無知は罪ではないけれど…
日本代表TUEEEE!
WBC日本代表、世界一おめでとうございます! 私も予選から全試合見ていましたが、MVPのオオターニサーンや最年長としてチームをまとめたダルビッシュ選手をはじめ、全員の活躍があってこその優勝だと思います! 特に韓国戦のヌートバー選手のヒーローインタビューには、ちょっと私うるっときちゃいました… 歳なんですかね?笑
WBC決勝戦、柄にもなく早起きして見ましたよ! 2回表に先制こそされましたが、その裏に村上選手の意趣返しと言わんばかりのホームラン! 村上信じてたで! ヌートバー選手の全力疾走の甲斐あって逆転に成功、さらに岡本選手のホームランで追撃します。メキシコ戦ではレフトにファインプレーされちゃったもんね…
そして、何と言っても最終回にオオターニサーンがマウンドに立ち、さらに最後打席に立つのは、野球の神様のいたずらか、チームメイトのトラウト選手…。”奇跡”の一言で片づけるにはあまりにも都合がよすぎる展開、最後は伝家の宝刀スライダーでなぎ倒して見事優勝を決め、彼のキャップとグローブは歓喜の夜空を舞いました。
こりゃ主人公ですわ…笑
不謹慎発言
さて、導入が長すぎましたね…笑
そんなWBC決勝の最中、にじさんじに所属する郡道美玲氏が「これ玉投げる人、強い人が立った時に頭か身体に投げちゃえば出場停止にできるんじゃないの?」と発言し、物議を醸しました。彼女は「ストライクって何?」「もしかしてホームランになると点数が入る?」と全くの野球知識ゼロ状態で実況ツイートし、デリカシーゼロのコメントをしてしまいました。

彼女はこれに対して、「一部私の無知が行き過ぎてて不適切な発言がありましたが、元リプツリーにも繋げているように悪意は一切無いことだけ改めてもう一度ここでお伝えさせてください~! ごめんなさい!」と(とんでもなく軽い)謝罪をしましたが、この発言、無知に起因した問題ではなく単純に「モラルがないから」、これに尽きると思います。
例えば、僕は全くラグビーのルールを知りません。けれど、どさくさに紛れて敵を殴る蹴るのはダメなことくらいは分かります。じゃあ、なぜ分かるのでしょうか? それは単にスポーツマンシップ、礼節を欠く行為だからであって、ルール以前の問題だからです。
無知による間違えなら、訂正して新しい知識を培えば済む問題ですが、モラルがない発言は知識の有無に関わらず炎上するのは仕方ないでしょう。
無知は難しい
郡道美玲氏は、前述のように全くの野球知識ゼロ状態で実況ツイートしていたようでした。ただ、無知で売るのは、とてつもなく難しいのです。なぜなら、生き残るためにはとてつもなく器用な人である必要があるのです。
今回のWBCの場合、やはり知識の豊富な解説者や、ある程度の知識があるファンが多く存在します。そんな中で無知が注目されるには、マナーに気をつけながらも面白く、なおかつ有識者にはない視点を盛り込むという、超高度なテクニックを要するのです。彼女はそこを見誤って、うっかり人を傷つけるラインを越えてしまったのです。
だから、ヘキサゴンで一世を風靡したおバカタレントは、ある意味賢いといえます。彼らは無知で面白い回答を連発しますが、一方で人を傷つけるラインは決して越えません。その絶妙なバランスをとることができる、タレントとしては超優秀な人材なのです。
無知それ自体は罪ではないけれど、無知をそのままにしたり、ましてや知ったかぶりをしたり、それを誇ることは罪なのかな。「私は全く知らないんだよ!」と無知を誇ってそれを売ることは、相当うまく立ち回れない限りはいずれ墓穴を掘る結果になるので、避けた方が賢明でしょう。
それこそ居酒屋で同じことを言っても、酔っ払って気を良くしたおじさんがツッコんでくれるだけでしょうが、ここはあくまでネットの世界。ルールは知らなくても、モラルは知っておかないと痛い目を見るでしょう。
ただ、モラルのない発言は諌める必要がありますが、それ以上に野球を全く知らない人がWBCを機に野球に興味を持ってくれてることは、素直に歓迎すべきなのは違いありません。せっかくふくらんだファンの芽がここでついえるのは、とても悲しいことです。これからシーズンも始まりますので、野球に少しでも関わってくれたら嬉しいですね♪
実は、僕も無知が祟って人を不愉快にさせた過去をふと思い出しました。乃木坂の話をしていたいつぞや、僕のモラルのない発言が、乃木坂ファンの友達を不快にさせただろう記憶があります…。
「無知」であることが一つのアイデンティティとして誇ることは、僕も含めて誰もがありうることだと思います。「知らない俺、カッコいい」と思う気持ち、すごくよく分かります。ただ、無知だとついマナーを忘れることがほとんどです。無知を誇ることは、やはりやめておいた方がいいでしょう…。
この記事は、自戒の念も込めて…。
もう恋なんてしないなんて…

「恋は盲目」という言葉がある。恋は、相手のすべてを魅力的にさせるという。
恋に落ちた瞬間、ボクはまるで冒険へ船出するかのような無敵感に駆られる。そして、あっという間にボクはキミ一色に支配されて、不安や心配をどこかに忘れ去ってしまう。
恐ろしいと思った時には、もう遅い。いつのまにか、神経は鈍感になる。頭は不能になる。ボクは文字通り、猿知恵になる…
文章が、書けない。言葉が、出てこない。
どんな音楽を聴いても、どんな小説を読んでも、どんな芸術に触れても、全く心動かされない。
キミに染まったボクはとっくに考えることを捨て、シャボン玉の中にいる浮遊感で上の空なのである。ボクは怖くなって必死に頭をあれこれ働かせるけど、一向にキミに勝てない。
結局ボクは、どんな芸術にも負けない、束の間の愉悦にひたっていた。
「別れよう」
