ゆるりゆるゆるブログを書く

気ままに生きます

オタクもフェミも的外れ ~爆乳ポスターと性規制~

 お久しぶりです。

 今期絶賛放送中の『宇崎ちゃんは遊びたい!』。

 しかし、私はどうもこの作品を見ると、「例の献血のポスター問題」を思い出してならない。

 そこで、(遅ればせながら)今回はこのポスターの撤廃の正当性と様々な界隈の意見を述べようと思う。

 水を差すようで申し訳ないが、それでも表現の自由・性表現・ジェンダーを巻き込んだ騒動が今でも発生している以上、最も表面化したこの問題を触れないわけにはいかないのだ。

 今回は書きたいことが多く、冗長な文章になってしまったが、最後までお付き合いいただけたら嬉しい限りだ。

 

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丈 KADOKAWA 日本赤十字社

 

 結論から言うと、このポスターの撤去は妥当であると、私は考えている。

 このポスターのキャラクターは明らかに胸が大きく、そしてこの煽り文句。これは人によっては性表現と捉えられても仕方がない。

 だが、批判派も擁護派も、大きなおっぱいに気を取られて、本来の問題の本質と乖離してしまっていた。胸の大きさとか二次元だとかいうより、公共でこれを掲載したこと、これこそが問題の本質ではないか。

 

 ポスターの撤廃の正攻法

 日本国憲法二一条一項において、日本国民は表現の自由が保障されている。これは単に表現物を発信する自由だけでなく、その表現物を受け取る自由もある訳だ

(現に、情報を自由に受け取れる権利として「知る権利」がある。)

 一方で、情報の受信を選択できる表現の自由が存在するならば、受け取らない自由「見たくない自由」も存在する。この問題は、ここに焦点を当てるべきではないか。

 

 勿論、ポスターを掲載した側にも表現の自由があり、それに則りこのポスターを作成・公然に掲示し、献血を行うよう宣伝する。それゆえ、このポスターは多くの人の目に止まる。しかし、中にはこれに不快感を抱く者も少なからず存在するだろう。

 R-18の暖簾の中とは、状況が全く異なるのだ。店内は入らなけばいい話だが、公共であればそうはいかない。性表現に不快感を抱く者も、ふとそれが目に入る可能性が高いのだ。となれば、彼らの「見たくない自由」を侵害していることになる。

 

 これこそ、性的なものを含むポスターの表現の自由を規制できる正攻法である。

 単に性表現だからではなく、「大人数が見られる状態で流通している性表現」だからこそ、このポスターは不適切であり、撤廃は妥当なのだ。

 

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オタクたちの反論

 一方で、このポスターの撤廃に対し、異議を唱えるオタクたちが一定数存在した。しかし、その反論はどれもナンセンスで的外れなものばかりなのだ。

 よく耳にする反論は、こんなものだろうか。

 

① これは性表現ではない

 

② 二次元と三次元を区別せよ

 

③ アニメを嫌悪・排斥するな

 

 まず①についてだが、 表現物に対して抱く感情は人それぞれなのだ。これが性表現と捉え、不快に思うのも人それぞれであり、これが多くの共感を得ていることは、性表現と捉えられても仕方ないのではないか。

 次に②、二次元は今や三次元と同様の社会的地位を築き、経済効果を生み出すと考えられ、今回のようなポスターの広報にまで抜擢された。二次元の絵も実際に生きる三次元も、一緒くたに考える必要がある。

 「二次元と三次元を区別せよ」というのはオタクの中での常識なのであり、一般的社会では通用しない。二次元であれ三次元であれ、性表現を不快に感じる人が一定数存在することを忘れてはならない。

 最後の③の嫌悪・排斥したいのも、排斥の対象が「一般公衆の面前にある性表現」なので、二次元やアニメだからだという問題ではない。

 

 フェミニズム的観点からの性表現規制

 しかし、このポスター撤廃の根拠として、「性表現は女性差別を助長する」という意見が多く見られた(正直、見たくない自由よりも遥かに多く)。今回のポスターに限らず、性表現は女性差別を助長するから規制すべきだという主張が、今でも存在する。

 では、性表現は本当に女性差別を助長するのか。今回のポスターに限定せず、二次元・三次元の境界線を超えた全ての性表現について、できるだけ中立に、慎重に検証しようと思う。

 

  よく性差別が女性差別に繋がるとして、二つの理由が挙げられる。

 

① 性表現は女性を侮辱するもの

 

② 性表現による女性の価値観の固定化

 

 どちらの意見も、フェミニズムの観点からよく唱えられる。①は女性を侮辱する性表現は女性差別を促す。②は、今回の場合では「女性=豊満な胸」と女性に対しての間違った認識が当たり前になり、そうでない女性に対しての差別に繋がる恐れがあるという考えがある。

 

性表現と行動の関係性

 まず、①からまとめよう。確かに、女性の尊厳を蹂躙する性表現は少なからず存在する。しかし、性表現全てがそうであるとは限らず、仮にそうであったとしても、そのような表現に触れた人に女性に対する差別を本当に植えつけるだろうか。

 たとえそのような表現であっても、現実に対して強制しているものではない。「性表現」と「実際に女性を害する行為」は分けて考えるべきではないか。それでも感化されて実行に移すのを危惧するのであれば、凌辱系の作品には「※この物語はフィクションです。実際に行うことは犯罪です」というような注意書きを添付することで、予め阻止することができるはずだ。

  公共で掲示されたものであったり、現実に対し教唆・強要しているものであったり、実在の人物を明らかに連想させるような性表現であれば、特定の人物に精神的苦痛・実害をもたらしうるとして、規制は適切な処置であるといえよう。しかし、そのような性表現でなければ、女性差別の生産という因果関係が確認できず、規制は不当であると考えるべきだ。

 公権力は因果関係の不明瞭な性表現の規制より、実際に女性の権利を侵害する行為を取り締まる方を優先すべきではないか。

 

固定化された価値観か、個性か

 次に、②だ。「豊満な胸でない女性も存在するのにも関わらず、女性への価値観を固定化させる性表現は規制すべきだ」という。しかしこの理屈が通用すれば、貧乳の女性を描いても、「女性=貧乳」という固定化が発生してしまう。

 これは男性にも同じことが言える。マッチョな男性を描いても、「男性=筋肉質」という男性への認識の固定化が発生する。マッチョじゃない男性も沢山いるのに、だ。そして、逆も然りだ。そして、「男性=同性愛者」と固定化させるBLも当然規制の対象となる。

 また、「女性への価値観の固定化」を懸念するのであれば、規制は性表現だけにとどまらなくなる。 服装や顔立ち、髪形等にもその理屈は適用され、規制される。さらに、例えば西野○ナのような女性の気持ちを歌ったラブソングだって、「女性の気持ち=歌詞」と女性への間違った価値観ができあがってしまうではないか。彼女の歌詞に共感できない女性だって、大勢いるのに。

 

 この理屈が罷り通れば、際限なく規制がかかってしまい、いずれ何も表現できなくなるだろう。これはもはや規制ではなく、「弾圧」だ。こんなものは、憲法が保障する表現の自由を侵害しているどころの話ではない。

 

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 そもそも、価値観の固定化なんてあり得るのか。二次元・三次元や性別、年代を問わず、現在世間に流通する無数の表現物の中には無数のキャラクターが存在し、その多種多様な性格・身体的特徴・メッセージ性を我々は享受している。それらの特徴は、(いくら非現実的なものであっても) 固定化された価値観というより、個性として捉える方がよっぽど賢明ではないか。

 

 爆乳も同性愛も恋の気持ちもすべて個性の一つであるため、現実の人々にそれを強制しない。また、個性は特定の誰かを差別する道具でもない。十人十色で多種多様な個性の流通は、現実世界の個性を認めることと同じではないか。(なお、レイプや殺人のような犯罪行為は例外であり、創作と現実を分けて考えなければならない)

