ゆるりゆるゆるブログを書く

気ままに生きます

ファスト映画逮捕で、考察はどうすべき?

 夜中に尻に火が付いたように書き、推敲もせず投稿したことをお許しくださいm(__)m

 

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ファスト映画の摘発

 最近何かと話題の「ファスト映画」がYouTubeで摘発され、逮捕者も出ました。

 

www.asahi.com

 

www.huffingtonpost.jp

 

  ファスト映画とは、「映画などの作品を10分程度に要約したダイジェスト動画」です。これは映画に限った話ではなく、アニメ・ドラマ・小説・評論・ゲーム・音楽などすべての作品に当てはまります。ファスト映画はあらすじのネタバレだけでなく、作品の映像をガンガン使用していたようです。

 ファスト映画を擁護する意見もあるようですが、個人的には「仕方ないかな~」という感じです……w まあ、起承転結全部言われて、映像を無断使用されて、さらに金まで稼いでいたら、そりゃあ規制も入りますわ。

 

考察・レビュー系は?

 さて、本題はここからです。今回はYouTubeだけですが、ブログも対岸の火事ではいられません。自分のような「作品を考察する人」も、その煽りを受けることは必至です。

 レビュー・批評・考察も摘発対象? そう危惧して自主規制に追い込まれるその関連のYouTuberやブロガーも少なくありません。そんな色めき立つネット界隈で、考察・レビュー系は生き残れるのでしょうか?

 考察や批評に使うネタバレや画像は引用か、あるいは剽窃か、法的な視点で見る必要があります。自分は法律の専門家でもなんでもないド素人ですが、大まかに引用のルールはこのようです。

 

引用先をしめすこと
自分の主張が主、引用が従であること

 

  ただ、この基準が実に曖昧過ぎる気がします。①はまだしも②が特に。少なくとも自身の感想や主張がなく、映像・ストーリー垂れ流しのファスト映画が盗用なのは了解できますが、果たして考察系はそれに準じているのでしょうか? 自分のブログを見返してもよく分かりません……

 結局これは著作者や裁判所の判断に委ねられるので、自分がいくら悩んでも仕方がないです。自分は彼らに生殺与奪の権を握られていることを承知の上で書いていることを意識しなければなりません。逆に言えば、著作者のお目こぼしによって自分は書けているとも言えます。感謝感謝……(ネテロ会長風)

 

 一方で、ネタバレ抜きに批評や考察を書くのは、率直に言って無理です。「だからそれらを書くべきではない」という批判は、飛躍しすぎだと感じます。批評や考察は、ファスト映画と違って自身の意見が主体であり、多角的な視点を与えてくれます。自分も多くの考察系動画(岡田斗司夫さんとか)・ブログに感化され、今に至ります。それは文化的・商業的に決してマイナスではなく、むしろメリットがあることの方が大きいのではないのでしょうか。

 

結論

 結論として、自分は「様子見」です。玉虫色ではありますが、この風潮を黙殺できませんし、全部消すのも癪です。まだまだ自分のブログの影響力は低いですが、おかげさまで検索結果の上位に拙稿が出てくることもあるようです。これを鑑みると、やはり「様子見」しかやり様がないのです。

 

 ただし、著作者側に配慮しなければならないことも事実です。そのため、今後下記の対策を講じる予定です。

 

ネタバレの注意喚起強化

サブスク(Netflixamazon primedアニメストアetc)の配信状況付記  

画像の使用は必要最低限に

  

 これらの対策を施すことで、ある程度集客に貢献ができます。ですから、考察・批評・感想系の投稿は今後とも継続しようと思いますので、よろしくお願いしま~。

【前半】今こそ『オトナ帝国』を語ろう ~コロナ禍で分断された現代社会~

※こちらは前半です※

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2001・臼井儀人・シンエイ動画・ASATSU-DK・テレビ朝日

 

 クレヨンしんちゃんは今まで数多くの映画が公開されたが、2001年に封切られた『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』、通称『オトナ帝国』は、最高傑作との呼び声も高い。他にも『戦国大合戦』『ロボとーちゃん』など名作はたくさんあるが、個人的に本作が最も印象深い。

 