夢うつつのシャボン玉が、突然パチンと割れた。
その時怠惰の神経が蘇って、鋭敏になって全身を駆け巡る。幸せにカモフラージュされた不安が、時は満ちたとボクを襲ってくる。
途端に、ボクは芸術に没頭する。まるで大きな大きな不安から逃げるかのように、読書や映画で目を塞いで、音楽で耳を覆う。そして、"書きたい"という意欲が湧き出てくる。言葉にしたい。不安という得体の知れないモノを、表現したくて仕方がなかった。
だから、ボクは今こうして好きなように書いている。失恋に心悩ますあざとい自分が情けないけど、恥も外聞もなく殴り書きして、憂さ晴らしをしている。
「恋は盲目」は、ただ相手が魅力的に見えるだけじゃない。感覚を鈍らせる。バカになる。芸術が、無価値にみえる。だから、僕は無敵になる。人間として退化している証だ。でも、それは幸せの代償なのかもしれない。
恋に"堕ちる"とは、そういうことだ。
それでも、きっとまた恋をするだろう。ボクは麻薬に堕ちるかのごとく、すっかり"退化する幸せ"の虜になってしまったのだから…
【感想】『かがみの孤城』、見てきた
⚠ ネタバレには極力配慮しておりますが、念のためネタバレ注意です ⚠

先日、『かがみの孤城』という映画を見ました。(え? 今更?笑)
原作を読んだのは、確か高校生の頃だったかしら。結末に衝撃を受けて、「これってアニメ化とかしたら、どうなるんだろう」とぼけーっと思っていた記憶があります。(思ってただけです)
そうして数年が過ぎて、映画化されると聞きましたが、その時には成長とともに正直キャラ名やストーリーもすっかり忘れていました。ただ、改めて新鮮な気持ちで見れるのではないか、とプラスに捉えて、あえて予習復習せずに見に行きました。
初見とファンのどちらでもないどっちつかずの気持ちで見ていた観客は、劇場の中できっと僕だけでしょう。「ああ、こんなのあったなあ…」、「あれ? こんなんだったっけ…?」と散らかった記憶を探しながら。
本作は、『いじめ』という現実の問題を究極にエンタメ化して、なおかつそれを僕らに問題提起してます。いじめは、エンタメや娯楽で扱うには重すぎる内容です。しかし、本作は「願い事を叶えるために鍵を探す」という聞き馴染みのある展開にすることで、僕らはワクワクして作品の世界観に入り込むことができます。ただ一方で、「いじめは終わらない身近な問題である」という刺激的なメッセージ性が、鮮烈に心に残ります。それは、作品に純粋に夢中になればなるほど、ふかくふかく突き刺さるのです。
ストーリー展開や伏線回収に心躍らせながら、強烈なメッセージ性に心苦しくなる、そんな相反する感情が、薄明るくなった劇場内で僕を襲いました。
学校のはみ出し者には、"孤城"という、寛大な救済を。そこでは、恐怖も萎縮も虚勢もいらない、"かがみ"に写った等身大の自分でいられるのだから。
P.S.
キャラデザでは、アキちゃんが個人的にタイプでした。ですが、相手は中学生ということで、ここは大人の余裕で我慢します。そう、これが"大人になる"ということですよ、ええ…

【後編】メディアはアニメをどう評価したか? 〜アニメ黎明期の作品たち〜
はじめに
お久しぶりです!そして、2023年も10%が過ぎてからの、あけましておめでとうございます。🌅
またまた更新が途絶えてしまったことをお詫びします🙏
近況報告はまた次の記事で書こうと思いますので、さっそく本題に入りましょう。
前回は、アニメーションの隆盛を、コマーシャルと『おかあさんといっしょ』の観点から考察しました。詳しく知りたい方は、こちらもご覧いただくと嬉しいです。
今回は、アニメーションの作品にそれぞれ焦点を当てて、アニメーション黎明期にどう評価されていたのかを講じていきたい所存です。10000字に及ぶ冗長な文章となってしまいましたが、分けてご覧になるなどで最後までお付き合いいただけたら幸いです。
なお、引用文における色・線は、すべて私自身の判断で着色したものです。
アニメーション作品の個別的研究
1.『鉄腕アトム』の場合

1963年1月から手塚治虫原作『鉄腕アトム』が放送され、一大ブームを巻き起こした。手塚氏がこの際用いた資本主義的な制作手法には賛否両論あるものの、現在のテレビアニメの基礎を築いた点は誰もが認める功績である。放送当時の『読売新聞』および『朝日新聞』の主張を取り上げたい。
読売新聞
『鉄腕アトム』が放送されて約1年半が経った1964年6月17日『読売新聞』朝刊では、次のように述べている。
アトムはロボットだが、人格化されていて、見る人に親しみを与える。一種のSF物だが、かなりファンタジーゆたかで、おとなの夢もかなえてくれる。
同じロボットでもフジの「鉄人28号」は、非人格の機械だが、いかにも一昔前のロボットといったやぼったいグロテスクな姿がごあいきょうだ。アトムの十万馬力が人格の中にかくれているのに対し、28号はその強さがナマに出ている。(中略)この「鉄人28号」とか「狼少年ケン」のように、即物的な方が小学生前の子どもにはわかりやすくて喜ばれるのではなかろうか。
(中略)
アメリカ製の漫画では「トムとジェリー」などいずれも主人公が暴力で相手をこてんぱんにのしてしまういささかの悲壮感もなく、そう快でさえある。おとなのストレス解消にももってこいだ。
総じてテレビの漫画はおもしろい。俗物なものはなにもない。しかし、ストーリーを絵で追ういまの段階から脱却して、純粋に絵の動きだけで笑えるものが出てきてもいいのではないか。
「そう快なテレビ漫画 絵だけで笑えるものほしい」、『読売新聞』、1964年6月17日付朝刊、p11。