 例えば、同性愛を扱った表現物は、三島由紀夫の『仮面の告白』に端を発する。そこから徐々に同性愛の存在が認知され、近年では性表現を含んだBL作品の隆盛や『おっさんずラブ』の流行が訪れた。その読者や視聴者は、「男性=同性愛」という間違った認識を持っているだろうか。むしろ、「同性愛=個性」と認められ始めているという方が辻褄が合う。

 

  我々は表現物で描かれたある特徴だけに絞り込むよう強要されるのではなく、マジョリティもマイノリティも非現実的なものも個性として総じて受け入れる。これは、差別意識の助長というより、多様性の容認に繋がるのではないか。

 

性表現が悪になる

 「女性に対する間違った価値観を固定化しうる表現を排斥すべき」として性表現を規制すれば、固定化されるとして槍玉に挙げられた特徴は、差別の象徴である「悪」と見なされ、必ず忌避される。

 しかし、これもまた女性に対する間違った認識であることは、無視できない。これこそ、かえって価値観の固定化に繋がり、市民の差別意識を助長しうる。

 

(なぜそれが分かるかというのは、歴史を見れば一目瞭然だ。戦前に弾圧された社会主義は悪という風潮が、一般社会に流布した。そこで生き残るには、転向した鍋山貞親や佐野学のように体裁上でも悪から脱却するしかなかった。公権力が規制したものは、無条件に「悪」というレッテルを張られることが、歴史で既に証明済みだ。)

 

 例えば、「豊満な胸」があたかも悪だと決めつけてこれを忌避し、豊満な胸を持つ女性の差別が広がる。そして、前述のように性表現だけでなくあらゆる表現物が規制され、さらなる差別意識を植えつけるだろう。

 

 前述のように、表現物に対して抱く感情は人それぞれなのだ。ある作品を拒否する者がいれば、共感する者もいる。両者とも思想・良心の自由に基づいて、何人たりとも侵してはならないはずだ(第十九条)。だから、拒否したい人は「見たくない自由」が、見たい人はそれを追求できる「幸福追求権(十三条)」がそれぞれ保障されているのだ。

(幸福追求権は、必ず公共の福祉に沿わなければない。例のポスターの掲載は見たくない自由を侵害しており、公共の福祉に反したため幸福追求権は認められない。)

 ある表現に共感できないからといってそれを一方的に弾圧するのは、戦前への回帰のような気がして、何だかきな臭い・・・・

 

 多角的・多様な表現を流通させてこそ、多くの個性を認めることに繋がるのだ。

 

 女性の多様性を認めようとして性表現を規制すれば、かえって自縄自縛に陥るのは火を見るよりも明らかだ。性表現の規制の根拠を女性差別に求めるのは、あまりにも飛躍した論理ではないか。

 

 容姿罵倒と性表現

 また、他の記事では「女性は男性に容姿を罵られるが、それは性表現に起因するから、規制すべき」といった批判も存在した。これは、①でまとめた女性差別が身近で発生している問題である。

 勿論、他人の容姿を嘲笑するのはもっての外であり、絶対にやってはならない行為だということは当然である。

 しかし、容姿の罵倒と性表現には、一体どのような因果関係があるのか。性表現を閲覧している人全員が女性の容姿を罵倒しているのであれば、双方の因果関係を確認し、規制の余地はあるが、そうではない。では、性表現は覚醒剤のように判断力を鈍らせるものなのか。いや、違う。①でも述べたように「性表現」と「実際に女性を害する行為」は分けて考えるべきである。

 性表現がそのような行為を誘発しているとは、とても言えない。性表現と容姿の罵倒の因果関係が確実でないなら、性表現の規制は、明らかに不当な表現の自由の侵害だ。

(むしろ、他人の容姿をいじって笑いをとるコンテンツを規制した方がよっぽど有用だ)

 

 こればっかりは、本人の意識の問題である。なお、中立性をもたせるために言及するが、女性も男性の容姿をそしることもある(筋肉とか体臭とか)。性別を問わず容姿の罵倒をなくすためには、性表現の規制では全くの無意味だ。それよりも、個人の意識の改革ではないだろうか。「この発言は、セクハラになる」、「この発言は相手が傷つく」など各々が意識してブレーキをかければ、このような行為は減少していくだろう。この改革を、フェミニストの方々が率先して行うことが、解決の糸口になりうる。

 だから、安易に性表現を規制すれば解決する問題ではないそれこそ、木に縁りて魚を求める空論ではなかろうか。

 

 ジェンダーフリーな社会における性表現

  ただ、フェミニストの主張も分からなくはない。男性中心社会の現状が、女性のエロで溢れる原因である、と。確かに未だ社会は男性が優位であり、女性はあらゆる点で不利になる場合が多い。この差を是正し、ジェンダーフリーな社会を目標とすることに、私は全面的に賛成である。

 しかし、今では、市場規模や数はまだまだ小さいけれど、女性対象の性表現作品も普及し、性表現を描く女性も増加している。女性自らが性を発現できる機会が、ようやく出来上がったのだ。けれどその性表現を規制しては、その芽を摘むことになるのではないか。

 女性の権利を主張し、女性の社会進出を目指すのであれば、性表現の規制は時代の逆コースを辿るものであると言わざるを得ない。

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 以上の点から、フェミニズムの観点から性表現の規制を考えるのは、非常に困難が生じるのだ。

 ただ、今回のポスターの場合は「一般公衆の面前にある性表現」だから撤廃は妥当であり、購入・レンタルしないと見れない性表現については、それが不快で見たくない人は「見たくない自由」を発動し、それを見ないと選択すればいい話だ。

 

 このようなことを言及すれば、「冷たい」「差別主義者」などと貶められることがある。もちろん、表現の自由は無制限ではない。実害が及んだ『宴のあと』事件のようなプライバシーを侵害した表現・ヘイトスピーチの規制は、私も賛同できる。

 ただ、猥褻物について扱ったチャタレイ事件の判決に関して、私は疑問を呈しているし、表現の自由は例外を最小限に抑え、最大限に認められるべきだと考えている。

 憲法で保障された表現の自由不当に侵害されるようなことがあれば、一介の表現者として声を上げないわけにはいかない。

(そもそも、性表現の規制反対が差別になるのかが、いたって謎だが)

 

終わりに

 オタクとフェミニストの論争は今回に限った話ではない(最近では『鬼滅の刃』の女性キャラの胸だろうか)。しかし、どちらも論点が的外れで議論が全く進展せず、水掛け論ばかりなので着地点が一向に決まらない。

 私はどちらかと言えば「性表現賛成派」なのでオタクの立場になるのだが、彼らの意見も上記のものばかりで完全には首肯しかねる。

 どちらも自分の立場に閉じこもるのではなく、事実に基づく大局的見地に立った建設的な議論を望む。

ジャンプの性規制運動が、本当に求めるべきもの

 先日、このようなツイート・署名が物議を醸した。

 

 

 結論から言って、私は「少年ジャンプにおける過激な性表現は、何らかの処置を施す必要がある」と考えている。

 しかし、私はそこに署名をしなかった。忘れていたわけではない。発起人の関口氏の論調には一部同意できない論調もある。また、関口氏及びその支持者は圧倒的な間違いを犯しており、最も大事な点を見失っている。

 彼らの論拠のおかしさと、本当にすべきことを今回まとめた。

 

yururiyuruyuru.hatenablog.jp

 

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©長谷見沙貴矢吹健太朗/集英社

 私の主張と解決案

 私の根拠として、「青少年は判断力が鈍い」、これに尽きる。AVや薄い本には、必ず年齢制限が設けられる。青少年は創作と現実を見分ける判断力が欠如していて、成人より影響を受ける恐れがあるからだ。何でもかんでも制限をかけるべきではないが、露骨な表現(性器の露出や性行為など)に限って、ある程度の処置を甘受する必要があるだろう。