 子ども向けといいながら、これほど風刺的で痛快な作品は今までに類を見ない。今回、私はコロナ禍で息苦しい社会を、『オトナ帝国』を通じて見ていきたい。

 その際、前半と後半に分けてまとめる。前後半で関連する内容が多いので、どちらもご覧になってくれれば筆者は泣いて喜びます。(巧妙なステマ

 また、この考察は作品の内容に関するものよりも、『オトナ帝国』と現代社会に通底する風潮や現象を優先して見ていこうと思う。

 

 

あらすじ

 子ども時代を追体験できる”20世紀博”に、すっかり夢中になるひろしみさえら大人たち。彼らは子どものように豹変し、20世紀博へ連行されてしまう。取り残されたしんのすけかすかべ防衛隊は、彼らを奪還すべくそこへ向かう・・・。

 

 

考察

昔はよかった

 懐古する言葉としてよく使われる「昔はよかった」。1990年代~2000年代の「就職氷河期」・「失われた10年」・「ロストジェネレーション」、すなわち本作が公開された2001年周辺を、この言葉が象徴する。

 高度経済成長やバブルで輝かしく成長する日本。未来は明るい、そう思われていた。しかし、現実は非情だ。バブル崩壊後に慢性的な経済停滞や政治不信が襲い、90年代以降は「就職氷河期」やら「失われた10年」やら、若者は「キレる17歳」と散々な言われ様。

 高度経済成長やバブルを生きた人々の目には、この時代はむなしく映る。夢も希望も金もない。時代の被害者となった彼らの生き様は、華やかな過去を偲ぶことであった。

 バブル崩壊後、当たり前が当たり前でなくなった日本社会。人間は変化を嫌う生き物である。今までの馴染み深い生活からの脱却を余儀なくされるも、それを懐かしく思うのは当然である。

 

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株価暴落に混乱する東証 ー毎日新聞社

 

 現在のコロナ禍の社会も同様だ。時短やらソーシャルディスタンスやら慣れない自粛生活に閉口し、コロナ以前の生活に戻りたいと思うはずだ。

 

 「昔はよかった」それは現実逃避する魔法の言葉。だが、この魔法は現実という空気を吸えばすぐに解ける。

 しかし、『オトナ帝国』ではそうではない。本作で登場する20世紀博は、それを具現化して実際に手に触れさせることで、永遠に現実逃避を暗示することができる。

 例えば、野原ひろし・みさえは家庭を支えるために、日々奮闘する。しかし、20世紀博を訪れた彼らは現実を忘れ、思い出に没頭する。だって、先の見えない努力より楽しい過去の追体験の方が、ずっと気楽なんだもの。

 

 20世紀博を完成させたケン曰く、そこの中には「懐かしい匂い」が充満しているという。もし現実でも20世紀博のような施設が存在すれば、今の人々は病膏肓に入ったように熱中するに違いない。多分私もハマる。

命名すれば、”人の温もり万博”? 風俗みたい……)

 

世代間の相克

 一方で、『オトナ帝国』で見捨てられたのは子どもたち、換言すれば輝かしい日本を知らない世代である。 大人たちは子どもたちを冷たくあしらい、21世紀博へと姿を消した。大人のコミュニティと子どものコミュニティが、物理的・精神的に乖離した状態となった。

 このような年齢による社会の分断は、何も創作の世界にとどまらない。現実でも、度々社会が年齢で分断されていると、私は感じる。

 

バブル崩壊の場合

 少々話は脱線するが、面白い事例を出そう。就職氷河期世代であった赤木智弘氏は、フリーターとして働いていた。2007年『論座』に寄稿した記事で、彼は一躍脚光を浴びることとなる。以下、その引用である。

 

 バブル崩壊以降に社会に出ざるを得なかった私たち世代(以下、ポストバブル世代)の多くは、これからも屈辱を味わいながら生きていくことになるだろう。一方、経済成長著しい時代に生きた世代(以下、経済成長世代)の多くは、我々にバブルの後始末を押しつけ、これからもぬくぬくと生きていくのだろう。なるほど、これが「平和な社会」か、と嫌みのひとつも言いたくなってくる*1

赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」(『論座』、朝日新聞社、2007年)

 

 うーん、何とも過激な題名に過激な文章。これは言うまでもなく大論争を惹起し、特に左派陣営からの批判を呼んだが、新進気鋭の新人はすぐさまこう反論する。

 