『読売新聞』は、強大な能力を持ち合わせているとは思えないアトムのかわいらしい姿が「親しみを与える」としながらも、無機質で武骨な『鉄人28号』と比較して、強さが全面的に出ている方が子どもにとって分かりやすいのではないか、と主張している。かわいさの中に秘めた強さというギャップか、強さを身にまとうありのままの姿か、むしろ『鉄腕アトム』はギャップという革新性があったからこそ人気を博したと自分は考えるが、当時の新聞ではそれに疑問を呈していた。少なくともこの主張は、子どもの頃にピカチュウとガンダムを両方受け入れてきた自分にとっては思いもよらなかった。
また、『読売新聞』は「総じてテレビの漫画はおもしろい。」と前置きをしつつも、『トムとジェリー』のように純粋に笑えるアニメ作品を期待している。この主張も意外なものであった。現在ではストーリーなき作品を批判する某映画監督もいるというのに*1。当時の『読売新聞』は、ストーリー重視のアニメをあまり評価していなかったようである。
以上の資料から、『読売新聞』は『鉄腕アトム』をおおむね好意的に評しているものの、キャラクターやストーリーの分かりやすさを重視していることが分かる。
朝日新聞
『朝日新聞』は、『鉄腕アトム』について、当時京都大学人文科学研究所講師の多田道太郎氏による評論を記載している。
アメリカの漫画映画は、(中略)記録映画から出発している。動物の生態を写真にとって、その動作をいちいち分解して絵にかきかえる。そこにディズニーなどの動物マンガの迫真性・客観性がでてくる。日本の紙芝居、そして『鉄腕アトム』は劇映画から出発し、したがって主情的・虚構的である。
手法としては劇的主情的だが、『鉄腕アトム』のえがく世界、対象はロボットのとびかう宇宙であり、金属音のうなりをたてる未来社会であり、人類絶滅の危機とのたたかいである。サイエンス・フィクションの領域なのだ。それにひきかえアメリカ製の『ヘッケル・ジャッケル』(中略)などは、手法は記録的・客観的だが、えがく世界はむしろカラスが笑いネズミが怒る原始的なアニミズムの世界なのである。
「テレビ時評 紙芝居風なマンガ」、『朝日新聞』、1963年6月23日付朝刊、p11。
多田氏は、アメリカのアニメには動物の生態に基づいた「迫真性・客観性」があるが、その世界観は「原始的なアニミズム」だとしている。例えば、ドナルド・○ックはアヒル、ミッキ○マウスはネズミなどディズニーのキャラクターの多くは、実在する動物をモチーフにしている。その点では、現実に即した本物らしいキャラクターである。しかし、ネズミが喜怒哀楽を表し、口笛を吹くディズニーの世界観は、全く現実的ではない。したがって、写実的な自然ドキュメンタリー映画とは違って、魂を宿った動物が人間のように振舞うことが、アメリカのアニメの特徴なのである。
一方で、『鉄腕アトム』は劇映画に基づいた「主情的・虚構的」であるが、その世界観は「サイエンス・フィクションの領域」だと分析する。アトムは劇中、敵と闘う正義感の強さや弱い者に手を差し伸べる献身の心をたびたび見せる。また、アトムは空を飛ぶ・10万馬力など現実ではありえない能力を有する。現実離れした能力をもってして、感情を中心に物語が展開される点が、「主情的・虚構的」である。ところが、『鉄腕アトム』の世界観は、現実の科学技術が格段に進歩した「サイエンス・フィクション」だ。街並みや人々は、どこか現実味を感じさせる。
つまり、実在する動物が人間のように振舞うアメリカのアニメと、仮構のキャラが現実感のある世界で生きる『鉄腕アトム』とで、それぞれ正反対の性質を持ち合わせており、当時の人々から見たSFアニメの異質性がうかがえる。
続けて、多田氏は次のように主張する。
『鉄腕アトム』はアメリカへも輸出されるそうだが、アメリカでどう受けとられるか、いささか興味がある。「ロボットが悪いことをするはずがない、悪いことをするのは人間だ」と鉄腕アトムは言う。こういう手放しの技術信仰、科学信仰が主情的に深くくいいっているのが、日本少年の現状なのであろうか。
(中略)
日本の少年は『鉄腕アトム』にうっとりし、けなげで盲目的な科学信仰にとらわれるのであろうか。あまたの放送局、あるいはスポンサーは、なぜこの一つの創作マンガで満足しているのか。(中略)マンガが新しい神話であるとすれば、いまは神々の競うべきときである。
「テレビ時評 紙芝居風なマンガ」、『朝日新聞』、1963年6月23日付朝刊、p11。
ここで意外なことに多田氏は、『鉄腕アトム』によって日本の少年が「手放しの技術信仰」、「けなげで盲目的な科学信仰」に囚われているのではないか、と懸念している。「盲目的な科学信仰」だとの批判があまり見受けられない現代アニメと比べて、当時のこの指摘は興味深い。
また、前半の『鉄腕アトム』に対するアメリカの評価について、実際『鉄腕アトム』はアメリカでも大きな反響を呼び、ニューヨークにおける同時間帯で視聴率第1位を記録し、アメリカのみならずメキシコ・カナダ・オーストラリアなどにも配給された*2。この大成功は、ジャパニメーション第一号といって差し支えないだろう。
手塚治虫
以上の『朝日新聞』の主張はいささか難癖のようで、いかにも朝日らしいと感じるかもしれない。しかし、『鉄腕アトム』の科学礼賛に不満を示したのは、『朝日新聞』だけではない。それは、原作者の手塚治虫氏まさにその人なのである。

出典:https://tezukaosamu.net/jp/about/album02.html
原作者の手塚氏は自身の著書『ぼくはマンガ家』で、『鉄腕アトム』の基礎となる『アトム大使』は、クリスマス島における水爆実験を想起して*3「ああ、この科学技術を平和利用できたらいいなと憂い、原子力を平和に使う架空の国の話を描こうと思っ」たところから着想を得たという*4。
