皆さんは、日テレ版『ドラえもん』をご存じでしょうか? 『ドラえもん』といえばテレ朝のイメージが強く、日テレで放送されたことをご存じでない方も多いでしょう。
といっても、私も存在しか知らず、詳細な事情はよく分かっていませんでした……。しかし、いつものように何気なく開いたYouTubeで、次の動画を見つけました。
三部作とかなりの大作ですが、当時の制作陣の裏事情を詳らかにする、大変分かりやすい動画でした。これに感銘を受けて、私も当時の新聞を利用して日テレ版『ドラえもん』について考察してみようと考え、調査・執筆いたしました。この分野における研究発展の一助になれば、幸いです。
引用文における色・線は、すべて私自身の判断で編集したものです。
1 強力な裏番組
日テレ版『ドラえもん』は、1973年4/1(日)の午後7時より放送開始予定でした。4/1の番組表を参照すると、"新"と書かれていることが分かります。
しかし、日曜のゴールデンタイムは他局も視聴率を確保したい時間帯。当時は、フジテレビとNETテレビが双璧でした。フジには『マジンガーZ』、NETには『アップダウンクイズ』という強力な裏番組が存在しており、とりわけフジは『ガッチャマン』→『サザエさん』→『マジンガーZ』という当時の子どもたちに人気を博した番組が、連続で放映されていました。
他のテレビ局でも、TBSでは『アイアンキング』、NHK教育テレビでは『セサミストリート』の再放送と、子ども番組が軒を連ねました。日曜夜7時は、子ども番組の群雄割拠の時代だったのです。
『オバQ』や『パーマン』のヒットで売れっ子作家となった藤子不二雄氏の作品とはいえ、日テレがこの「子ども番組戦争」を制することはおろか、そもそも見向きもされない可能性さえあるのです。
そこで、日テレは番宣に力を入れました。しかし、ただのCMや広告ではなく、子どもたちに見てもらえるよう創意工夫を凝らしたのです。
2 日光写真
PRとしての「日光写真」
テレビは新番組シーズンとあって、各局とも子供向けにワッペンやシールを作り、盛んに番組宣伝合戦をやっているが、日本テレビが作った日光写真が、中でも爆発的人気。
ところで、日光写真、といっても、今の子供はほとんど知らないようだ。印画紙の上にネガティブの種紙(たねがみ)をのせ、太陽光線で焼きつける、という昔懐かしい子供のオモチャである。
(中略)
種紙は、新番組の「ドラえもん」や「流星人間ゾーン」など五種類作り、印画紙を二十枚つけ、これが一組。原価は三十四円。全部で十万組作った。
先月下旬から東京都内の団地を宣伝キャラバンが配って歩いている。今月下旬まで七十五団地を回る。
日光写真を手にしても子供はわからないが、一緒の父親がまず目を輝かす。「なつかしいねえ」。さっそく包みを開いて子供に手ほどきを始める。子供より大人に人気なのだ。
欲しい人は、日本テレビのPR室まで来てくれれば、一人につき一組くれる。郵送お断りだそうだ。
「人気、昔懐かしの日光写真 日本テレビがPR用に作る」、『読売新聞』、1973年4月19日付朝刊、p13。
日テレは『ドラえもん』を含む新番組の宣伝のため、そのキャラの絵を施した特製の「日光写真」を作成したそうです。
お恥ずかしながら、私その「日光写真」というものを見たことも聞いたこともなく(最初はドラえもんが日光東照宮にいる写真かと思った…笑)、一体どんなものなのか調べてみると……。
原版(種紙)と感光紙(印画紙)を重ねて光に当てて、光に晒された部分が青色に発色して画像を写すそうです(ネガの場合。ポジは彩色が逆になる)*1。どうやら大正時代に初めて写真を取り入れたおもちゃとして子ども達の間で流行したようでして*2、記事のように当時の親世代がノスタルジーにひたるのも理解できます。
なるほど、ドラえもんも青色だから、日光写真の特性を上手く活用した訳ですね!
