『妄想代理人』は2004年に放送されたテレビアニメで、今敏監督が手掛けた初めてのテレビアニメです。
今監督は平沢進さんのファン(通称馬の骨)としても有名で、平沢進さんのOP曲「夢の島思念公園」に加え、不気味に笑う登場人物が印象的です。
今回はこの作品を自分なりに考察してみました。
ネタバレを多く含みますので、未視聴の方はご注意ください。
あらすじ
大人気キャラクター「まろみ」を生み出したデザイナー鷺月子は、スランプに陥っていた。その帰路彼女は通り魔「少年バット」に襲われ、怪我を負ってしまう。それから「少年バット」に襲われる事件が多発し、世間を恐怖に陥れていく。
考察
少年バットの正体
「少年バット」は現実に疲れ切った人を次々と襲う。被害者は怪我を負うものの、どこか晴れ晴れした顔をしている。
そして、「少年バット」の模倣犯として留置されていた偽少年バットも、「少年バット」によって殺される。そこから連続通り魔事件を追っていた元刑事馬庭は、「少年バット」を幻想や妄想と定義した。
彼の正体は、馬庭の言う通り月子が生み出した幻想だった。幼い頃、彼女は愛犬を自身の不注意で亡くしてしまう。自身の過失で起こったもののはずなのに、彼女は内気な性格のせいで父親に真実を言えず、「少年バット」に殺されたとでっちあげた。
ここに、妄想の「少年バット」は現れたのだ。
「少年バット」は初めは普通の大きさだったものの、市民の噂や妄言でどんどん肥大化し、最終的に手が付けられなくなるほど大きくなってしまう。ここからも、「少年バット」は単なる幻想にすぎないことが分かる。
「まろみ」と「少年バット」の関係性
そして、もう一つ忘れてはならないのが、「まろみ」だ。「まろみ」は月子が生み出したキャラクターで、世間を大席巻している。
「まろみ」には元になったものがある。それは、彼女が幼い時に飼っていた愛犬の名前だ。前述の通り彼女はその愛犬を亡くし、その責任逃れのために「少年バット」を作り上げた。
最後、月子が幼少期の事件を自身の過失と受け入れることで、「少年バット」も「まろみ」も消滅する。つまり、「まろみ」も「少年バット」も同時に生まれ、同時に消えたのだ。
私は、この「少年バット」と「まろみ」の関係性は、「暴力」と「癒し」の関係性と同義であると考えている。
「少年バット」によって暴力をもたらされた者は、心地よさそうな表情を浮かべている。暴力は、辛い現実から解放できるのだ。
一方で、「まろみ」もまた同義だ。癒しキャラとして、「まろみ」は爆発的なブームになった。しかし、結局それは辛い現実を覆いかぶせるだけの存在であり、「まろみ」が一斉に世界から消えてしまうと、現実に直面せざるを得なくなり、「まろみ」欲しさに街や人は混乱状態になってしまう。
一見、「暴力」と「癒し」は正反対の意義として捉えられる。しかし、「暴力」も「癒し」も現実逃避させるものとしては同義であり、「暴力」は時には人を癒し、「癒し」は時には暴力になりうる。
つまり、それらは表裏一体な関係なのだ。「暴力」も「癒し」も、現実から妄想へ逃げるための橋渡しのような役目をしている。
黒い塊
最終回、黒い塊が街を襲い、市民を飲み込む。私は黒い塊は「少年バットの最終形態」と捉え、「まろみ」を失い現実に直面した市民を襲撃したと考える。
そして、最後には「まろみ」と混濁し、街ごと飲み込んでしまう。しかし、月子は愛犬を自身の不注意で亡くした現実を受け入れ、黒い塊は消滅し、そこには廃墟と化した街と人だけが残った。
荒廃した街の様子を、元刑事の猪狩はこう言った。
「まるで、戦後じゃあねえか」
『妄想代理人』 第十三話「最終回。」
彼の台詞は、廃墟と化した街だけを言っているわけではない。戦前の日本は、困難な現実を、神国思想のような無根拠な理想で覆い隠ししていた。しかし玉音放送の後、終戦という現実を突き付けられた市民は、すがるものが何もないまま彼らは生き続けなければならない。このような人々の精神的な面も含めて、彼はそう言い放ったのかもしれない。
繰り返す現実
街はすぐに復興したものの、そこは元と変わらず、人々は責任逃れや言い訳をしながら生きていた。そして「まろみ」に代わる新たな癒しキャラも登場し、人々を現実逃避へ誘い込む。
結局、人間は何かにすがって生きなければならないのかもしれない。
データベース消費
この作品を考察していて、どこか東浩紀氏の『動物化するポストモダン』に酷似している点が多いと思った。
東氏は、オタクの消費を「データベース消費」と定義した*1。我々現代の消費者は、キャラクター(大きな非物語)のさらに背後にあるデータベースを消費しているのだという。
例えば、萌え要素(メイド服・猫耳・アホ毛etc)は単に情報であって、それらを組み合わせることで、我々は初めてそのキャラに「萌える」のだ。
そして、作家のメッセージ性より萌え要素の嗜好や相性で判断され、即物的で単純に消費するようになった(本書では「薬物依存の行動原理に近い」としている*2)ことを、「動物化」とも定義した*3。
しかし、それは90年代においてはオタクだけにとどまらないと東氏は主張する*4。
今回の「まろみ」にも当てはめることができると私は考える。様々な構成要素で癒し系「まろみ」を作りだし、人々はそれを受容し、動物のように渇望する。『妄想代理人』は、このような薬物依存的な消費をする現代の人々を表したのではないのだろうか。
『動物化するポストモダン』の初版は2001年、『妄想代理人』が放送された2004年と比較的年代が近い。やはり、どちらも90年代~ゼロ年代の世相を反映しているといえよう。
おわりに
いかがでしたか? 15年以上前の作品なのに、結構現代にも通ずる皮肉や風刺が効いてますよね。
偉そうに考察してますが、お爺さんとか正直まだまだ分からないことだらけです。
でも、あえて謎を残して視聴者に判断を委ねているのも、今監督の作品の特徴と言えるかもしれません。
平沢進さんのOPは、やっぱり頭に残りますねえ……。
ほかにも今監督の作品を考察をしているので、ぜひご覧ください!
それでは👋
参考文献
・東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社、2001年)