『鉄腕アトム』のアニメが開始した際も、手塚氏は自身の作品に愛着を感じていた。『鉄腕アトム』第一話を、彼は「わが子がテレビに出演しているのを、ハラハラと見守る気持ち」で視聴していた*5。
ただ、『鉄腕アトム』のアニメが、次第に単なる科学技術礼賛・勧善懲悪に陥ったことに手塚氏は不満を表した。手塚氏は自身の著書で、アニメの『鉄腕アトム』に対して次のように述べている。
いちばんかんたんなのは、アトムをなにかと戦わせることだ。だんだんアトムの対決の相手が怪物になっていき、それにつれてアトムも可愛らしさがとれて、忍者みたいなスーパーマンになってしまい、現実離れがしてきた。なによりも漫画映画の楽しさがなくなってきた。漫画独特のギャグやユーモラスな画面が消え、やたらに正義や、カッコよさをふりかざした作品が生まれた。
(中略)
実際、終わりのころのアトムは、アトムの顔つきはしているが、ぼくのむすこのアトムではなかった。
手塚治虫『ぼくはマンガ家』(毎日ワンズ、2009年。)、p244。
すなわちアニメの『鉄腕アトム』は、アトムを何かと戦わせるという最も単純な構図に陥ってしまった影響で、本来のかわいらしさやユーモラスさが失われ、「やたらに正義や、カッコよさをふりかざ」すようになった、という。そのアトムに対して手塚氏は「ぼくのむすこのアトムではなかった」と、最初期の心象と比べて大きな心境の変化があり、科学の象徴であるアトムが敵を打ち倒すという科学主義的な勧善懲悪を憂慮していることがうかがえる。
このような現象に陥ってしまったのは、アニメ制作に伴って生じた「低予算・低賃金・殺人的スケジュール」という問題が原因であろう*6。忙殺される現場が、「主人公(善)vs敵(悪)」という単純構造に頼らざるをえなかったことが推察される。『鉄腕アトム』によって日本のアニメーション制作は花開いたと同時に、その制作手法に多くの功罪を残したのは、後世のアニメーターや知識人が指摘するところである。
以上のことから、アニメ『鉄腕アトム』を『朝日新聞』は科学礼賛だと懸念を表したが、それは意外にも手塚氏の意見と軌を一にしていたことが分かる。
2.『サザエさん』の場合
現代人でも知らぬ者はいないであろう『サザエさん』は、長谷川町子氏によって『朝日新聞』で連載されていた作品である。1969年10月5日にアニメ第一回が放送され*7、現在に至るまで約半世紀以上も愛され続け、2013年には「最も長く放映されているテレビアニメ番組」としてギネス記録に認定された*8。
さて、そんな『サザエさん』の初回放送はどのように評価されていたのだろうか。原作が掲載されていた『朝日新聞』を見ていく。ちなみに初回の『サザエさん』は、「75点の天才!」「押売りよこんにちは!!」「お父さんはノイローゼ」の三本です。
期待していた「サザエさん」(フジ、日曜夜六時三十分)が五日その日第一回。
どうだろう、現代っ子にはあれで面白かったのだろうか。はじめてのホームマンガのうたい文句が泣いて逃げ出す改悪テレビ漫画と化けていたのは驚いた。
(中略)
まず、いその一家の人物たちが、サザエさんをはじめ、長谷川町子の原画に似ていない。そのうえ、テレビ漫画というものが動画であることはわかっているが、めまぐるしくとんだりはねたり、やたらと動きすぎる。しかも、声を聞いて完全にゲンメツ。マンガでおなじみの声優たちが、またまた同じ調子のやかましい発声法で、どなり合っている。“狼少年ケン”のボスの声、“ハリスの旋風”の国松少年、“おそ松くん” “オバQ”いずれもそのイメージそのままむき出しの声。声優はこれしかいないのか。
庶民の生活をふまえた、痛烈な風刺に思わずふき出さざるを得ないサザエさんの四コマ漫画の面白さは影もかたちもなくなってしまった。もともとサザエさんの笑いは、ストーリー漫画には不適だったのかもしれぬが原作の心を忘れた無神経なつくり方に、テレビ漫画不信の思いをますます強くした。大人も子供も面白がる「巨人の星」(日本テレビ、土曜夜七時)のような制作法もあったのに。さて、現代っ子はこんな漫画のほうを面白がるのだろうか。
ご覧いただくと分かるように、手厳しいほどの酷評である。『朝日新聞』の論調として、「原作の絵と似ていない」、「動きが激しすぎる」、「イメージそのままの声」の主に3点が改悪であるとしている。論より証拠、YouTubeにある本作の初回放送を見てみよう。
(無断転載ですので、著作権的に何かあれば引用を取り下げます)
ご覧の通り、空中を走り回ったりタマやネズミが人間のように動いたりと、なんだか『トムとジェリー』のドタバタ劇を彷彿とさせる。明らかに大袈裟な描写が多く、確かに長谷川町子氏の描く原画と離れ、原作本来のリアルな家庭観や知的な社会風刺を感じることはできない。
さらに、『朝日新聞』が指摘する声優にも注目したい。例えば、初代カツオくんを演じた大山のぶ代氏は当時35歳であり、小学生のキャラとは程遠い年代だ。そのため、カツオくんの声はハスキーで甲高く、少年感はあるが少年ではない。その露骨に少年の声を出している演技が、『朝日新聞』にはよく思われなかったようだ。それは、『狼少年ケン』のボス(演:八奈見乗児)*9や『ハリスの旋風』の国松少年(演:大山のぶ代)*10にも当てはまる。どのキャラも子どもや年寄りであり、演じた声優の年齢とはかけ離れている。
現代の感覚では、声優がキャラの年齢に合わせて演技をすることに抵抗を感じることはないだろう。しかし、アニメ黎明期における声優の価値観は、大人の声優が無理に子どもや老人の演技をすることに違和感があったようだ。
以上のような原作無視のやり方に、『朝日新聞』は「テレビ漫画不信の思いをますます強くした」という。アニメへの信頼が揺らぐほど、『サザエさん』の失敗は大きいものであった。