なぜバブルの恩恵を受けた人間が焼け太り、我々のように何の責任もないはずの人間が、不利益だけを受容しなければならないのか。左派の理論はそうした疑問に答えてくれない*2

赤木智弘「続「『丸山眞男』をひっぱたきたい」--けっきょく、「自己責任」ですか」(『論座』、朝日新聞社、2007年)

 

 所得の低いポストバブル世代を利用するだけの左派は、実際に解決する姿勢を見せていないと赤木氏は主張する。ただし、彼が「左派に絶望しつつも、決して右傾化するつもりはない*3」と釘を刺していることは留意してほしい。

 

 この主張は既存の論壇から手厳しく批判された一方で、若者から一定の支持を得たことも事実だ。ただ、私が言いたいのは、彼の主張の賛否ではない。バブル崩壊という歴史的な出来事が、このような世代の分断を生んでいることである。

 

コロナの場合

 学校が休校になり、部活動やサークル活動、就職活動がままならない若者。「若者が感染を広げている」「若者の外出を止めるべき!」と吹聴するメディアや政治家。(ここで政策の是非を問うつもりはないが)

 一方で、高齢者偏重の政策に嫌気がさした若年層は、「高齢者も自粛しろ」と老年層に批判の矛先が向き、「老人はコロナで淘汰されるべきだ!」という過激な主張までも見受けられる。この現象は日本に限ったものではなく、欧米ではboomer(日本の団塊の世代)を批判する『#boomerremover』というハッシュタグが話題になった*4

Twitterでこれらを探そうと思ったが、気が病みそうなのでご勘弁……)

 

 理解できない他の世代に対して互いに攻撃を展開し、自身の溜飲を下げる。この風潮を正当化するつもりは毛頭ないが、当然の帰結にも思える。バブル崩壊といいコロナといい、世代間の対立はいつの時代も潜在的に起こっていて、歴史のターニングポイントがそれを顕在化させたにすぎない。

 

 オトナ帝国』では20世紀博の存在が分断を招いたが、現実ではそれがバブル崩壊コロナに置き換わる。

 

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まとめ

 『オトナ帝国』と現代社会で共通する現象を、今一度まとめてみよう。

 

① 人々は懐古したい心を持っている

② 世代間の分裂の露呈

 

 生活様式や価値観が変容すれば、我々は以前のそれを懐かしむ。ケンや恋人のチャコはその感情を基に21世紀博を完成させ、共鳴した大人たちはそこに足しげく通った。また、20世紀博の誕生や現実ではバブル崩壊やコロナなど、社会的にマイナスな出来事が起これば、鬱憤・怒り・ルサンチマン等によって世代間の分裂が往々にして活発化する。

 本作は社会を鋭く観察し、それを明確に描かれていると驚嘆するばかりである。

 

後半に向けて

  さて、キリも良くなったので一旦ここで区切りたい。

 正直行き当たりばったりな解説が多くて反省点は数知れないが、最後までご覧いただいて嬉しい限りだ。

 後半は、我々の将来、いわゆるポストコロナについて見ていこう。未来の生活様式や社会、価値観はどうなってゆくのか。『オトナ帝国』にヒントが必ず隠されているに違いない。それを後半で解き明かしてみたい。

 

 忌憚のないご意見を是非ともお寄せください。

 

 それでは👋 

「にわかは語るな!」 別にいいじゃん

 

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「新参は語るな!」

「これ知らないやつはにわか」

 

 これらの言葉、ネットでよく見かける方も多いと思う。「新参」・「にわか」とは、とある分野に興味を持ってから日が浅い人及び知識の薄い人の総称(蔑称)である。その分野とは、アニメ・アイドル・音楽のような大きな枠組みから、作品や歌手のような個別的なものまで至る。

 「新参」と「にわか」の違いとして、小新井涼氏の解釈によると、新参は「単純に新規参入したばかり」であるのに対し、にわかは「知ったかぶりに近い」ニュアンスとする*1が、どちらも蔑称として使われることも多く、明確な使い分けはないように思える。