 ”少年”ジャンプとして名を売っている以上、対象は少年少女であり、他の雑誌と違って注意深く考える必要がある。

 そこで、私の解決案を提示しよう。

 

① 巻頭に注意書きを記す。

 

② 少年ジャンプから青年誌に移行する。

 

③ 性教育を強化する。

 

 ①は、注意書きを記すことで、すぐにでも実行に移すことを抑止できる。年齢層が高い青年誌に移ることも、一つの手だ。

 ③は私が最も強調したいことで、これを是が非でも行ってもらいたい。(理由は後述)

 

規制を求める支持者

 発起人の関口氏の主張は、「エロ」と「性暴力」の区別して「性暴力」に対して注意喚起を促すべきだという。その指摘に私は同意するし、想定できる事態を回避するために、やるべきことは最大限にするべきだろう。

(ただ、性知識アンケートに関しては集英社がやるべきことではないと考えるが。)

だが、関口氏の意図に反するかは分からないが、彼の支持者の中には「性表現全体の規制」を主張している者が多く存在した。

 しかし、私は一貫して「性表現の規制反対」の立場をとっていて、そもそも彼らとはスタンスが違う。支持者の多くは規制せよの一点張りであり、規制せずに付き合い方を変えてゆく私の主張と相容れないものがある。

 しかし、「性表現の規制」は本当に正しい方向へ導いてくれるのか。

 

規制はできるか

 規制の対象が性暴力であれ性表現全体であれ、「青少年への悪影響」という理由で規制ができるのか。

 保護者が「性を我が子に一切触れさせない」という教育方針を、家庭内で決定しようが自由だ。だが、全ての保護者がそのような方針をとる訳ではない。それなのに「性=青少年に悪影響」と決めつけ、規制するのは過剰な処置ではないか。

 保護者が不快なら、家庭内で性表現を禁止することで事足りるはずだ。わざわざ規制する必要はなく、表現の自由を侵害している。

 

 エロい

 「女体=エロ」や「男=狼」と、関口氏は再三価値観の固定化を危惧していた。しかし、私は前回の記事同様、この現象は起こりえないと考えている。

 我々男性が女体を見た時、絶対に「エロ」しか考えないのだろうか。「母性」や「かわいさ」など、人によって様々なことも考えるだろう。「エロ」だけを考えるわけではないが、「エロ」を考えないわけでもない。女体から享受した多くの価値観の一つに、「エロ」があるのだ。もちろん、これは男体にも起こることであり、我々はこれを無意識のうちに行っている。むしろ、エロという価値観だけを抑圧することは、非常に危険なことではないか。

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エッチは悪か

 関口氏および彼の支持者の主張を聞いて、どうやら「 性やエッチなことはタブー・マイナスなものである」という論拠があるようだ。

 確かに、レイプやセクハラなど細かい点を見れば、性をマイナスなものとして捉えるだろう。しかし、これは性のごく一部に焦点をあてたミクロ的な見方であって、マクロ的な視点で見れば、性は必ずしも悪いこととは言えないのではないか

 アメリカの心理学者マズローは、三大欲求や排泄・呼吸のような人間が生活する上で不可欠な欲求を生理的欲求と定義している。性欲もその一つであり、 性欲がある以上、性的興奮を覚える、エロいと思うことは至って普通なのだ。

(勿論アセクシャルの人もいるので、性欲の存在が当たり前だとは一概には言えない。)

 

 前述のような女体や男体に性的興奮を覚えるのは、何らおかしいことはない。また、それに基づいた自慰行為や性行為、性を創作物として表現するような行為は、反社会的な行為でない限り普通のことであって、性を発信することに後ろめたさを感じる必要なんて全くない。

 

 彼が女の子に性欲を感じた自身を懺悔する分には勝手だが、性表現を巻き込む必要はないし、盗撮して退学になったと書いてあるが、それは個人の意識の問題であり、今回の運動と何ら関係のない話だ。

(詳細は前回の記事を是非ご覧ください。)

 

 彼はエロを求める人を「パブロフの犬」と例えていたが、彼らはメトロノームを鳴らされるだけの実験体ではない。青少年らは多くを学び、多くを経験し、多くを思考する。それらの過程を踏んで成長するにつれて覚える異性ないし同性への性的興奮は、有史以前から存在する欲求なので、漫画どうこうの話ではない。何度も言う。性的興奮を覚えることは狼ではなく、ごくごく普通のことなのだ。

 したがって、ここで大事なのは「正しい性的知識に基づいて性欲を行動に移す」よう導くことではないか。そこで、「性教育」が必須となってくるのだ。

 

徹底的な性教育

 私は、この運動をどこか冷ややかに見ていた。彼らの主張はどれも「性表現の規制」ばかりで、「性教育の強化」を主張する人を見かけることはなかった。

 

 関口氏も「性的な表現に関しては、十分な性教育を受けていなかったので正しい判断はできてなかった」と言ってはいるが、結局「性暴力表現の注意喚起」に帰結し、「性教育の強化」を主張することはなかった。

 

 前項と関連した話になるが、日本には「性はタブー」という風潮があり、性について子どもに教えることも消極的だ。それは前述のように、家庭に落とし込んだ話であれば問題ない。

 ただ、学校教育となると話は別だ。性は我々の生活において避けて通れないものであり、正しい性知識を教育しなければならない。しかし、現状はそれが整っているとはとても言えない。中高生の妊娠が増加しており、日本の性教育の遅れを改めて痛感する。

 

 性教育が行き届いていない状況で性表現を規制したところで、何の効果が見込めるのか。それを見せないことで、子どもが健全に育つと思っているのか。子どもに判断力がないのは性知識が欠如しているのであり、性教育によって本人の意識を変えることこそ、早急に取り組むべき問題ではないか

 学校の性教育で子どもが正しい性知識を得た上で、保護者が子どもに性表現を見せるか否かを決定すればよい。

 

 ちなみに、この記事を執筆する上で、SHELLY氏ら女性三人の議論が非常に興味深く、参考になった。

veryweb.jp

 

 健全な青少年を育てるには、性表現の規制より性教育の強化を政府に求めた方が、断然建設的ではないか。

 

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しずちゃんのお風呂を規制したからといって、

風呂の覗きや盗撮がなくなるのかって話よ

©藤子・F・不二夫/小学館

終わりに

・・・極論、ジャンプにエロ表現がなくても僕たちは大学生までジャンプを購読し続けただろうと思います。

ジャンプ作品の性暴力表現は誰のために書かれているのか、僕は今、甚だ疑問です。

 

 私は、この表現にずっと違和感を覚えている。あなたがそれを求めていないからといって、ジャンプ読者全員にまで拡大適用するのは、流石に厚顔無恥も甚だしい。

 青少年を守りたいのか、それとも単に自分が嫌なだけなのか……。理念が優柔不断であり、無責任としか言い様がない。

 

 もし青少年の健全な性の観念を守りたいなら、やるべきことは「性=タブー」という日本の風潮を見直し、性教育を積極的に導入するべきだ。

 もちろん、注意喚起も大事だ。しかしそこで満足してはならず、ましてや支持者の主張する「規制」は無意味であり、論外だと私は考えている。

オタクもフェミも的外れ ~爆乳ポスターと性規制~

 お久しぶりです。

 今期絶賛放送中の『宇崎ちゃんは遊びたい!』。

 しかし、私はどうもこの作品を見ると、「例の献血のポスター問題」を思い出してならない。

 そこで、(遅ればせながら)今回はこのポスターの撤廃の正当性と様々な界隈の意見を述べようと思う。

 水を差すようで申し訳ないが、それでも表現の自由・性表現・ジェンダーを巻き込んだ騒動が今でも発生している以上、最も表面化したこの問題を触れないわけにはいかないのだ。