このような不評を、もちろん制作陣も認識していたに違いない。彼らは、アニメを原作に準拠したものに一新した。ドタバタ劇から落ち着きを取り戻し、日常を切り取ったホームドラマに変更した。内容も長谷川町子氏の原作を使用し、オリジナル脚本をなるべく回避した。放送開始から約3年経って、大幅に方針転換した『サザエさん』を『朝日新聞』は次のように評した。
好評の秘けつは、徹底して原作に忠実であることだ、と制作しているTJC動画センターの堀越唯義取締役はいう。
(中略)
ひところ、長谷川さんの原作を離れて、オリジナルのシナリオで数本製作したところ、顔や形は「サザエさん」でも、中身はまったく違っていることに気づき、あわててやめたこともあった。
視聴者は気づいていないようだが、絵もずいぶん変ってきている。だが、いま心配し、注意しているのは、マンガの主人公は年をとらないが、世相や考え方が時とともに変ってきていることだ。四年目を期して、スタッフも新たに気を引きしめているこのごろだ。
『朝日新聞』は評価を一転させて、「徹底して原作に忠実である」として歓迎している。オリジナルを避けて原作のシナリオに徹し、キャラデザも大きく変更して現行のものに近くなった。3年という年月をかけて、長年愛されるアニメの礎を築くことができたのである。
しかし、『朝日新聞』はさらに「マンガの主人公は年をとらないが、世相や考え方が時とともに変ってきている」と心配する。すなわち、年を取らない登場人物が、だんだんと現実世界の変化に即することができないのではないか、ということだ。いわゆる「サザエさん時空」と呼ばれるそうだが*11、現在でもこの現象にツッコミを入れる者も多い。現実世界のモノや出来事を挿入すれば、1960~70年代という作品の世界観と矛盾するが、延々と同じ世界観を繰り返せば話が単調になってつまらない。この板挟みにあうことを、『朝日新聞』は早くから懸念していたのだ。
この現象は『サザエさん』に限らず長寿アニメの宿命ではあるが、『サザエさん』はその先例を開く作品と言って差し支えない。当時からこの現象に注目していたことは、とても興味深い。少なくとも『朝日新聞』は、『サザエさん』がこれからも長く愛される作品になることを確信していたことが分かる。

スカイツリーにノートパソコン、電動ひげそりにデジカメ…
明らかに1960~70年代の世界ではない…
©長谷川町子美術館 ©Fuji Television Network
3.『決断』の場合
1971年4月から日本テレビ系列で放送されたタツノコプロ制作『決断』は、太平洋開戦から敗戦までの日本軍の戦局を描いたノンフィクションアニメである。子ども向けのアニメが主流だった時代に、本作は大人の鑑賞を意識した本格的な大人向けに製作された。空母や戦闘機、軍服、艦橋の細部や陰影を緻密に描かれており、音楽や効果音も本物の軍歌、爆発音やエンジン音を使用する*12など、戦争のリアリティに注力した作品である。
今回『決断』を取り上げた理由として、自分が調べた中で「初めて社会で物議を醸したテレビアニメ」であるからだ。もちろん賛否両論を呼んだ作品は以前から存在するが、それはあくまで「批評」という性質が強い。つまり、「つまらない・絵が下手くそ」のように作品の内容に対する批判が多くを占めていた。
しかし、『決断』の場合は作品の危険性、「作品が公開されることで与えうる社会的悪影響」を懸念し、世の中を巻き込んで論争が起こった。社会の神経が鋭敏になった今でこそポリティカル・コネクトネスや『鬼滅の刃』遊廓問題など度々噴出する論争ではあるが、『決断』はその端緒なのである。
本作の争点は、ひとえに「太平洋戦争」だ。太平洋戦争はたいへんセンシティブな問題であり、ましてや戦争が終わって四半世紀ほどしか経っていないのだから、なおのことだ。繊細な問題を孕んでいた本作は、必然的に多方面から非難を受けることになった。
土曜の夜七時半のテレビ視聴者は、30%が17歳以下の子どもたちである。しかも日ごろ"ヘビー・ドリンカー"といわれる父親群もこの日は家に帰り、子どもとテレビを見る。その時間帯に四月から、日本テレビが太平洋戦記を素材にしたアニメーション「決断」を放送するというので、いまからさまざまな論議を呼んでいる。
(中略)
同局労組、民放労連は「軍国主義を美化し、判断力のない子どもたちにカッコいい戦争の勝負だけを見せるもの」とさっそくかみついた。(中略)それにしても、父が子どもに戦争の側面、裏面まで語ってきかせられればよいが、ただ勝った負けたのスリルに終わったら――という声や、テレビでの"慣れ"が子どもに与える影響への心配が出るのも無理ないことだろう。このテレビ局とスポンサーの"決断"に世間がどう反応するか、興味深い問題だ。
「世間はどう“決断”する?」、『読売新聞』、1971年3月25日付夕刊、p7。
本作は大人向けに制作されたといえども、土曜夜7時半というゴールデンタイムに放送される性質上、判断力の鈍い子どもも視聴する可能性が高いため、彼らへの悪影響があるのでは、との批判が唱えられている。
戦闘のカッコよさや勝負のスリルに終始し、戦争の凄惨さや苛酷さを子どもから覆い隠す作品だとして、『決断』は社会問題化した。視聴者からは、具体的に「日本軍隊が犯した南京大虐殺も描くべきだ」であったり、「戦時中の銃後の苦しさを子どもにも教えてほしい」といった、日本の戦争犯罪や一般市民の困窮な生活に焦点を当てるべきとの要望があった*13。