 特に、著名人(一般人でも頻発する)がその作品について興味を示した時、その作品に対して意見したり間違いを言ったりした時に、この言葉はよく使われる。

 自分は、この言葉が非常に嫌いである。なぜ歓迎せずに、マウントを取ろうとするのか。歴が長いだけで、知識があるだけで、なぜ「古参様」はそんなに偉そうなのか。

(今回は特筆しない限り、「にわか」も「新参」も同義として扱う。)

(また、自分がアニメ好きのため、主にアニメを例にしてまとめる。)

 

〇〇が好きな自分が好き

 にわかや新参を嫌う人がいるのはなぜだろう。それは、自分がアニメファン・○○(作品)のファンであるという「ブランド」「価値」が低下するのが嫌なのだ。

 自分がいるテリトリーにプライドを持ってしまい、後から無知がずけずけと入るのは、その価値が下がったような気がして癪に障る。だから、新参(特に影響力の大きい著名人)を排除し、その価値の維持を図るのではないか。

 

 ただ、その排斥運動が自らのブランドを貶めていることは言うまでもない。本来趣味は誰もがアクセスできて然るべきだし、誰かにその趣味を咎められる筋合いはないはずだ。しかし、世界観や細かな設定を知らないだけで糾弾するのは、その界隈の印象を下げることになりかねない。

 

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 オタクを自身にラベリングしてアイデンティティを確立する。それだけなら何ら問題もないのだが、そのラベルをブランドやプライドと錯覚し、排他的な風潮が完成してしまう。これは非常にもったいないことである。

 

 新参の獲得は、「排除の対象」ではなく「布教の功績」として、諸手を挙げて歓迎すべきだ。

 

 新参も積極的に

 古参から威圧的に言われると、やはり新参は萎縮してしまう。

 新参は、特段慎ましくなくてもよい。日が浅くても批判や意見や考察をガンガン主張してよいし、むしろ盲目的なマニアとは違う視点を与えてくれることもある。それに、間違えを恐れる必要はない。学問においても、間違いは罪ではない。ましてや趣味の範疇ではなおさらだ。間違えたら、訂正するだけでよい。

(ただし、批判は新参関係なくファンの反論を買うので、その覚悟を要する…) 

 

ファンに上下なし

 

「古参が偉い!」

「このアニメのファンなら、この裏設定は知らないとダメ!」

「お金をかけた方が、ファン愛が深い!」

 

 日数や知識やお金は、確かに愛を測る物差しの一つではある。だが、それは絶対的なものではなく、そもそもその優劣で上下関係は決定しない。

 愛は様々な形で体現され、正解はない。その一つに、お金や知識があるに過ぎない。それをする者しない者双方ともを否定することはできないはずだ。

(自分は作品の考察が好きだから、それを深掘りすることでその愛を示しています。)

 

 ファンの間にヒエラルキーはない。比べること自体が間違いである。

 

 『鬼滅の刃』が流行って深夜アニメがより大衆化したが、この現象でアニメファンが増えたことは、大変喜ばしいことだ。我々既存のファンは彼らを安易に切り捨てるのではなく、寛容に布教をすることで、個々の作品ひいてはアニメ業界の発展に寄与するに違いない。

 

ファンは誰もがにわかであり、マニアになる途中である。

 

おわりに

  と偉そうに書き綴ったが、私も実際、潜在的にこのように思っていた一人であった。

 しかし、新参を排斥することは、デメリットはあっても何のメリットもない。作品に携わっている方々にとってみれば、この風潮は百害あって一利なし。 失礼極まりない行為である。

  反省自己批判の意味を込めて、今回の記事を書き上げた次第だ。

 まあ、もちろんすごいファンもいて、彼らに尊敬の念も自分は持っています…笑

 忌憚のない意見を是非ともお寄せください。

 それでは。

【考察】『KITE』シリーズ ~ハリウッド化までされたエロアニメ~

 最近、『A KITE』の18禁版および『KITE LIBERATOR』を見た。監督はかの有名な梅津泰臣氏が務めており、なんとハリウッド化もされている。これは是非見てみたいと興味を持った。

 しかし、18禁版がなかなか見つからない。サブスクに18禁版は勿論なく、近所や都内のTSUTAYAで探してもてんでダメ。「これは長い旅になりそうだ……」とか思い始めた矢先、我々が日頃お世話になっているDMMさんにレンタルがあるではないか。即ポッチってレンタル。ワイの努力……