日テレPR室は、「今の子供が知らないものを出そうと考えた。今のオモチャはあまりにも完成されすぎていて、子供が手を加えて遊ぶ余地が全然ない。(中略)これなら、陽に当てる時間のコツでうまい、へたができ、競争もできるのです」と話します*3。
現代でも日光写真を試した方がいらっしゃいましたが、やはり時間の調整が難しい印象です*4。面倒さは逆に子どもたちの印象に残りやすく、親子で教えたり友人と競争したりしてコミュニケーションすることで、『ドラえもん』の話題を増やせます。日光写真は緻密な計算が生み出した、日テレ渾身の番宣と言えるでしょう。
種紙5枚と印画紙20枚で原価34円。それを10万組用意していたようですので、単純計算で約340万円も費やしたことになります。さらに人件費や輸送費なども含めると、日テレ側の負担は相当なものと推察できます。
カメラ技術の発達で、当時でさえ日光写真を製造する業者がなく、一か月かけてようやく見本を作ることができたという苦労話が、同記事で語られています*5。番宣のためだけに、これだけのお金と時間と労力をかけていたことが理解できます。
そして、これを「宣伝キャラバンが配って歩いている」、「一人につき一組くれる」とあるように、無料で配布していたことがうかがえます。随分と大盤振る舞いですが、それだけ日テレは『ドラえもん』に威信をかけていたのでしょう。
※ 消費者物価指数を基準にすると、2022年の物価は1973年の約2.65倍(=102.3÷38.6)であるため、当時の340万円は現在の約884万円に値します。正確ではありませんが、ご参考までに…*6。
団地をまわる
日テレは、日光写真の配布案内を次の新聞広告で喧伝しています。
これは、高度経済成長で林立した”団地”の住人を対象とした広告です。「こどもたちの新しいアイドルがオミヤゲを持って急いでいます!」と、新番組の宣伝で各団地を毎日来訪していたようです。「オミヤゲ」とは言わずもがな、日光写真でしょう。
賑やかな列車の車両を一つ拡大してみると…
ドラえも~~~ん!!😭
ドラえもん何食べているんだ? 四次元ポケットはどうした?? そして右のやつは誰だ?? くちばしのあるネコか?? 日テレ版にはガチャ子というキャラがいたらしいけど、あまりにも似て非なるもの……。
また、右下のスケジュールでは、75団地のうち23団地が予告されています。地図に当てはめると、次のようになります。
※ 4/1 ⇒ 4/2 ⇒ 4/3 ⇒ 4/4 ⇒ 4/5 ⇒ 4/6 ⇒ 4/7 ⇒ 4/8
地図を参照すると、ほとんどが都心からやや離れた郊外に集中しており、見事なまでに「ドーナツ化」です。そこにわざわざ配布しに向かう訳ですから、それほど団地の年少人口が多かったのでしょう。ドラえもんから、当時のニュータウン事情がうかがえます。
他に子どもが集まる場所として、遊園地や野球場が挙げられます。特に読売グループであれば、おひざ元である東京ドームやよみうりランド*7、ドーム周辺の後楽園ゆうえんち*8で配ることも候補としてあるはずです。
それでもあえて団地を選んだ理由としては、「来てくれる」ことで、子どもの親近感を縮められるからだと考えられます。サンタさんも然りですが、「自分の住んでる所に遊びに来てくれた!」という世界観が、子どもにとって重要です。
そして何より、「親子や友人と共有させる」という日テレの意義に反します。遊園地や野球場で配ると、必ず持ってる人持ってない人が出てきます。友人と競わせるためにも、団地っ子のコミュニティで配った方が効果的だったと推察できます。
ドラえもんマニアの方々に敬意をこめて
正直この記事を読んだとき、ほんとに配ったのかよ、と真っ先に疑いました。番宣だからお金がかかるのは分かりますが、これだけの時間と労力を費やすのは割に合わないだろうと……。同グループの『読売新聞』が美談として誇張したのだろうと、この日光写真の存在を眉唾物で見ていました。
しかし! ネットをあさっていたら、日光写真の現物を実際に持っている人がいたのです!
これはすごい! 資料②におけるイラストと構図がそっくりなので、おそらく当時配布されたものでしょう。
ネットで現物の写真を載せている方が、この方以外にいらっしゃらなかったので、めちゃ貴重です! 藤子・F・不二雄ミュージアムにもないと思います多分!(見てないので分かりませんが……。今度確認してみようかな……。)
あと、あらかた資料探索して執筆した後に、以下のサイトを見つけました。
そこに前述の新聞記事があるではないですか! まさか既出だったとは……。しかも2000年前半の段階で見つけていたとは、熱意がすごい!!