ただ、当時は太平洋戦争そのものがタブー視されていた訳ではない。例えば、1967年の『日本のいちばん長い日』に端を発する東宝の「8.15シリーズ」は、1972年まで毎年公開される人気シリーズとなっている。また、戦時下の教師と生徒たちを写した『二十四の瞳』は、1974年にNHKの「少年ドラマシリーズ」において小中学生向けに放送された。つまり、太平洋戦争に触れたというより、『決断』はあくまで「太平洋戦争を美化したこと」、そして「それを子どもたちに見せること」に批判が集中した側面が強い。
『決断』は平均視聴率が8.2%と、他のタツノコプロ制作アニメと比較して芳しくない結果に甘んじた*14。しかし、そこで培われた技術は、後の『ガッチャマン』において遺憾なく発揮され、タツノコプロのさらなる躍進に大きく貢献した。
ちなみに、『決断』は最終回で読売ジャイアンツ川上哲治監督と長嶋茂雄選手・王貞治選手の活躍をまとめるという、かなり不思議な形で終わりを迎えた*15。(版権の都合上、ソフト化や再放送が不可能な幻の最終回となっている。)
おわりに
後編では、アニメーション黎明期の作品の評価を取り上げた。最後に、本稿の内容をまとめよう。
『鉄腕アトム』について、『読売新聞』はストーリーの不要を主張しながらも全体的に好印象を示していた一方、『朝日新聞』は盲目的な科学信仰に懸念を表していた。作者の手塚治虫氏もまた『鉄腕アトム』が科学技術の勧善懲悪に陥ったことに苦悩していた。
『サザエさん』について、最初期のドタバタ劇に『朝日新聞』はアニメーションに不信感を抱いたが、方針転換の結果、原作に忠実だとして歓迎した。加えて、現実世界と作品の世界観とのギャップにどう対応するかを指摘している。
『決断』について、美化した太平洋戦争を子どもたちに見せるとして、社会的な悪影響を懸念して大きな批判が巻き起こった。
個人的に意外だったのは、『鉄腕アトム』における科学技術の礼賛を批判していた点でしょうか。現在のアニメは、科学技術万歳!🙌の作品ももちろんありますが(なんか昔そんなアニメ書いた気がする…*16)、科学技術をガンガン使った作品が多くを占めていますし、それに特段僕は疑問を持ちませんでした。どっちがいいと二者択一の問題ではないですが、科学技術万歳!🙌の作品がたくさんある中、一度立ち返ってあえて科学技術を切り込むのも面白いかもしれません。
『鉄腕アトム』と言えば、2003年に放送されたアニメのOPが個人的にカッコよくて好きです。特に0:25~からのバトルシーンの画面2分割&早回しが最高にクール! CHEMISTRYの曲ともマッチしていて、かつてここまで疾走感のあるOPがあっただろうか?(いや、ない!)
とりあえず書きたいものはたくさんあるので、ぼちぼちと投稿頻度を高くできればな、と思います。
それでは!
次もまた見てくださいね~!
じゃんけん、ポン! ✊ ウフフフフフ・・・👋
https://fod.fujitv.co.jp/title/5787/
参考文献
● 手塚治虫『ぼくはマンガ家』(毎日ワンズ、2009年。)
● 『読売新聞』
● 『朝日新聞』
*1:
押井 守 | 審査講評 | アニメーション部門 | 第16回 2012年 | 文化庁メディア芸術祭 歴代受賞作品
*2:「鉄腕アトム アメリカで大もて ニューヨークでは視聴率第1位」、『読売新聞』、1964年10月31日付夕刊、p12。
*3:なお、イギリスによるクリスマス島水爆実験開始は1957年が最初であり、『アトム大使』が連載開始した1951年と辻褄があわない。これはおそらく手塚氏の思い違いだと推察される。
*5:同右、p240。
*6:
鉄腕アトム(1963)|アニメ|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL
*7:
サザエさん 50年の歴史 | サザエさん - 公式ホームページ
*8:
世界一でございま~す! 「サザエさん」長寿アニメでギネス認定 : 映画ニュース - 映画.com
*9:
【公式】狼少年ケン 第1話「二本足の狼」 - YouTube
*10:
*11:
サザエさん時空 (さざえさんじくう)とは【ピクシブ百科事典】
*12:
決断 [HDネガテレシネ・リマスター版] ブルーレイBOX|DVD・CD・ビデオ|竹書房 -TAKESHOBO-
*13:「『決断』に真剣な反響が続々集まる」、『読売新聞』、1971年3月20日付夕刊、p4。
*14:
https://web.archive.org/web/20070428231414/http://www.tatsunoko.co.jp/tatsunocomm/Legacy/200701.html
*15:
*16:
【前編】メディアはアニメをどう評価したか? 〜アニメを利用した既存メディア〜
はじめに
日本のアニメーションの向上は、めざましいものがある。『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』、『SPY×FAMILY』など、ワンクール形式のテレビアニメがここ数年で老若男女に愛されるようになった。また、大友克洋作品やジブリ作品などの日本アニメ映画は、ジャパニメーションとして国外でも高く評価されるようになった。
もちろん、現在のアニメーションを評価することも重要である。ただ、過去のアニメーション、すなわちアニメーションの揺籃期について焦点が当たることは多くない。そこで今回、オールドメディアは、どのようにニューメディアを評したのかを考察したい。なお、オールドメディアは『朝日新聞』および『読売新聞』を利用する。
なお、引用文における色・線は、すべて私自身の判断で着色したものである。
👇 後編はこちら 👇
アニメーション作品の個別的研究
1.コマーシャルの場合