  あっけない幕引きだった、ぶらりエロアニメの旅。それでもその努力が無駄にならないほどに完成度の作品であったことは間違いない。

 前置きが長くなってしまって申し訳ないが、今回はこちらのシリーズの考察を書こうと思う。

 (今回は都合上、ハリウッド版は割愛させていただきます)

 

 ネタバレを多く含みますので、未視聴の方はご注意ください。 

 

 

A KITE

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©︎1998・梅津泰臣・アームス・ビームエンターテインメント

 

 

あらすじ

 本作の主人公サワは、女子高校生にして殺し屋という表と裏の顔を持っている。彼女は赤井に両親を殺され、彼によって殺し屋として、女として育てられた。赤井もまた、鑑識と殺し屋という二つの顔を持ち合わせている。

 サワはある時、同じ殺し屋であるオブリと出会う。彼女は彼とタッグを組み暗殺を遂行するが、徐々に彼らは殺し屋としてではなく異性として惹かれあっていく・・・

 

 考察

 1998年に梅津泰臣監督によって公開されたアニメ、『A KITE』。18禁のアニメーションではあるものの、現在のアニメと比べても遜色がないほどクオリティが高い。緻密な作画は、彼が原画を担当した『AKIRA』を彷彿とさせる。

 

サワとオブリ

 暗殺者とは、常に孤独である。さらに赤井からの一方的な体目当ての愛に、思春期女子のサワは一生懸命に耐えてきた。そんな中、彼女は同業者であるオブリと出会う。

 親身に会話してくれるうちに、互いに魅了される二人。オブリのヘマに無邪気に笑うサワ。二人はまるでカップルのようで、とても冷酷な殺し屋同士とは思うまい。

 サワは赤井からオブリの暗殺の命を受けるも、「必ず帰ってきて、ここに」と彼を逃がす。ここで、彼女は赤井ではなくオブリと歩む道を選んだ。

 しかし、悲劇は突然訪れる。オブリはとある少女に撃たれてしまった。それを知らないサワは、「もう少しでオブリ君がくるからね」と彼を待つ。

 床板の軋む音の正体は分からないまま、物語は幕を閉じる。ただ、歩くには若干遅めな音や、電車で男に撃たれていても無事であった過去を考慮すれば、やはり正体は撃たれてもなおサワの元に訪れたオブリなのだろう。

 

サワと赤井と赤いピアス

 サワは、赤いピアスをとても大切に着けていた。彼女曰く、「両親の血が入っている」という。そのピアスは赤井から贈られたものであり、サワが赤井によって処女喪失したのを、ピアスから滴り落ちる血で表現しているように、彼女のピアスは両親への愛と同時に赤井の呪縛を表している。

 赤井とサワはしばしば体の関係を持つ。彼らのピロートークが妙にムーディで、彼女のセックスやまばたきが、生きていることを実感させる。赤井の腕の中ではあるが。

  それでも、サワは両親の仇として赤井を虎視眈々と狙っていた。ハリウッド俳優暗殺で左耳のピアスを失くした時も、赤井は彼女の銃だけを取り、彼女のピアスには目もくれなかった。赤井にとってサワは単なる暗殺者かつ性の対象としてしか見なしていなかった。ぶっきら棒な彼の態度にサワはオブリの家へ逃げ込む。

 最終的にサワは赤井を殺し、もう片方のピアスも投げ捨てたことで、両親の復讐を成し遂げ、彼の呪縛を自ら解いたことになる。

 

芸術的なエロチック

 このアニメは18禁であり、エロ描写も多い。ただ、それはオナニーのおかずというより、もはや芸術の域に近い。

 

 

 

 前述のように処女喪失をピアスから滴り落ちる血であったり、ピストン運動をおもちゃで表現するのも斬新。梅津監督の観察力に驚嘆する。

 

 昔のエロアニメあるあるだが、モザイクが雑すぎる! 下半身ほとんどモザイクやんけ! と思ったらSpecial Editionで修正されてたのね。そっち借りればよかった。

 

 エロチックな描写が苦手な方は、『A KITE INTERNATIONAL VERSION』をお勧めします。セックスシーンがごっそりカットされた全年齢版です。U-NEXTやTSUTAYAにもあるので、視聴は困難ではないと思います。