 今回は書きたいことが多く、冗長な文章になってしまったが、最後までお付き合いいただけたら嬉しい限りだ。

 

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丈 KADOKAWA 日本赤十字社

 

 結論から言うと、このポスターの撤去は妥当であると、私は考えている。

 このポスターのキャラクターは明らかに胸が大きく、そしてこの煽り文句。これは人によっては性表現と捉えられても仕方がない。

 だが、批判派も擁護派も、大きなおっぱいに気を取られて、本来の問題の本質と乖離してしまっていた。胸の大きさとか二次元だとかいうより、公共でこれを掲載したこと、これこそが問題の本質ではないか。

 

 ポスターの撤廃の正攻法

 日本国憲法二一条一項において、日本国民は表現の自由が保障されている。これは単に表現物を発信する自由だけでなく、その表現物を受け取る自由もある訳だ

(現に、情報を自由に受け取れる権利として「知る権利」がある。)

 一方で、情報の受信を選択できる表現の自由が存在するならば、受け取らない自由「見たくない自由」も存在する。この問題は、ここに焦点を当てるべきではないか。

 

 勿論、ポスターを掲載した側にも表現の自由があり、それに則りこのポスターを作成・公然に掲示し、献血を行うよう宣伝する。それゆえ、このポスターは多くの人の目に止まる。しかし、中にはこれに不快感を抱く者も少なからず存在するだろう。

 R-18の暖簾の中とは、状況が全く異なるのだ。店内は入らなけばいい話だが、公共であればそうはいかない。性表現に不快感を抱く者も、ふとそれが目に入る可能性が高いのだ。となれば、彼らの「見たくない自由」を侵害していることになる。

 

 これこそ、性的なものを含むポスターの表現の自由を規制できる正攻法である。

 単に性表現だからではなく、「大人数が見られる状態で流通している性表現」だからこそ、このポスターは不適切であり、撤廃は妥当なのだ。

 

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オタクたちの反論

 一方で、このポスターの撤廃に対し、異議を唱えるオタクたちが一定数存在した。しかし、その反論はどれもナンセンスで的外れなものばかりなのだ。

 よく耳にする反論は、こんなものだろうか。

 

① これは性表現ではない

 

② 二次元と三次元を区別せよ

 

③ アニメを嫌悪・排斥するな

 

 まず①についてだが、 表現物に対して抱く感情は人それぞれなのだ。これが性表現と捉え、不快に思うのも人それぞれであり、これが多くの共感を得ていることは、性表現と捉えられても仕方ないのではないか。

 次に②、二次元は今や三次元と同様の社会的地位を築き、経済効果を生み出すと考えられ、今回のようなポスターの広報にまで抜擢された。二次元の絵も実際に生きる三次元も、一緒くたに考える必要がある。

 「二次元と三次元を区別せよ」というのはオタクの中での常識なのであり、一般的社会では通用しない。二次元であれ三次元であれ、性表現を不快に感じる人が一定数存在することを忘れてはならない。

 最後の③の嫌悪・排斥したいのも、排斥の対象が「一般公衆の面前にある性表現」なので、二次元やアニメだからだという問題ではない。

 

 フェミニズム的観点からの性表現規制

 しかし、このポスター撤廃の根拠として、「性表現は女性差別を助長する」という意見が多く見られた(正直、見たくない自由よりも遥かに多く)。今回のポスターに限らず、性表現は女性差別を助長するから規制すべきだという主張が、今でも存在する。

 では、性表現は本当に女性差別を助長するのか。今回のポスターに限定せず、二次元・三次元の境界線を超えた全ての性表現について、できるだけ中立に、慎重に検証しようと思う。

 

  よく性差別が女性差別に繋がるとして、二つの理由が挙げられる。

 

① 性表現は女性を侮辱するもの

 

② 性表現による女性の価値観の固定化

 

 どちらの意見も、フェミニズムの観点からよく唱えられる。①は女性を侮辱する性表現は女性差別を促す。②は、今回の場合では「女性=豊満な胸」と女性に対しての間違った認識が当たり前になり、そうでない女性に対しての差別に繋がる恐れがあるという考えがある。

 

性表現と行動の関係性

 まず、①からまとめよう。確かに、女性の尊厳を蹂躙する性表現は少なからず存在する。しかし、性表現全てがそうであるとは限らず、仮にそうであったとしても、そのような表現に触れた人に女性に対する差別を本当に植えつけるだろうか。

 たとえそのような表現であっても、現実に対して強制しているものではない。「性表現」と「実際に女性を害する行為」は分けて考えるべきではないか。それでも感化されて実行に移すのを危惧するのであれば、凌辱系の作品には「※この物語はフィクションです。実際に行うことは犯罪です」というような注意書きを添付することで、予め阻止することができるはずだ。

  公共で掲示されたものであったり、現実に対し教唆・強要しているものであったり、実在の人物を明らかに連想させるような性表現であれば、特定の人物に精神的苦痛・実害をもたらしうるとして、規制は適切な処置であるといえよう。しかし、そのような性表現でなければ、女性差別の生産という因果関係が確認できず、規制は不当であると考えるべきだ。

 公権力は因果関係の不明瞭な性表現の規制より、実際に女性の権利を侵害する行為を取り締まる方を優先すべきではないか。

 

固定化された価値観か、個性か

 次に、②だ。「豊満な胸でない女性も存在するのにも関わらず、女性への価値観を固定化させる性表現は規制すべきだ」という。しかしこの理屈が通用すれば、貧乳の女性を描いても、「女性=貧乳」という固定化が発生してしまう。

 これは男性にも同じことが言える。マッチョな男性を描いても、「男性=筋肉質」という男性への認識の固定化が発生する。マッチョじゃない男性も沢山いるのに、だ。そして、逆も然りだ。そして、「男性=同性愛者」と固定化させるBLも当然規制の対象となる。

 また、「女性への価値観の固定化」を懸念するのであれば、規制は性表現だけにとどまらなくなる。 服装や顔立ち、髪形等にもその理屈は適用され、規制される。さらに、例えば西野○ナのような女性の気持ちを歌ったラブソングだって、「女性の気持ち=歌詞」と女性への間違った価値観ができあがってしまうではないか。彼女の歌詞に共感できない女性だって、大勢いるのに。

 

 この理屈が罷り通れば、際限なく規制がかかってしまい、いずれ何も表現できなくなるだろう。これはもはや規制ではなく、「弾圧」だ。こんなものは、憲法が保障する表現の自由を侵害しているどころの話ではない。

 

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 そもそも、価値観の固定化なんてあり得るのか。二次元・三次元や性別、年代を問わず、現在世間に流通する無数の表現物の中には無数のキャラクターが存在し、その多種多様な性格・身体的特徴・メッセージ性を我々は享受している。それらの特徴は、(いくら非現実的なものであっても) 固定化された価値観というより、個性として捉える方がよっぽど賢明ではないか。

 

 爆乳も同性愛も恋の気持ちもすべて個性の一つであるため、現実の人々にそれを強制しない。また、個性は特定の誰かを差別する道具でもない。十人十色で多種多様な個性の流通は、現実世界の個性を認めることと同じではないか。(なお、レイプや殺人のような犯罪行為は例外であり、創作と現実を分けて考えなければならない)

 例えば、同性愛を扱った表現物は、三島由紀夫の『仮面の告白』に端を発する。そこから徐々に同性愛の存在が認知され、近年では性表現を含んだBL作品の隆盛や『おっさんずラブ』の流行が訪れた。その読者や視聴者は、「男性=同性愛」という間違った認識を持っているだろうか。むしろ、「同性愛=個性」と認められ始めているという方が辻褄が合う。

 

  我々は表現物で描かれたある特徴だけに絞り込むよう強要されるのではなく、マジョリティもマイノリティも非現実的なものも個性として総じて受け入れる。これは、差別意識の助長というより、多様性の容認に繋がるのではないか。

