罵倒の因果関係が確実でないなら、性表現の規制は、明らかに不当な表現の自由の侵害だ。

(むしろ、他人の容姿をいじって笑いをとるコンテンツを規制した方がよっぽど有用だ)

 

 こればっかりは、本人の意識の問題である。なお、中立性をもたせるために言及するが、女性も男性の容姿をそしることもある(筋肉とか体臭とか)。性別を問わず容姿の罵倒をなくすためには、性表現の規制では全くの無意味だ。それよりも、個人の意識の改革ではないだろうか。「この発言は、セクハラになる」、「この発言は相手が傷つく」など各々が意識してブレーキをかければ、このような行為は減少していくだろう。この改革を、フェミニストの方々が率先して行うことが、解決の糸口になりうる。

 だから、安易に性表現を規制すれば解決する問題ではないそれこそ、木に縁りて魚を求める空論ではなかろうか。

 

ジェンダーフリー社会における性表現

  ただ、フェミニストの主張も分からなくはない。男性中心社会の現状が、女性のエロで溢れる原因である、と。確かに未だ社会は男性が優位であり、女性はあらゆる点で不利になる場合が多い。この差を是正し、ジェンダーフリーな社会を目標とすることに、私は全面的に賛成である。

 しかし、今では、市場規模や数はまだまだ小さいけれど、女性対象の性表現作品も普及し、性表現を描く女性も増加している。女性自らが性を発現できる機会が、ようやく出来上がったのだ。けれどその性表現を規制しては、その芽を摘むことになるのではないか。

 女性の権利を主張し、女性の社会進出を目指すのであれば、性表現の規制は時代の逆コースを辿るものであると言わざるを得ない。

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 以上の点から、フェミニズムの観点から性表現の規制を考えるのは、非常に困難が生じるのだ。

 ただ、今回のポスターの場合は「一般公衆の面前にある性表現」だから撤廃は妥当であり、購入・レンタルしないと見れない性表現については、それが不快で見たくない人は「見たくない自由」を発動し、それを見ないと選択すればいい話だ。

 

 このようなことを言及すれば、「冷たい」「差別主義者」などと貶められることがある。もちろん、表現の自由は無制限ではない。実害が及んだ『宴のあと』事件のようなプライバシーを侵害した表現・ヘイトスピーチの規制は、私も賛同できる。

 ただ、猥褻物について扱ったチャタレイ事件の判決に関して、私は疑問を呈しているし、表現の自由は例外を最小限に抑え、最大限に認められるべきだと考えている。

 憲法で保障された表現の自由不当に侵害されるようなことがあれば、一介の表現者として声を上げないわけにはいかない。

(そもそも、性表現の規制反対が差別になるのかが、いたって謎だが)

 

終わりに

 オタクとフェミニストの論争は今回に限った話ではない。しかし、どちらも論点が的外れで議論が全く進展せず、水掛け論ばかりなので着地点が一向に決まらない。

 私はどちらかと言えば「性表現賛成派」なのでオタクの立場になるのだが、彼らの意見も上記のものばかりで完全には首肯しかねる。

 どちらも自分の立場に閉じこもるのではなく、事実に基づく大局的見地に立った建設的な議論を望む。

 

yururiyuruyuru.hatenablog.jp

 

【考察】『かくしごと』~飽和した日常系に新たな風を吹きこむか~ 後編

※注意※ こちらは後編です。より詳しく知りたい方は、是非前編をご覧ください。

yururiyuruyuru.hatenablog.jp 

 前編では、日常系の違和感について説明した。

  『かくしごと』は、娘・姫(ひめ)に自身が漫画家であることを隠す可久士(かくし)の話だ。前回に引き続き、今回もこの作品の特性をまとめた。

 

 極力ネタバレは控えますが、未視聴の方はご注意ください。

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出典: https://kakushigoto-anime.com

 

公私の視点で見るアニメ

 このアニメは、父親としての可久士を中心に描かれているが、漫画家としての可久士という側面も持ち合わせている。だが、仕事系のアニメは数多く、漫画家に焦点を当てた『バクマン。』、さらに職種の範囲を広げれば、『NEW GAME!』や『WORKING!!』等が例として挙げられる。

 

 しかし、かくしごと』の本質は漫画家という仕事ではない。漫画家という職業は単に付随したものにすぎず、本質はやはり家庭なのだ。その点でこれらの作品との差別化は可能であり、ジャンルすらも違ってくるかもしれない。