 

KITE LIBERATOR

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出典: https://anime.dmkt-sp.jp

 

あらすじ

 サワが失踪して数年後の世界、女子高生のモナカは、「死の天使」と称される殺し屋を生業としていた。一方で、娘の裏の顔を知らない宇宙飛行士の父が、不慮の事故に巻き込まれる。体が肥大化して怪物に成り果てた父が地上に飛来し、暗殺任務を遂行する娘と邂逅する・・・

 

考察

  2008年に公開された『KITE LIBERATOR』は前作の数年後の世界を取り扱っているが、前作にはなかったモンスター映画感が色濃く出ている。また、全年齢向けということもあって、過激な描写はほとんどない(せいぜいパンチラとかおっぱいくらい……)。しかし、作画は前作より格段に進化している。特に、宇宙ステーションが爆発するシーンは、ガンダムと見紛うほどの作画である。この時期は00か。

 

 共通点が相違点に

 前作と本作の主な共通点、それは「親への思い」であろう。両親の血が入ったピアスを身に着けるサワ、父から贈られたブレスレットを身に着けるモナカ。双方とも親を背負って学園生活を送り、暗殺を全うする。

 しかし、結末がまるで違う。サワは形見のピアスを捨てた一方で、モナカはブレスレットを手掛かりに父と再会を果たした。なぜ、ここまで真逆の結末になったのか。

 この理由を知るには、モナカのバイトの先輩向井万夏がカギになる。

 

向井さんの正体

 結論から申し上げるが、バイトの先輩向井さんの正体はサワではないだろうか。2人の殺し屋がいるカフェで一緒に働いていたり、モナカの護身術を一瞬で見抜いたり、ロケット花火を打つのに手馴れていたり……

 極めつけは、花火中にモナカに発したこのセリフ。

 

恋人でも家族でも、大切な人がいて大事に思うなら、自らを正さないとだめよ

 

  何とも意味深。そうとしか思えなくなってきた。

 向井は1児のシングルマザーであり、夫はいない。詳細は不明だが、仮に向井がサワだとすれば、夫はやはりオブリの可能性が高く、前作最後の足音の正体が彼ならば、傷がもとでその後死んだのだろう。たらればの羅列はナンセンスなのは承知の上であるが、結構的を射ていると思う。上記のセリフも、彼の死によって説明がある程度つく。

 

モナカとサワというギャップ

 では、なぜ「向井=サワ」であることが、結末の違いのカギになるのか。

 向井もといサワは、両親も恋人も死んでしまった不遇な存在である。一方でモナカは変わり果てた姿ではあるものの父と再会し、刑事とデートの約束をしている。

 このアニメシリーズには、「、「ギャップ」が往々にして使われている。「女子高生暗殺者」「」「エロス」のように、二つのコントラストが時に美しく、時に残酷なアニメである。

 察しのいい方は、もうお気づきだろう。すなわち、モナカサワも、『KITE』という物語におけるギャップの一つではないだろうか。

 本作の主人公モナカは、父親と再会し、恋人もできる。そんな彼女を、両親も恋人もいなくなったサワと対比している。モナカと向井が話しながら興じている「冬の花火」にも、どこかギャップを覚えるだろう。

 

 多くの箇所に「表と裏」を散りばめるだけでなく、ひいては新旧主人公の運命にもギャップを生じさせることで、我々はこの作品により一層魅了されているのではないか。

 

 正直これは「向井=サワ」という前提が間違えであれば、破綻する考察だ。だが、曲解のないものであると自負している。

 

モナカちゃんかわいい

 とりあえず、モナカちゃんはかわいい。表はドジっ子だけど裏は冷酷というモナカちゃんの性格のギャップが、なんともたまらない。訛ってるのもかわいい。僕も抹茶好きだよ。一緒に食べよ。殺してもいいから。🤗

 

 最後に

  執筆中に、下記の記事を偶然見つけた。

 

otapol.com

 

 監督自らが言及するのは面白い。『KITE』シリーズを視聴した方は、この記事も必読である。

 今ではすっかり馴染んだアニメという文化。けれども、18禁にスポットが当たることはなかなかない。そのため、私は今回『KITE』シリーズを取り上げ、裾野を広げてみようと思っている。