出典:https://www.yanmar.com/jp/about/ymedia/article/yanbohmarboh.html
新聞が絶対的メディアを築いていた時代、紙面を割いて視覚的な広告を掲載し、圧倒的な広告費用を生み出した。1948年日本の広告費用の割合は、新聞広告が81.4%と、雑誌広告・屋外広告との間に歴然とした差がある*1。
ただ、50年代メディアは多様化する。1951年に民間ラジオ放送が解禁されると、聴覚的な広告に期待されたことで、例えばラジオDJが意図的に商品名を挿入するなど、インフォマーシャルやステルスマーケティングが可能になった*2。
1953年、テレビの民間放送が開始する。テレビ広告は、新聞広告の視覚的イメージとラジオ広告の聴覚的イメージに加え、「動き」という新たな要素も必要不可欠になってくる。これを契機に、アニメーションはコマーシャルに多く使用され出した。1959年から長年愛された「ヤン坊マ―坊天気予報」はあまりにも有名である。アニメーション作家の久里洋二氏は、テレビ広告におけるアニメーションについて、『朝日新聞』で以下のように述べている。
アニメーションが盛んになって来たのは、民間テレビでコマーシャルが出現して以来のことといわれています。私もそうだと思っています。
(中略)
ところが、近ごろのテレビコマーシャルを見ていると、非常に短い時間、5秒から15秒のコマーシャルが多くなってきて、映像に強烈な印象を与える方法しか考えないようになって来ました。これは悲しいことです。
(中略)
コマーシャルで強い印象をつけるためには強烈な、アッといわせる方法でアニメーションを作ります。A図のような技法でやることもあります。いうなれば残像を利用したアニメーションです。(中略)落着いたコマーシャルが出来るはずがありません。もっとアニメーションを大切に考えて制作したいものです。
「テレビのコマーシャル アニメーションの世界」、『朝日新聞』、1965年9月12日付朝刊、p21。

「イナズマの光るシーンでその間に黒や白の何も書いてないものを入れると、
強烈なイナズマに見える。このような方法で商品を入れると印象が強烈になる
人間と商品をたがいちがいにすると残像で人間と商品が重なって見える」
久里氏は、テレビコマーシャルがアニメーション隆盛の一因であると考察している一方、限られた時間内で強烈なインパクトを残すことしか考えないアニメーションの現状を「悲しいこと」としている。
私の書き写したA図を見ると(下手くそすぎてごめんなさい…🙇)、白黒のコマや商品のコマを瞬間的に交互に挿入することで、画面が点滅しているように見せることが可能だ。例えば以下のコマーシャルを見てほしい。
このcmは、1961年に放映された明治製菓「マーブルチョコレート」である。途中黒のコマと商品をバチバチと点滅させて、視聴者がテレビや商品に注視するよう意図していることが分かる。さらに本商品は子どもを対象にしていることから、点滅の効果はなおのことであったろう。
テレビコマーシャルにおいて「点滅手法」が跋扈した原因として、「①短時間で制作できる。②費用対効果が大きい。③ライバル企業への便乗(一種の集団心理)」などが考えられる。特にアニメーションは労力・時間・費用が莫大にかかるため、「点滅手法」は制作会社にとっても確実に利益を獲得できる機会であったに違いない。久里氏は、これに対して「もっとアニメーションを大切に考えて制作したいものです」と警鐘を鳴らしている。
2.『おかあさんといっしょ』の場合
次に、現在でも放映されている『おかあさんといっしょ』について考察したい。
『おかあさんといっしょ』は1959年に放送開始され、翌年『ブーフーウー』などのぬいぐるみ人形劇を中心に幼児向け番組として展開した*3。
1961年、歌と体操で構成された番組『うたのえほん』が開始した。1966年に『おかあさんといっしょ』と『うたのえほん』が統一、歌・体操・人形劇から成る『おかあさんといっしょ』が放送開始し、現在まで長く愛される番組に成長していった*4。
そんな『おかあさんといっしょ』においても、アニメーションが使用された。1970年3月3日『朝日新聞』朝刊で、これについて次のように評している。
ポワポワ、キューウン、パチン……といったユーモラスな効果音を背景に、小さな四角形が大きな円形をかじっていく。ヒヨコが電車にばけたり、三角、四角、丸、線など単純にデザイン化されたチョウチョウ、宇宙船、自動車が目まぐるしく変化する奇妙なアニメのコーナーがNHKテレビ朝の「おかあさんといっしょ うたのえほん」(月ー土曜10時5分)に登場して、ちっちゃなこどもの人気を集めている。
このアニメーション、2分半、説明もないからこどもに"正確"に理解させたいと思うお母さんは困って「あれはなんですか」。はては「図形が変化しますが目が悪くなりませんか」との問合せなど、ひところしきりだったが、ようやく近ごろ「なんだか坊やも楽しんでいるようです」「ウーとかキーとか熱中してます」との投書がたくさん寄せられるようになってきた。
(中略)
ことばやストーリーの助けをかりずに幼児の心をとらえるにはどうしたらいいか、そして造形感覚や空想力、創造力を育てるには――。意味はわからずともこどもはコマーシャルなどけっこうみているのは、短時間に注意をひこうと凝縮した広告の動き、音、色にひかれるからで「この形と動きと音を意識的に構成してみようと考えた」とスタッフはいう。
(中略)
作品は①反復すること②単純な造形の組合せに興味をもつように③アクションの変化で注意をひくことなどが共通テーマになっている。
「幼児に人気 奇妙なアニメ NHKテレビ おかあさんといっしょ」、『朝日新聞』、1970年3月3日付夕刊、p9。