 

性表現が悪になる

 「女性に対する間違った価値観を固定化しうる表現を排斥すべき」として性表現を規制すれば、固定化されるとして槍玉に挙げられた特徴は、差別の象徴である「悪」と見なされ、必ず忌避される。

 しかし、これもまた女性に対する間違った認識であることは、無視できない。これこそ、かえって価値観の固定化に繋がり、市民の差別意識を助長しうる。

 

(なぜそれが分かるかというのは、歴史を見れば一目瞭然だ。戦前に弾圧された社会主義は悪という風潮が、一般社会に流布した。そこで生き残るには、転向した鍋山貞親や佐野学のように体裁上でも悪から脱却するしかなかった。公権力が規制したものは、無条件に「悪」というレッテルを張られることが、歴史で既に証明済みだ。)

 

 例えば、「豊満な胸」があたかも悪だと決めつけてこれを忌避し、豊満な胸を持つ女性の差別が広がる。そして、前述のように性表現だけでなくあらゆる表現物が規制され、さらなる差別意識を植えつけるだろう。

 

 前述のように、表現物に対して抱く感情は人それぞれなのだ。ある作品を拒否する者がいれば、共感する者もいる。両者とも思想・良心の自由に基づいて、何人たりとも侵してはならないはずだ(第十九条)。だから、拒否したい人は「見たくない自由」が、見たい人はそれを追求できる「幸福追求権(十三条)」がそれぞれ保障されているのだ。

(幸福追求権は、必ず公共の福祉に沿わなければない。例のポスターの掲載は見たくない自由を侵害しており、公共の福祉に反したため幸福追求権は認められない。)

 ある表現に共感できないからといってそれを一方的に弾圧するのは、戦前への回帰のような気がして、何だかきな臭い・・・・

 

 多角的・多様な表現を流通させてこそ、多くの個性を認めることに繋がるのだ。

 

 女性の多様性を認めようとして性表現を規制すれば、かえって自縄自縛に陥るのは火を見るよりも明らかだ。性表現の規制の根拠を女性差別に求めるのは、あまりにも飛躍した論理ではないか。

 

 容姿罵倒と性表現

 また、他の記事では「女性は男性に容姿を罵られるが、それは性表現に起因するから、規制すべき」といった批判も存在した。これは、①でまとめた女性差別が身近で発生している問題である。

 勿論、他人の容姿を嘲笑するのはもっての外であり、絶対にやってはならない行為だということは当然である。

 しかし、容姿の罵倒と性表現には、一体どのような因果関係があるのか。性表現を閲覧している人全員が女性の容姿を罵倒しているのであれば、双方の因果関係を確認し、規制の余地はあるが、そうではない。では、性表現は覚醒剤のように判断力を鈍らせるものなのか。いや、違う。①でも述べたように「性表現」と「実際に女性を害する行為」は分けて考えるべきである。

 性表現がそのような行為を誘発しているとは、とても言えない。性表現と容姿の罵倒の因果関係が確実でないなら、性表現の規制は、明らかに不当な表現の自由の侵害だ。

(むしろ、他人の容姿をいじって笑いをとるコンテンツを規制した方がよっぽど有用だ)

 

 こればっかりは、本人の意識の問題である。なお、中立性をもたせるために言及するが、女性も男性の容姿をそしることもある(筋肉とか体臭とか)。性別を問わず容姿の罵倒をなくすためには、性表現の規制では全くの無意味だ。それよりも、個人の意識の改革ではないだろうか。「この発言は、セクハラになる」、「この発言は相手が傷つく」など各々が意識してブレーキをかければ、このような行為は減少していくだろう。この改革を、フェミニストの方々が率先して行うことが、解決の糸口になりうる。

 だから、安易に性表現を規制すれば解決する問題ではないそれこそ、木に縁りて魚を求める空論ではなかろうか。

 

 ジェンダーフリーな社会における性表現

  ただ、フェミニストの主張も分からなくはない。男性中心社会の現状が、女性のエロで溢れる原因である、と。確かに未だ社会は男性が優位であり、女性はあらゆる点で不利になる場合が多い。この差を是正し、ジェンダーフリーな社会を目標とすることに、私は全面的に賛成である。

 しかし、今では、市場規模や数はまだまだ小さいけれど、女性対象の性表現作品も普及し、性表現を描く女性も増加している。女性自らが性を発現できる機会が、ようやく出来上がったのだ。けれどその性表現を規制しては、その芽を摘むことになるのではないか。

 女性の権利を主張し、女性の社会進出を目指すのであれば、性表現の規制は時代の逆コースを辿るものであると言わざるを得ない。

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 以上の点から、フェミニズムの観点から性表現の規制を考えるのは、非常に困難が生じるのだ。

 ただ、今回のポスターの場合は「一般公衆の面前にある性表現」だから撤廃は妥当であり、購入・レンタルしないと見れない性表現については、それが不快で見たくない人は「見たくない自由」を発動し、それを見ないと選択すればいい話だ。

 

 このようなことを言及すれば、「冷たい」「差別主義者」などと貶められることがある。もちろん、表現の自由は無制限ではない。実害が及んだ『宴のあと』事件のようなプライバシーを侵害した表現・ヘイトスピーチの規制は、私も賛同できる。

 ただ、猥褻物について扱ったチャタレイ事件の判決に関して、私は疑問を呈しているし、表現の自由は例外を最小限に抑え、最大限に認められるべきだと考えている。

 憲法で保障された表現の自由不当に侵害されるようなことがあれば、一介の表現者として声を上げないわけにはいかない。

(そもそも、性表現の規制反対が差別になるのかが、いたって謎だが)

 

終わりに

 オタクとフェミニストの論争は今回に限った話ではない(最近では『鬼滅の刃』の女性キャラの胸だろうか)。しかし、どちらも論点が的外れで議論が全く進展せず、水掛け論ばかりなので着地点が一向に決まらない。

 私はどちらかと言えば「性表現賛成派」なのでオタクの立場になるのだが、彼らの意見も上記のものばかりで完全には首肯しかねる。

 どちらも自分の立場に閉じこもるのではなく、事実に基づく大局的見地に立った建設的な議論を望む。

【考察】『かくしごと』~飽和した日常系に新たな風を吹きこむか~ 後編

※注意※ こちらは後編です。より詳しく知りたい方は、是非前編をご覧ください。

yururiyuruyuru.hatenablog.jp 

 前編では、日常系の違和感について説明した。

  『かくしごと』は、娘・姫(ひめ)に自身が漫画家であることを隠す可久士(かくし)の話だ。前回に引き続き、今回もこの作品の特性をまとめた。

 

 極力ネタバレは控えますが、未視聴の方はご注意ください。

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出典: https://kakushigoto-anime.com

 

公私の視点で見るアニメ

 このアニメは、父親としての可久士を中心に描かれているが、漫画家としての可久士という側面も持ち合わせている。だが、仕事系のアニメは数多く、漫画家に焦点を当てた『バクマン。』、さらに職種の範囲を広げれば、『NEW GAME!』や『WORKING!!』等が例として挙げられる。

 

 しかし、かくしごと』の本質は漫画家という仕事ではない。漫画家という職業は単に付随したものにすぎず、本質はやはり家庭なのだ。その点でこれらの作品との差別化は可能であり、ジャンルすらも違ってくるかもしれない。

 なので、今回私は「」・家庭に着目して、日常系のと比較し、まとめていこうと思う。 

 

父親という新たな視点

 前編でも述べた通り『かくしごと』はどこか「日常系らしくない日常系」なのだ。

 まず、本作は日常系に分類して差し支えないだろう。ストーリーよりキャラが中心であるし、dアニメストアではギャグとしていたが、(少なくとも私は)「滑稽さ」より「癒し」を求めた。