 梅津泰臣監督の18禁アニメ作品はもう一つ、『MEZZO FORTE』がある。今度はこの作品をフィーチャーしたいなあ…

 

(他にも『cool devices series episode07』もあったらしいです。全然知らんかった…)

 

 それでは。

【感想】興奮覚めやらぬうちに、『シン・エヴァンゲリオン』

 ※ネタバレ注意です※

 

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 10日に満を持して、『シン・エヴァンゲリオン』見てきた。しばらく経った今でも、まだ余韻が残っている。うまく言語化できるか分からないが、それをひたすらに綴ってみようと思う。

 

ゲンドウとシンジ

 本作を語る上で、ゲンドウは絶対に外せない。

 アニメ版では伝説の「おめでとう」エンド、旧劇では「気持ち悪い」エンド。そのため、本作は3つ目のエンディングとなる。どのエヴァンゲリオンにも通底するメッセージ性は、「自分と他人の距離感」であろう。

 他人が怖い。 だから心の壁を張る。 だから一体化する。

 それはシンジ君だけでなく、父のゲンドウも同じであったということが、本作で明らかとなる。

 

 ゲンドウは、幼いころから他人との関わりを避け続けていた。だが、ユイとの出会いは彼のすべてを変えたようだ。

 

(ユイとゲンドウの関わりは、漫画で詳細に描かれている。ユイ健気でかわいい)

 

 ゲンドウとユイの二人が紡ぐゴリゴリのセカイ系。しかし、その世界の変革は、息子のシンジ君によって阻止される。

 成長したよ、シンジ君。

  旧劇では人類補完計画の餌食になったゲンドウが、本作でようやく救済された形となった訳である。

 

同級生らのいる社会

 年齢的にも精神的にも大人になったトウジ・ケンイチ・委員長

 まさか出てくるとは思わなかった・・・

 

 無免許ながら医者になったトウジ、自らの技術で貢献するケンイチ、新しい命を育む委員長。死んだ世界の中で、彼らは明日に向かって生きていた。

 

 アヤナミ(仮称)も、彼らとともに誰かのために仕事に励む。 モエー

 彼らのコミュニティに曲がりなりにも順応していくうちに、感謝や苦労の気持ちを覚えるアヤナミ(仮称)。 モエー

  

 助け合うこの小さな共同体は、まるで我々の社会の縮図のようで、また私もこの構成員の一人なのだろうと改めて感じた。もっとシフト入れなきゃ。

 

 ミサトさんとかマリとか書きたいけど、キリがないのでここで終わりに・・・

 

最後に

  個人的に、綾波に放った委員長の言葉が未だに自分の胸の中に響いている。

 

生きることは、辛いことと楽しいことの繰り返し

  

 エヴァンゲリオンの完結は、正直悲しい。

 また延期だとか言ってたのも、心のどこかで「エヴァは終わらないもの」と決めつけていたのかもしれない。

 だけど、いざ公開されて終劇の文字を見ると、やるせなさと脱力感が襲ってきた。すべてが終わった。自分とともに成長してきたエヴァンゲリオンが。

 

 エヴァが終わるのは辛いこと。でも、委員長の言うように、楽しいこともまたあるはずである。

 シンジ君がようやく進み始めたのだから、私たちも日々前向きに生きていこう。

 エヴァの完結に落胆するのではなく、それを糧にして。

 

 ありがとう、全てのエヴァンゲリオン

 

 

 ・・・パシャッ

【感想】『BANANA FISH』、見終えた

※ネタバレ注意です※

 

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出典: https://bananafish.tv/

 

 今更ながら、『BANANA FISH』を見た。

 

 このアニメは(多分)女性向けだと思うが、過激な描写は我々男子にとっても垂涎の的だ。

 本作は「バナナフィッシュ」たるものを追い求める、という至ってシンプルなストーリーだ。しかし、「バナナフィッシュ」の正体よりも、その過程で絡み合う人間関係が、残酷かつ美しい。

 

 主人公のアッシュ、なんとも悲劇的な青年だ。幼くして美少年であったが故にレイプをされ、銃を握り、マフィアのボスであるゴルツィネの思うままに育てられた。

 皆、無垢な宝石を傷つけていく。それでもアッシュは、その傷を隠しながらアングラな世界で生きていた。

 