 なので、今回私は「」・家庭に着目して、日常系のと比較し、まとめていこうと思う。 

 

父親という新たな視点

 前編でも述べた通り『かくしごと』はどこか「日常系らしくない日常系」なのだ。

 まず、本作は日常系に分類して差し支えないだろう。ストーリーよりキャラが中心であるし、dアニメストアではギャグとしていたが、(少なくとも私は)「滑稽さ」より「癒し」を求めた。

 では、本作は他の日常系作品とどこが違うのだろうか。

 これは主題が家庭家族であり、中高生という溢れかえった設定とは似て非なるものだ。

 さらに、これだけでない。日常系では往々にして、現実に即したイベントが起こり、この作品も例外ではない。しかし、父親・可久士の視点で、頑張る娘を見守るという構図であり、これまた他の日常系と一線を画す。

  日常系の新味のなさは、視点の違いで解消できるのかもしれない。

 

会話で構築される信頼関係

 前編で、私は「コミュニケーションが自己目的化している」と述べた。本来、コミュニケーションは他者と関係を築くための手段にすぎないのだが、日常系とはこの関係が逆転し、関係ありきのコミュニケーションとなってしまっている。

 一方で、『かくしごと』はその日常系の特性を打破している。親子の近くて遠い関係性は多かれ少なかれ現実でも同じはずだ。仕事と家庭の両立に奮闘する父、それを心配する娘。しかし、彼らは本質的に理解し合うことはない。

 完璧な親子関係は存在しない。二人の微妙なすれ違いや共感を、会話を通じて絶妙に描くことで、二人の親子関係はより深いものになっている。これこそ、本来のコミュニケーションのあるべき姿なのではないだろうか。

 

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着眼点の相違

 前と似たようなものになるが、子どもには独特の感性があり、これを大人が理解するのは困難だ。だからこそ会話は必要であり、それによって子どもの感性を少しでも理解することができる。

 本作でも可久士は娘の姫ちゃんを溺愛するも、彼女に完全な理解を示せていない。そして時には娘の感性に驚き、感心する。このやりとりもまた、二人の関係を深めるものになるだろう。

 

風景に溶け込む人間

 本作の表現の特徴は、氷菓』や新海誠氏の作品のそれと似ていると感じられた。

 というのも、加藤幹郎氏曰く「主体と風景はあくまでも切り離しえないものとして一体論的に創造されるのが新海誠のアニメーションの特徴である」としている。アニメを含む多くの映像作品は登場人物を中心としており、風景は無視される傾向にある一方で、新海氏の作品はこの二つを一体化している。

 つまり、これは私が勝手に定義した言葉であるが、多くのアニメの表現は「風景から浮き出る人間」であるのに対し、新海氏の作品の表現は「風景に溶け込む人間」のような特徴がある。

 しかし、この表現方法をとっているのは新海氏だけではない。例えば『氷菓』もその一つだ。とはいえ、この表現方法を用いているのは稀であり、多くの作品は風景と人間を分離する。しかし、この『かくしごと』、キャラを主体にした日常系であるのにも関わらず、特に序盤・終盤での鎌倉の情景描写は、この特徴と似ているようだ。

  電車に乗り、坂道を登り、一つの家を訪ねた姫ちゃんは、そこで父のかくしごとを知る。真実を知った彼女はその家の中を見回り、寄せては返す波のように、彼女の心は移ろいゆく。

 彼女は、風景とともにある。

 美しき鎌倉。ぜひ一度、行ってみたい。

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七里ヶ浜の坂道と江ノ電

出典: https://www.trip-kamakura.com/feature/4106.html

 

まとめ

 この作品を通して見ても、親子二人の会話や空気感を消費しているという点で、日常系という定義もやはり間違っていないのではないか、と個人的にはそう思っている。けれども、それは決して視聴者にとって都合のいいものではない、一つの家族の生活を我々は見ていたのだ。

 ここまで冗長になってしまったが、以上の説明が、本作が「日常系らしくない日常系」であると感じた所以である。

 

おわりに

 『かくしごと』は、先日最終回を迎えた。終始心温まるファミリー劇場であった。

 ここでは書かなかったが、漫画家としての可久士はコミカルに描かれているので、非常に面白かった。

 リアルタイムでこの作品に出会えてたことに感謝したいと思う。

 

 ご指摘やご感想がございましたら、何なりとコメントでお書きください。

 それでは!

 

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