 では、本作は他の日常系作品とどこが違うのだろうか。

 これは主題が家庭家族であり、中高生という溢れかえった設定とは似て非なるものだ。

 さらに、これだけでない。日常系では往々にして、現実に即したイベントが起こり、この作品も例外ではない。しかし、父親・可久士の視点で、頑張る娘を見守るという構図であり、これまた他の日常系と一線を画す。

  日常系の新味のなさは、視点の違いで解消できるのかもしれない。

 

会話で構築される信頼関係

 前編で、私は「コミュニケーションが自己目的化している」と述べた。本来、コミュニケーションは他者と関係を築くための手段にすぎないのだが、日常系とはこの関係が逆転し、関係ありきのコミュニケーションとなってしまっている。

 一方で、『かくしごと』はその日常系の特性を打破している。親子の近くて遠い関係性は多かれ少なかれ現実でも同じはずだ。仕事と家庭の両立に奮闘する父、それを心配する娘。しかし、彼らは本質的に理解し合うことはない。

 完璧な親子関係は存在しない。二人の微妙なすれ違いや共感を、会話を通じて絶妙に描くことで、二人の親子関係はより深いものになっている。これこそ、本来のコミュニケーションのあるべき姿なのではないだろうか。

 

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着眼点の相違

 前と似たようなものになるが、子どもには独特の感性があり、これを大人が理解するのは困難だ。だからこそ会話は必要であり、それによって子どもの感性を少しでも理解することができる。

 本作でも可久士は娘の姫ちゃんを溺愛するも、彼女に完全な理解を示せていない。そして時には娘の感性に驚き、感心する。このやりとりもまた、二人の関係を深めるものになるだろう。

 

風景に溶け込む人間

 本作の表現の特徴は、氷菓』や新海誠氏の作品のそれと似ていると感じられた。

 というのも、加藤幹郎氏曰く「主体と風景はあくまでも切り離しえないものとして一体論的に創造されるのが新海誠のアニメーションの特徴である」としている。アニメを含む多くの映像作品は登場人物を中心としており、風景は無視される傾向にある一方で、新海氏の作品はこの二つを一体化している。

 つまり、これは私が勝手に定義した言葉であるが、多くのアニメの表現は「風景から浮き出る人間」であるのに対し、新海氏の作品の表現は「風景に溶け込む人間」のような特徴がある。

 しかし、この表現方法をとっているのは新海氏だけではない。例えば『氷菓』もその一つだ。とはいえ、この表現方法を用いているのは稀であり、多くの作品は風景と人間を分離する。しかし、この『かくしごと』、キャラを主体にした日常系であるのにも関わらず、特に序盤・終盤での鎌倉の情景描写は、この特徴と似ているようだ。

  電車に乗り、坂道を登り、一つの家を訪ねた姫ちゃんは、そこで父のかくしごとを知る。真実を知った彼女はその家の中を見回り、寄せては返す波のように、彼女の心は移ろいゆく。

 彼女は、風景とともにある。

 美しき鎌倉。ぜひ一度、行ってみたい。

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七里ヶ浜の坂道と江ノ電

出典: https://www.trip-kamakura.com/feature/4106.html

 

まとめ

 この作品を通して見ても、親子二人の会話や空気感を消費しているという点で、日常系という定義もやはり間違っていないのではないか、と個人的にはそう思っている。けれども、それは決して視聴者にとって都合のいいものではない、一つの家族の生活を我々は見ていたのだ。

 ここまで冗長になってしまったが、以上の説明が、本作が「日常系らしくない日常系」であると感じた所以である。

 

おわりに

 『かくしごと』は、先日最終回を迎えた。終始心温まるファミリー劇場であった。

 ここでは書かなかったが、漫画家としての可久士はコミカルに描かれているので、非常に面白かった。

 リアルタイムでこの作品に出会えてたことに感謝したいと思う。

 

 ご指摘やご感想がございましたら、何なりとコメントでお書きください。

 それでは!

 

【考察】『かくしごと』~飽和した日常系に新たな風を吹き込むか~ 前編

 『かくしごと』は2020年春アニメの一つである。一人娘の姫(ひめ)に自身の職種である漫画家を隠し通す父親可久士(かくし)の話だ。ギャグ要素が多く、非常にテンポよく見ることができる、日常系のアニメ作品だ。

  とは言うものの、私はあまり日常系のアニメを見ない。もちろん『けいおん!』『らき☆すた』など大好きな日常系の作品はあるけれども、大抵の作品は私はどうしてか途中で飽きてしまう。

 しかし、私はこの作品に夢中になった。ではなぜ、日常系に飽きる私がこの作品の虜になったのか。きっとそこには、他の日常系の作品とは一線を画す特徴があるからに違いない。

 

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出典: https://kakushigoto-anime.com

 

 今回初の試みとして、前編と後編で記事を分けようと思う。こちら前編では主に「日常系」について考えていきたい。

 

日常系とは

 まず、日常系(空気系とも)を私なりに定義してみようと思う。様々な方が様々な形でこれを定義しているが、私はこう定義する。

登場人物の余計な関係性・緻密な設定・ストーリー性・メッセージ性・伏線などを排除し、時間や空間のような最低限の舞台に登場人物がコミュニケーションをとる作品

  いわば、必要最低限の世界観のなかで、登場人物が中心となって展開される系統のアニメだ。

 例えば、『けいおん!』『ご注文はうさぎですか?』のように、多くは複数の未成年の女性が登場するが、最近では男性が登場する作品(ハーレム作品等)や、逆に男性だけが登場するものも多くある。

 また、日常系はギャグ作品との線引きが難しいと言われるが、主に視聴の目的だろう。ギャグ作品の場合、視聴者は「笑い滑稽さ」を求めるが、一方で日常系では「癒しかわいらしさ」を求める。

 故に、日常系は「萌え要素」が必要不可欠なものとなってくる。

 

日常系とキャラ文化

 私は、日常系は「キャラ文化の極地」であると考えている。私がよく言う「キャラ文化」を、ここで簡単に話しておこうと思う。

 キャラ文化とは、ストーリーやその裏にあるメッセージ性より、キャラクター(あるいは声優)にスポットライトを当てる文化だ。

 この文化の浸透は、消費者と生産者の二つの側面で説明する必要がある。

 消費者は、二次創作にその原点がある。80~90年代の同人誌の発展により、本来のストーリーを度外視し、キャラに焦点を当てたオリジナルストーリーが展開されることがある。

 00年代、ニコニコ動画YouTubeMAD動画が流行する。これもまたキャラクターが重要視され、その作品のストーリーは無視されがちだ。

 10年代、誰もがスマホを持ち、ネットがより身近なものとなった。これによりTwitterやpixivでキャラクターの二次創作や画像がより多く拡散されるようになった。ここでも、ストーリーの居場所はない。

 一方、生産者側もこの文化に火をつけた張本人である。東浩紀氏は、『新世紀エヴァンゲリオン』の制作会社が『綾波育成計画』を発売したことを皮切りに、生産者も本編のパロディのような作品を販売しているという。(例えば、『進撃の巨人』のパロディ作品『進撃! 巨人中学校』が公式に販売されている。)

 

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出典: https://www.broccoli.co.jp

 また、前回の私のブログ*1にもあるように、アニメ制作は資金がかかるためキャラクターのグッズで資金を回収する。無断転載の横行もあり、制作会社はこの方法で利益を得ている。その影響で、ストーリーの面白さよりキャラのかわいさ・カッコよさが優先されてしまった。

 このキャラ文化の浸透は、ストーリーの衰退を呼んだ。映画・アニメ監督の押井守氏は「物語の退潮が著しい」と危惧した。*2 そして衰退が加速したストーリーが、とうとう無になった。これが、「日常系」として落ち着いたのではないのだろうか。

 

ここが変だよ、日常系

 ここで、私が覚える日常系の違和感について、いくつか書こうと思う。

 