 しかし、英二という青年と出会うことで、彼の人生に一筋の光が差し込む。英二は、何の対価も求めることなくアッシュを癒す。まるで、傷ついた宝石を優しく撫でるかのように。いつしかアッシュも彼の無償の愛を求めるようになった。

 

 だが、英二の存在が、やがて無敵であったアッシュの唯一の弱点と化した。帰国する英二から貰った手紙を読み感慨にふけるアッシュは、道端でラオに刺されてしまう。

 手紙の最後には、こう書かれていた。

 

My soul is always with you. (僕の魂は、いつも君と共にある)」

 

 図書館で事切れたアッシュの死に顔は、最高に穏やかであった。司書が寝ていると勘違いするほどに。

 それは英二の思いを最後に知れたからか、悲劇の連続であった"生"からようやく解放されたからか、あるいはその両方か、私には分からない。

 いずれにしても、アッシュは死ぬことに一切の後悔はないだろう。

 天国で、アッシュは日本語を勉強しているのだろうか?

 

 このセリフ、私も女の子の口説き文句として今後使います。重いか。

 

 

 個人的に、ショーターが一番気になるキャラだ。

 ショーターは「バナナフィッシュ」を強制的に投与されて無惨な最期を遂げた。彼の性格は非常に明るく社交的で、閉塞感に包まれた世界で異質な存在であっただけに、彼の死はなかなかキツいものがあった。

 では、取り残された彼の姉は一体どうなってしまうのか。彼女のアフターストーリーも是非見てみたい。

 

 

 それにしても、本作の最終回のタイトルにも使用されている『ライ麦畑でつかまえて』、この小説は何かとアニメ作品に関与している気がする。

 『攻殻機動隊SAC』であったり『天気の子』であったり・・・

 一度読んでみようかしら。

 

 

 とにかく、アメリカに行くときは上の口と下の口には気を付けましょう。

 ゴルツィネが、いつどこで狙っているか分かりませんからね。

【感想】『ハッピーシュガーライフ』、見終えた

 

 深夜テンションのまま、自分の思いを綴りたい。

 

※ネタバレ注意です※

 

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出典: https://magazine.jp.square-enix.com/joker/series/happysugarlife/

 

 今更ながら、とんでもないアニメ、『ハッピーシュガーライフ』を見た。

 

 このアニメを一言で表すなら、「狂気」「insanity」だろう。間違いなく。

 

 かわいい&かっこいいキャラクターに反して、彼ら彼女ら登場人物に同情や共感が一切できない。幼女"しお"を誘拐する主人公"さとう"、ストーカーする教師、ロリコン青年、魔性の叔母……。雁首そろえてクズ中のクズ。夢の島に埋めたいほどに。

 

 理不尽な叔母によって作られた不格好な愛のカタチ。さとうはそれを打破し、しおとの唯一無二の愛を見つけたものの、しおは、さとうによって理不尽に愛を作られてしまった。いわば、さとうは叔母と同じ轍を踏んだ結果となる。

 

 しおは、一体どのような人生を歩むのだろうか。叔母の言う「様々な愛のカタチ」を了解して生きるのだろうか、あるいは、さとうのように自身の愛を打ち破るのだろうか。残念ながら、私の想像力では到底分からない。

 

 『ハピシュガ』には、つらい境遇で育ち、悲惨な状況に陥った登場人物が多い。であれば、視聴者からの同情や共感を買うのが普通であるが、このアニメではその免罪符が通用しない。それほど、彼らの行動がぶっ飛んでいるのだ。

 

 同情や怒りを超越して、もはやドン引きしか残らない。カタルシスや信賞必罰も何もない。だって、みんなクズだから。

 

 バッドエンドというより、ずっと胸糞である。この感覚は『School Days』の時と似ている気がする。

 

(一人の女性を愛するさとうは、超絶浮気者○出し野郎の伊藤誠より断然マシだろうけど)

 

 ここまで狂気を演出できるのは、むしろ芸術ではなかろうか。何千年後の考古学者は、是非参考にするといい。

 

 とりあえず、私は銀髪の店員さんを指名します。彼女が唯一の聖人だと信じて。

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