なので、ここではパクリにならないよう、先駆者様が言及していない箇所に触れ、自身の考察もまじえて執筆した次第です。
先駆者様には、改めて敬意を表します🙇🙇
3 声優交代の評価
ドラえもんの声優は、当初男性の富田耕生氏が務めていました。しかし、これが不評だったのか、制作陣は7/1の14回より野沢雅子氏に途中交代するという抜本的な改革に打ち出たのです。声優の途中交代は長寿アニメの宿命とはよく言ったものですが、わずか3ヶ月で、主役が、しかも後任が異性の声優という、あまりにもイレギュラーな采配でした。
その証拠に、資料③にもある『ドラえもん』と同時期に放送開始した4作品を調べましたが、レギュラー陣のキャスト変更は一切ありませんでした。
声優交代の経緯は先駆者様の動画をご覧いただくとして、ここでは交代後の評価について追究していきます。といっても、視聴者が直接これに言及している投稿が一つしか発見できず、多角的に分析することは難しいですが、紹介いたします。
▶︎日本テレビ「ドラえもん」は好きなマンガだったが、一日から声が女性に変わった。ドラえもんはユニークな声の魅力に負うところが大だった。どういう事情で変わったのか知らないが、声変わりしたドラえもんは魅力がなくなった。(浦和市・無職・○○○○49)
「声変わりで魅力半減」、『読売新聞』、1973年7月15日付朝刊、p13。
※ 本名が掲載されているため、一部"○"で伏せています。
個人的に女性の声の方が親近感、かわいらしい印象を受け、男性の声だとどうしてもお節介なおじさん、説教くささが拭えません。 現代の自分達は親父くさいドラえもんの声は考えられないですが、当時の視聴者には「女性に変わって魅力がなくなった」と落胆した人がいたことに驚きを隠せません。
もちろん、「慣れ」が占める部分は大きいと思います。現代でも、後任の声優を批判する原理主義的な人を多く見かけます。しかし、それは男声のドラえもんに違和感がなかったことの裏返しになります。男声のドラえもんに一定の評価を下していた視聴者が存在したことが理解できます。
また、日テレやアニメ会社の采配を批判する投稿を、系列会社の『読売新聞』が掲載している点にも着目すべきでしょう。なぜ評価する投稿を紹介しなかったのでしょうか。『読売新聞』の本心か、あるいは、そもそも応援する投稿がなかったのか……その意図は不明です……。
まとめ・感想
日テレ版『ドラえもん』は、現在「失敗作」や「黒歴史」と散々酷評されています。確かに結果的に見ればその通りなのですが、当時は日テレが日曜のゴールデンタイムにあえてぶつけるほど、『ドラえもん』に期待していたことが分かります。
そして、番宣として『ドラえもん』を含む新番組の日光写真を作成し、各団地に配布する戦略をとりました。これは、子どもとの親近感を縮める、親子や友達と共有するという二つの目的が推察できます。
しかし、日テレは男声であったドラえもんを、女声に急遽変更するという大改革を打ち出します。それに対して、『読売新聞』は女声のドラえもんを公然と批判する投稿を紹介しました。
ただ、強力な裏番組や一貫性の欠けたキャストなど原因は多く推測できますが、結果的に『ドラえもん』は半年で終了してしまいます。1979年よりテレ朝やシンエイ動画が一から制作し直したアニメが奏功し、日テレでは成し得なかった『ドラえもん』を国民的作品に押し上げることに成功しました。しかし、その栄華の中で辛酸をなめ続けた過去は忘れ去られ、はなから順風満帆なエリートであるかのように、今日も子どもたちを笑顔にし続けているのです……。
日テレ版『ドラえもん』の資料少なすぎるだろ! そりゃ闇に葬られるわ!笑
参考文献
・『朝日新聞』
・『読売新聞』
*1:
*2:斎藤良輔「日光写真」、『日本大百科全書(ニッポニカ)』
*3:「人気、昔懐かしの日光写真 日本テレビがPR用に作る」、『読売新聞』、1973年4月19日付朝刊、p13。
*4:
覚えてる? 懐かしの「日光写真」で自撮りに挑戦してみました! - 価格.comマガジン
*5:「だが、業者に大量発注という段になってハタと困った。今、このオモチャは市販されていず、作る工場がない。戦後のカメラの発達で、こんな子供だましはもう古いと、業者も作らなくなってしまったのだ。
『作る工場がなけりゃ、どこか作れそうなところを探せ』で、手分けして業者をあたり、一か月がかりで、やっと見本を作ったものだ。」、
前掲「人気、昔懐かしの日光写真 日本テレビがPR用に作る」、『読売新聞』、1973年4月19日付朝刊、p13。
*6:
昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか? : 日本銀行 Bank of Japan
*7:1964年開業。