 倒錯したコミュニケーション

 まずそもそも、我々人間はどのようにして他人を理解していくのか。それは、紛れもなく「コミュニケーション」である。我々はコミュニケーションを行うことで、人の意見や性格を知り、他人のブラックボックスな心を少しでも理解し、徐々に関係を築き上げていく。

 しかし、日常系はどうか。登場人物は互いにコミュニケーションをとるけれども、それは他人を理解するためではない。むしろ、完璧な関係が成立した上で会話が行われている。もちろん、現実では「完璧な関係」などありえない。(アニメの世界に現実を持ってくるのはナンセンスだと言われればそれまでだが)

 本来「人と関係を築くため」の手段にすぎないコミュニケーションが自己目的化していて、なんだか変な気分になる。

 すなわち、彼女たちが行っているのは倒錯したコミュニケーションでしかなく、その意義はただ一つ、視聴者が求める「萌え要素」の一環でしかないのだ。

 

時間・空間の固定化

 日常アニメといっても、時間や空間の設定は現実に依存しがちだ。登場人物は中・高校生、場所は学校やバイト先が多い。そして時間や季節に応じて行われるイベントも、入学式・夏冬休み・文化祭・ハロウィン・クリスマスなど、現実に即する。いわば現実のコピーだ。

 だから、作品ごとに設定が被る。もちろん作品それぞれに違った展開が工夫されているが、如何せんストーリーがないので、結局どれも似た色になる。これが新味のない原因なのかもしれない。

 

心のない思春期少女達

 日常系の多くは「思春期の少女たち」が多く登場する。特に思春期という多感な時期なので、外見だけなく内面も書く必要がある。思春期で発生する将来の不安や人間関係の悩みなど、慎重に書かなければならない。

  だが、日常系において「思春期の子にしては不自然だ」と思う節がある。例えば「勉強を忘れてのうのうと生きる」であったり、「将来を案ずることなくのうのうと生きる」であったり、ハーレム作品に限定すれば、「経緯を省略して唐突に主人公に好意を寄せる」であったり。ロボットじゃないんだから。

 私は、これはかなり危険なことに思える。思春期特有の不安や悩みを無理やり喪失させ、あたかも自分の人生を何も考えずのらりくらりと過ごしている。

 これは思春期少年少女の本来の姿ではない。

 「アニメにリアルを持ち込むな」という意見はごもっともだ。しかし、思春期の人間の日常を模している以上、現実の人間を投影する必要がある。彼女たちの行動に因果関係を設けるためには、心情描写にも注目するべきである。ただ起こったことを会話だけで成立させては駄目なのだ。

 男の妄想垂れ流しは、抜きアニメだけにしろ!

 

 終わりに

 これは一般論で話しているので、個々の作品を批判しているわけではない。

 そして冒頭にも述べた通り、『けいおん!』などは大好きなので一概に日常系が嫌いとはいえない。ただ、苦手なだけなのだ。

 

 だが、『かくしごと』は日常系であるが、その特質を維持しながらもこれらの違和感を解消した唯一無二の作品だと感じた。

 

 では、どの点でそう感じたのだろうか。

 それはまた後編で。(近いうちに出します。ご覧になってくれたら幸いです。)

 ご指摘やご質問がございましたら、ご遠慮なくコメントください。

 それでは。

『鬼滅の刃』が遺した貢献と課題

 5月25日、『鬼滅の刃』が華々しくクライマックスを遂げた。昨今ジャンプ作品の人気が久しく燻っていた中、これほど売れた作品は珍しい。

 オリエンタルラジオ中田敦彦氏など、多くの方々が「なぜ『鬼滅の刃』は売れたのか」について分析しているので、今回私は「『鬼滅の刃』が遺したもの」について語ろうと思う。

 

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出典: https://www.aniplex.co.jp

 

アニメへの認識の変化

 大衆は、特に深夜アニメをどこか色眼鏡で見ていたはずだ。メディアも、ある事件の犯人とアニメを関係性を執拗に強調していたことがある。

 しかし、今回の一大ムーブメントは、メディアも積極的に取り上げた。その影響で、アニメ・漫画オタクでない人にもこの作品が普及した。本作はグロテスクな描写もあるが、女性や子どもまでもが、この世界観に魅了された。

 やはりネットの台頭によって、ネットの文化が普及したのだ。『鬼滅の刃』の人気は、それを完全に具現したものであるといえる。

 ネット文化の浸透はこちらでまとめているので、是非ご覧ください。

 

yururiyuruyuru.hatenablog.jp

 

キャラ文化の再確認

 アニメは専ら、キャラを中心として放映されることが多い。要因は様々あるが、ドラマのような実写と比べて、アニメ制作は資金や労力、時間がかかる。その資金をキャラクターグッズや声優のイベント等で回収する。昨今は違法アップロードもあるため、制作会社はこのような方法で利益を得ることが往々にしてある。

 これが、キャラ文化の始まりだった。ストーリーよりもキャラを重視したことで、興業化は成功し、世界的に日本のアニメは人気を博した。

 そして今回の『鬼滅の刃』の流行も、やはりキャラクターを中心としている点もある。

 以前にも『進撃の巨人』のリヴァイ兵長や『ヒロアカ』の爆豪のような、比較的ストーリー性のある作品でも圧倒的に人気なキャラが際立って存在していた。そして、『鬼滅の刃』にも同じ現象が起こっている。(善逸など)

 ネットの登場で、Twitterやpixivでそのキャラを描いた画像が拡散される。それがより一層キャラ文化を浸透させ、ついに大衆にまで行き渡ったのだ。

 (とはいっても、大衆文化であるテレビドラマも、ストーリーよりキャスト目当てで視聴する人も多いので、大衆も潜在的にキャラ文化と似た性質を持ってはいたが)

 

違法アップロードの横行

 勿論、これは『鬼滅の刃』だけの問題ではなく、全ての作品に通じるものだ。しかし、『鬼滅の刃』は需要が高いためか、無断転載の数はより多く見受けられた。

 

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2020年5月27日現在のYouTubeの検索予測結果 赤枠が漫画の無断転載を表している

 

 YouTubeではアニメより漫画の無断転載が多かったが、いずれにせよ無断転載や海賊版著作権法に違反しているので、いずれ出版社が何らかの処置を行うだろうが、今後も付きまとう課題となるだろう。

 というより、検索候補に出るほど無断転載の漫画を視聴していたことに驚愕した。

 

 民度

  さて、人気になればなるほど付随される問題。それは「民度」だ。

 よく、「『鬼滅の刃』のファンは民度が悪い」と耳にする。他の作品を排斥し、『鬼滅の刃』を一番だと豪語しているという。

 確かに全ての作品のファンに秩序を乱すものは一定数存在し、分母が多ければそれもおのずと増える。しかし全体から見れば彼らはマイノリティであり、悪目立ちしているだけなので、彼らを批判するならまだしも、『鬼滅の刃』を批判するのはお門違いだ。

 これは正直どうしようもないが、実際作品の評判を落としかねないので、ファン同士で注意し合うことが重要である。

 すなわち、我々ファンの態度も改めるべき時なのかもしれない。

 

おわりに

 民度の問題も、逆に考えれば、新規のアニメファンが増えたといえる。

 『鬼滅の刃』の流行で、アニメの大衆への浸透は明白となった。アニメは今重要な局面に立たされているのかもしれない。

 今後これらの課題を解決しながら、新規のアニメファンを取り込むか否かが、命運を左右しうる。

 私は、アニメがより良いものになることを切に願う。

 

 間違いがございましたら、何なりとご指摘ください。

 それでは。

 

『生徒会役員共』~私の下ネタの根源~

先日、あるアニメが公式に投稿された。

 

www.youtube.com

 本作は、ボケ役の会長天草シノ・書記七条アリアとツッコミ役の副会長津田タカトシ・会計萩村スズの4人を中心に繰り広げられるギャグアニメです。もちろん色々なキャラクターが登場しますが、そのどれもが個性的で津田を苦しめます。

