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【考察】『迷家』、私は好き ~アイデンティティと柳田國男~

 久しぶりに『迷家』を2周目見終えたので、今回はそれについて書きたい。

 『迷家マヨイガ』は2016年に放映されたテレビアニメで、主人公の光宗を中心とした群像劇で物語は展開される。私もリアルタイムで見ていて、個人的に面白くてハマったのだが、ネットの意見は正反対。ほとんどが非難の嵐だった。

 

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出典: https://gensun.org/

 

あらすじ

 「人生やり直しツアー」に参加した若者は、第二の人生を歩むために「ナナキ村」で生活することを望んでいる。無事ナナキ村に到着した一行だったが、村には人の気配がなく、さらに怪物の痕跡を見つけ、この村に不信感を抱く。そして、「ナナキ」と呼ばれる、人それぞれ見えているものが違う化け物を見つけ、仲間に対してもだんだんと疑心暗鬼になっていく。

 

追いかけるトラウマ

 本作の特徴として、登場人物が多い(が、半分はあまりストーリーに関わっていない気がする)。 しかし、彼らはどこか自分勝手で同調しようとしない。

 そして、彼らには大きなトラウマや悩みがあった。その現実から逃れるためにナナキ村に訪れたのだが、逆にそれに直面するかのように心が崩壊していく。

 ナナキ村を研究する神山はこう言う。

 

 「ナナキ村は、心の傷が『ナナキ』となって具現化する場所」

                     『迷家』10話

 

 

 ナナキ村に留まれば、自身のトラウマと向き合わずに済む。 

 いわば、ナナキ村は現実に疲れた人にとって桃源郷のような場所なのだ。

 しかし、ナナキ村の外に出ると一変、ナナキは彼らを襲う。トラウマは心を蝕んでいくのと同様に 。

 

トラウマこそ自分自身

 ナナキ村に出るためには2つの方法がある。

自身の「ナナキ」をナナキ村に置いていく。

 神山のようにナナキ(=トラウマ)をナナキ村に置いてきてしまえば、トラウマと向き合わずに済む。

自身の「ナナキ」を受け入れる。

 ナナキ(=トラウマ)を自身の心に受け入れ、留めておく。しかし、それはトラウマと向き合うことと同じこと。これにはかなりの困難を要する。

 

 神山はナナキ村の研究に対する嘲笑や批判がトラウマになる。だが、ナナキ村を訪れて、自身のナナキ(=トラウマ)をそこに置いてきてしまう。トラウマを失った神山は自分自身の一部を失くしたことと同義。神山の体は年齢の割に老衰し、怒りや憎しみのような感情は消滅している。

 

 すなわち、本作のコンセプトはトラウマ=自分自身なのだ。

 

 トラウマから逃げているだけでは自分の成長は見込めない。トラウマこそ自分のアイデンティティーなのであって、それに向き合うことこそが自分を高めることができる。

 

 心理学者のエリクソンは、青年期の葛藤や将来への失望で精神的不安定に陥ることを「アイデンティティの拡散」と定義した。自分らしい自分を模索するあまり、等身大の自分を見失ってしまい、社会から逸脱した行為をすることでアイデンティティを発見しようとすることもある。(否定的同一性)

 また、彼は青年期における発達課題は「アイデンティティの確立」であるとも定義した。それは、将来望む理想的な自身の姿(理想自己)と、自分が今捉えている自分の姿(現実自己)の両者を一つにまとめ上げることで達成される。

 

 本作の登場人物はみな、わがままに振舞い自己主張が激しく、どこか幼稚だ。

 彼らはナナキ村を訪ることで、現実にはない自分の居場所を見つけようとした(否定的同一性)。 だがそこでも自身の居場所が危うくなると、他者に責任をなすりつけ、自分はさも正義かのように立ち振る舞う。

 しかし、最終回で彼らの一部はナナキ村を離れる。トラウマ(現実自己)を受け入れ理想自己とまとめ上げることで、アイデンティティは確立され、彼らは人間的に成長するだろう。

 本作は、エリクソンの定義を見事体現したといえる。

 

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エリク・H・エリクソン - Wikipedia



正解とも不正解ともしていないラスト 

 しかし、本作は「トラウマと向き合うこと」を明確に正解とも不正解ともしていない。

 最終回、ナナキ村から離れ現実に帰る人達と、そのまま残る人達で別れる。トラウマに向き合おうとナナキ村トラウマに向き合いたくない、現実逃避し続けようとしている人もきちんと描かれている。

 

遠野物語』のオマージュ

 柳田国男の著書『遠野物語』にはオリジナルの『迷い家』が登場する。多分、本作はこれをオマージュにしたのかもしれない。調べてみると、何やら関連性がありそうだったのでまとめてみた。

 

 小国の三浦某というは村一の金持なり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍なりき。この妻ある日を流るる小さき川に沿いてりに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒きの家あり。訝しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き多く遊べり。その庭をの方へれば、牛小屋ありて牛多くおり、馬舎ありて馬多くおれども、一向に人はおらず。

  (中略)

 されどもついに人影はなければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、して家に帰りたり。この事を人に語れどもと思う者もなかりしが、また或る日わが家のカドに出でて物を洗いてありしに、川上より赤き椀一つ流れてきたり。あまり美しければ拾い上げたれど、これを食器に用いたらばしと人にられんかと思い、ケセネギツの中に置きてケセネをとなしたり。しかるにこの器にて量り始めてより、いつまでちてもケセネ尽きず。家の者もこれを怪しみて女に問いたるとき、始めて川より拾い上げしをば語りぬ。

 この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨイガという。マヨイガに行き当りたる者は、必ずその家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人にけんがためにかかる家をば見するなり。女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしといえり。

   柳田国男遠野物語』六三 青空文庫

  

 三浦家の妻が山中で迷い込んだところ、ある家を発見した。しかし人は誰もおらず、彼女は怖くなって逃げだした。またある日、妻は川上から流れてくる赤い椀を拾った。それでケセネ(米などの穀物)を掬うと、ケセネがどんどん出てきて、三浦家はお金持ちになった。

 遠野の人々はその家を「マヨイガ」と呼び、「マヨイガ」に来た人は、必ずそこから何かを持ち出すべきだ。

 

 「マヨイガ」から何かを持ち出せ、と書かれている。このアニメでは、その何かを「トラウマ」と定義したのではないのだろうか。トラウマをそこから持ち出せば、妻のように幸運になれるのではないかと。

 それだけじゃない。ナナキ村は、畑が整備されていてあたかも人が住んでいるかのようであった。そこも『遠野物語』の設定と似ている。

 また、次巻では「マヨイガ」に再度訪れた男が不幸になる話もある。「マヨイガ」に頼るばかりではなく、きちんと地に足をついて生きなさい、という教えでもある。

 『迷家』は『遠野物語』を少なからずオマージュしていることがわかる。

 

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柳田国男成城大学HP

 

終わりに

  何かと批判が多い作品であったが、個人的には面白かった。

 私の周りの友達も、面白いっていってたんだけどねえ…

 まあ、人それぞれでしょう(笑)

 それでは。

 

 

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