『おかあさんといっしょ』で放送された「ポワポワ、キューウン、パチン……」、「小さな四角形が大きな円形をかじっていく」、ストーリーすらない意味不明なアニメーションは、開始当時「奇妙」であるという認識だったようだ。
例えばディズニー作品や『トムとジェリー』のような子供を対象にした当時のアニメーションは、台詞を極力減らして動きを中心に演出していたが、「ジェリーがトムを打ちのめす」という最低限のストーリーは存在した。したがって、当時のアニメーションは、子どもにストーリーを「正確」に理解させることが求められた。
ただ、小学生や幼稚園児などある程度の年齢になれば理解が及ぶが、それより低い年齢の子どもたち、すなわち『おかあさんといっしょ』が対象としている年齢の子どもたちは、なかなかストーリを正確に読み取るのは難しいのである*5。
彼らを対象としたアニメーションを制作するために、NHKは民間放送のコマーシャルをヒントにした。コマーシャルにはストーリーがなく、ただ視聴者に短時間で商品を記憶してもらうことのみを目的にしている。そのために、前述の「点滅手法」を含めた「動き、音、色」を駆使して強烈なインパクトを残す必要がある。それによって、特に子どもは意味が分からずともテレビに釘付けになるのである。
NHKはコマーシャルの持つ効果に注目して、「①反復すること②単純な造形の組合せに興味をもつように③アクションの変化で注意をひくこと」を制作する上での共通テーマとした。『おかあさんといっしょ』のアニメーションは正解をあえて明確に示さず、解釈を視聴する子どもたちに委ねたのだ。子どもたちには、「円形」が遊園地の「風船」に見えるかもしれないし、おやつに食べた「ビスケット」に見えるかもしれない。これに正解はなく、図形が何に見えるかはすべて彼らの創造力次第である。
このような意味をもたないアニメーションは、大人たちからみれば見慣れないものであったが、当時の子どもたちに人気を博したことで、現在にまで受け継がれていった。
現代では当たり前になった幼児向けのアニメーション。これはコマーシャルを手がかりに制作され、当時はかなり斬新なものであったのである。
おわりに
アニメーションの地位向上はコマーシャルで使用されことが原因である一方、コマーシャルの性質上、「点滅手法」など強烈なアニメーションを制作するようになった。これに対して、久里洋二氏は『朝日新聞』において懸念を表した。
コマーシャルをヒントに、NHKは『おかあさんといっしょ』で幼児向けのアニメーションを制作した。この意味を持たないアニメーションに、『朝日新聞』は「奇妙」と評した。
前編では、アニメーションを新しく利用した既存のメディアを中心に考察した。後編は、『鉄腕アトム』や『サザエさん』など黎明期の作品に焦点を当てようと考える。
超個人的な話になるが、子どもの頃に見た、キューピーの「た~らこ~ た~らこ~ たっぷり~た~らこ♪」のCMが妙に記憶にある。不安定な曲をバックに、大量のたらこが一斉にこっちに向かってくる…。トラウマだけど、子どもながらに病みつきという感覚を覚えた…。あとは、タケモトピアノとか…

(追記)
あとは、「おかあさんといっしょ」で放送された「地球ネコ」がものすごくトラウマだった……。普段のお姉さんお兄さんとは違う歌声、無機質ながらリアルな作画、途中の動物の写真が急にドアップに……。この曲が流れた瞬間に猛ダッシュで逃げた記憶が未だにこびりついている。当時はこれが平沢進作詞作曲だとはもちろん知らず、後に『妄想代理人』で再会することなるとは……。
参考文献
●『朝日新聞』
● 難波功士「戦後広告史に関する諸問題―画期としての1951年」、(『関西学院大学社会学部紀要』第90号、2001年)https://www.kwansei.ac.jp/cms/kwansei/pdf/department/sociology/5297_44459_ref.pdf
● NHK放送史 https://www2.nhk.or.jp/archives/bangumi/
*1:難波功士「戦後広告史に関する諸問題―画期としての1951年」、p141。
*2:同右、p142。
*3:
おかあさんといっしょ ブーフーウー | NHK放送史(動画・記事)
*4:
おかあさんといっしょ 座談会 | NHK放送史(動画・記事)
*5:現在の『おかあさんといっしょ』は、2~4歳児向けの番組としている。
夏の終わり、命の始まり

夏の終わり。だんだんと、夜が一日を支配する時間が多くなった。暗くなれば、もう暑さは気にならない。熱帯夜という息苦しい地獄から解放されたかと思うと、多少の心地よささえ思えた。
そんな夜を歩いていると、セミが羽化していたのを見つけた。華奢な手足でブロック塀に摑まりながら、真っ白な体躯を現している。透き通る翅に貫く、幾何学的な脈の流れ。真っ黒な瞳は、きっと九月の満月を見つめているのだろう。今にも壊れそうな生が、ここに誕生したのだ。
ただ、夏も終わる。あのやかましいセミの鳴き声も、もう聞こえない。仲間たちが生を繋いでコロッと死んでいった中、随分とお寝坊さんなやつだ。果たして、こいつは生を全うできるのだろうか。季節外れのセミは人から興ざめだと言われ、メスとも巡り合えずに、仕舞いには鳥に食べられてしまうかもしれない。そんな心配はどうでもいいはずだが、頭からくっついて離れない。
それでもこいつは盛大に鳴いて、自分の小さな存在を必死にアピールするのだろう。自分が寝坊したとも気づかず、懸命に。
こいつには「おめでとう」と祝うべきか、それとも「かわいそう」と憐れむべきか。
見落としがちな命の誕生。その出会いは、幸か不幸か……