 このアニメ、恐ろしいほどの中毒性。なぜか何度も見てしまう。

 驚異的な下ネタを早いテンポで畳みかけ、的確な津田のツッコミが本当に癖になる。

 

 私が中学生の時に漫画を初めて読み、次にアニメに入り、だんだんと私の下ネタは培われてきた。当時は何言ってるのか分からなかったけど、今では分かる。

 今はこんなんになってしまったよ、お母さん。

 

 ラジオも聞いてみたのですが、ツッコミ役2人の中の人の方が実はやばいんですよね。アニメ以上にはっちゃけちゃってます。

 コロナで予定通り公開されるのかは不明ですが、今年は二度目の劇場版も公開されます。下ネタが苦手でなければ、本当に爆笑必至の作品なので是非ご覧ください。

 

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出典: http://king-cr.jp

  

 

 

 

 ↓この辺にスズ

 

【考察】『妄想代理人』~現実逃避とデータベース消費~

  『妄想代理人』は2004年に放送されたテレビアニメで、今敏監督が手掛けた初めてのテレビアニメです。

 今監督は平沢進さんのファン(通称馬の骨)としても有名で、平沢進さんのOP曲「夢の島思念公園」に加え、不気味に笑う登場人物が印象的です。

 今回はこの作品を自分なりに考察してみました。

 ネタバレを多く含みますので、未視聴の方はご注意ください。

 

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出典: https://anime.dmkt-sp.jp

あらすじ

 大人気キャラクター「まろみ」を生み出したデザイナー鷺月子は、スランプに陥っていた。その帰路彼女は通り魔「少年バット」に襲われ、怪我を負ってしまう。それから「少年バット」に襲われる事件が多発し、世間を恐怖に陥れていく。

少年バットの正体

 「少年バット」は現実に疲れ切った人を次々と襲う。被害者は怪我を負うものの、どこか晴れ晴れした顔をしている。

 そして、「少年バット」の模倣犯として留置されていた偽少年バットも、「少年バット」によって殺される。そこから連続通り魔事件を追っていた元刑事馬庭は、「少年バット」を幻想妄想と定義した。

 結局彼の正体は、馬庭の言う通り月子が生み出した幻想だった。幼い頃、彼女は愛犬を自身の不注意で亡くしてしまう。自身の過失で起こったもののはずなのに、彼女は内気な性格のせいで父親に真実を言えず、「少年バット」に殺されたとでっちあげた。

 ここに、妄想の「少年バット」は現れたのだ。

 「少年バット」は初めは普通の大きさだったものの、市民の噂や妄言でどんどん肥大化し、最終的に手が付けられなくなるほど大きくなってしまう。ここからも、「少年バット」は単なる幻想にすぎないことが分かる。

 

「まろみ」と「少年バット」の関係性

 そして、もう一つ忘れてはならないのが、「まろみ」だ。「まろみ」は月子が生み出したキャラクターで、世間を大席巻している。

 「まろみ」には元になったものがある。それは、彼女が幼い時に飼っていた愛犬の名前だ。前述の通り彼女はその愛犬を亡くし、その責任逃れのために「少年バット」を作り上げた。

 最後、月子が幼少期の事件を自身の過失と受け入れることで、「少年バット」も「まろみ」も消滅する。つまり、「まろみ」も「少年バット」も同時に生まれ、同時に消えたのだ。

 

 私は、この「少年バット」と「まろみ」の関係性は、「暴力」と「癒し」の関係性と同義であると考えている。

 「少年バット」によって暴力をもたらされた者は、心地よさそうな表情を浮かべている。暴力は、辛い現実から解放できるのだ。

 一方で、「まろみ」もまた同義だ。癒しキャラとして、「まろみ」は爆発的なブームになった。しかし、結局それは辛い現実を覆いかぶせるだけの存在であり、「まろみ」が一斉に世界から消えてしまうと、現実に直面せざるを得なくなり、「まろみ」欲しさに街や人は混乱状態になってしまう。

 一見、「暴力」と「癒し」は正反対の意義として捉えられる。しかし、「暴力」も「癒し」も現実逃避させるものとしては同義であり、「暴力」は時には人を癒し、「癒し」は時には暴力になりうる。

 つまり、それらは表裏一体な関係なのだ。「暴力」も「癒し」も、現実から妄想へ逃げるための橋渡しのような役目をしている。

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今敏マッドハウス妄想代理人」製作委員会

 

黒い塊

 最終回、黒い塊が街を襲い、市民を飲み込む。私は黒い塊は「少年バット」と捉え、「まろみ」を失い現実に直面した市民を襲撃したと考える。

 そして、最後には「まろみ」と混濁し、街ごと飲み込んでしまう。しかし、月子は愛犬を自身の不注意で亡くした現実を受け入れ、黒い塊は消滅し、そこには廃墟と化した街と人だけが残った。

 荒廃した街の様子を、元刑事の猪狩はこう言った。

「まるで、戦後じゃあねえか」

妄想代理人』 第十三話「最終回。」 

  彼の台詞は、廃墟と化した街だけを言っているわけではない。戦前の日本は、困難な現実を、神国思想のような無根拠な理想で覆い隠ししていた。しかし玉音放送の後、終戦という現実を突き付けられた市民は、すがるものが何もないまま彼らは生き続けなければならない。このような人の精神的な面も含めて、彼はそう言い放ったのかもしれない。

 

繰り返す現実

 街はすぐに復興したものの、そこは元と変わらず、人々は責任逃れや言い訳をしながら生きていた。そして「まろみ」に代わる新たな癒しキャラも登場し、人々を現実逃避へ誘い込む。

 結局、人間は何かにすがって生きなければならないのかもしれない。

 

データベース消費

  この作品を考察していて、どこか東浩紀氏の『動物化するポストモダン』に酷似している点が多いと思った。

 

 東氏は90年代後半以降の人々、特にオタクの消費を「データベース消費」と定義した。我々現代の消費者は、作品(小さな物語)やその背後にある世界観(大きな物語)を消費しているのではなく、キャラクター(大きな非物語)のさらに背後にあるデータベースを消費しているのだという。

 例えば、萌え要素(メイド服・猫耳アホ毛etc)は単に情報であって、それらを組み合わせることで、我々は初めてそのキャラに「萌える」のだ。

 そして、作家のメッセージ性より萌え要素の嗜好や相性で判断され、即物的で単純に(本文では薬物依存と比喩している)消費するようになったことを、「動物化」とも定義した。

 しかし、それはオタクだけにとどまらず、娯楽全般にも適用されると東氏は言う。

 今回の「まろみ」にも当てはめることができると私は考える。様々な構成要素で癒し系「まろみ」を作りだし、人々はそれを受容し、欲望する。『妄想代理人』は、このような薬物依存的な消費をする現代の人々を表したのではないのだろうか。

 『動物化するポストモダン』の初版は2001年、『妄想代理人』が放送された2004年と比較的年代が近い。やはり、どちらも90年代~ゼロ年代の世相を反映しているといえよう。

 『動物化するポストモダン』はサブカル論として、今でもかなり参考になる点が多いので、まとめられたらまとめます。(多分無理

 

 

おわりに

 いかがでしたか? 15年以上前の作品なのに、結構現代にも通ずる皮肉や風刺が効いてますよね。

 偉そうに考察してますが、お爺さんとか正直まだまだ分からないことだらけです。

 でも、あえて謎を残して視聴者に判断を委ねているのも、今監督の作品の特徴と言えるかもしれません。

 平沢進さんのOPは、やっぱり頭に残りますねえ……

 ほかにも今監督の作品を考察をしているので、ぜひご覧ください!

 それでは

 

yururiyuruyuru.hatenablog.jp