【考察】『パーフェクトブルー』~現実が虚構に、虚構が現実に~
この自粛ムードの最中、私は『PERFECT BLUE』を見た。1997年に上映された今敏監督のアニメ映画である。今敏監督の作品はこれまでに『妄想代理人』や『パプリカ』を見たのだが、難解なのにどこか引き込まれる世界観に私も魅了され、本作もワクワクしながら見させていただいた。

あらすじ
主人公、ミマは事務所の意向で、アイドルから女優に転身する。ミマのマネージャー、ルミはアイドルに戻ることを勧めるも、ミマは「自分が決めたことだから」と濡れ場シーンも果敢に挑む。しかし、ストーカー被害に加えて、女優としての職業に疲弊する彼女の周りで、次々と殺人事件が発生する。
本作は、始終アイドルと女優の板挟みにあう主人公を描いている。殺人事件がメインではなく、それを通じた主人公の葛藤を心の崩壊を軸に話が展開される。
今回、本作について私なりの考察を考えてみた。もちろん個人的なものなのでこれが正解と決めつけることはできないが、参考程度に読んでいただきたくとありがたい。
ネタバレを多く含んでいるため、未視聴の方はご注意ください。
考察
このアニメの最大の見所は、やはり現実と虚構の目まぐるしい入れ替わり立ち替わりだろう。どこが現実で、どこが妄想か、一度だけ見ただけではなかなか理解できるまい。私も複数回繰り返してみても、未だ分からない点は多くある。
幻影
前述のように、ミマは「女優としての自分」に満足しておらず、「以前のアイドルとしての自分」との間で絶えず葛藤していた。
私は、女優なんかじゃなく、アイドルになりたい。そんな願望が、また違う『ミマ』を産み出した。
アイドルとしてのミマは、彼女が作り出した単なる幻影なのだ。
ストーカーや女優としての職業に苦悩するミマの前に、幾度となく幻影は現れ、彼女を誘惑する。アイドルに未練を持つ幻影にとって、それでも女優の道を進むミマやそれに協力する大人たちは邪魔な存在だ。だから、彼らを殺し、ミマ本人も襲撃した。
でも、どうやって?
そこで、劇中の先輩女優落合エリの言葉を拝借する。
「幻影が依り代を見つけたとしたら?」
当然、幻影で人は殺せない。「幻想が実体化するなんてありえない」のだから。しかし、依り代、つまり誰かに取り憑いてその人の手で犯行を行うことはできる。
彼女のヘアヌードを撮った写真家を、幻影に取り憑かれたミマ本人の手で殺したのではないか。実際返り血のついた衣服はミマの家にあり、幻影から解放されたミマは、それを見つけて腰を抜かしている。もちろん本人は殺した記憶なんてない。なぜなら、幻影の意志で殺したのだから。
だが、幻影の被害者は彼女だけではない。彼女のマネージャー、ルミも対象だった。
このアニメは、『美麻の部屋』というサイトがカギになるだろう。このサイトはアイドルとしてのミマの生活が事細かく綴られており、ファンの中には本当にミマが運営しているものだと勘違いしている人もいた。しかし、それはミマがアイドルから女優へ転身した後も続き、疲弊するミマに追い打ちをかける。
おそらく、『美麻の部屋』を運営していたのも、幻影に取り憑かれたルミだろう。ミマはパソコンの知識が疎く、度々ルミに教わっていた。ルミを通じて、幻影がサイトを運営していたのだ。
そして、幻影に操られたルミは、ミマに汚れ役を任せた事務所社長田所を殺害、ミマを町中追い回す。しかし、剥がされたウィッグ(?)に気を取られ、自動車のブレーキ音・ライトを歓声・スポットライトと勘違いし、車に轢かれる。幸い大事には至らなかったものの、精神科に送られ、医師は『解離性同一性障害』のような症状をほのめかしていた。
病名としては解離性同一性障害、いわゆる二重人格として出るだけで、実際には幻影がまだルミを依り代として取り憑いているのではないか。
では、なぜルミに取り憑いたのか。ルミも元アイドルであったが、それに未練を抱いているようだ。幻影とって、ルミもミマに近いものを感じたのかもしれない。

鏡
看護師さん二人がミマを見つけ、「うっそー、ミマなわけないじゃん」とこそこそ噂話をしていた。
ミマはそのまま車に乗り込み、バックミラー越しに笑みを浮かべ、「私は本物だよ」と呟き、物語は幕は閉じる。
鏡は本音や真実を映すものと言われている。白雪姫の「鏡よ、鏡」がその最たる例だ。本作も同じく鏡がそのように扱われている。
電車のガラス窓に映ったミマが、一瞬アイドルのミマとして映し出されたり、アイドルのミマになりきっている(憑りつかれた)ルミも、鏡やガラスに反射した姿はルミそのものだ。
しかし、バックミラーに映るのは、本物のミマ。つまり、幻影としてのミマから解放されている。
今までアイドルとして男性に人気があったミマであったが、女性にも認知されやすい女優としての道を進んでおり、しかもそれに対して、本物だよ、と呟き、鏡はミマ本人を映している。ミマが女優の道に進むことに、葛藤や躊躇いもなくなっているのだ。

風刺
今監督は人間の内面を描いているだけではなく、何か風刺じみたことも描かれている。私が気付いたものを、2点紹介しよう。
過去に固執する人間とストーカーの極端な言動
ルミやストーカーは、アイドルとしてのミマに執着していた。女優に転身し、レイプシーンを受け入れたミマに、必死にアイドルに戻ることを勧めるルミ。ミマのヘアヌードが掲載された雑誌を買い尽くし、他者に彼女の不埒な姿を見せるまいと試みるストーカー。
二人とも、アイドルとしてのミマに執着し、女優としてのミマを受け入れない様子だ。しかし、ルミとストーカーでは、少々執着の意味合いが変わってくる。
ルミは汚れ仕事に取り組むミマを、本気で心配していたように思えた。
一方で、ストーカーの場合は、純真無垢の象徴であるアイドルから一変、女優に転身した彼女を「汚れた」と感じている。純真なミマを自分だけのものにしたい、ミマを他の色に染められたくない、自分の色に染めたい、という欲望だろう。実際に最初は自身の掌にミマを乗せ(る妄想をし)、最終的にストーカーはミマをレイプしようとしている。
つまり、ストーカーの動機は彼女への心配でも何でもなく、単なる独占欲の現れなのである。
テレビカメラの向こう側
私自身芸能人でも何でもないので、その業界のことはさっぱりであることはご了承願いたい。
シナリオよりもキャスト優先、無理強いさせるお色気シーン、事務所のゴリ押し。ミマもドラマのレイプシーンに苦悩していたが、周りには隠していた。しかし、自宅のネオンテトラ(?)が死んでいるのを見て、ミマの悩みは爆発。「やりたくないに決まってるじゃないの!」と泣きながら悶えていた。人間に管理されないと生きていけないネオンテトラに、自分を重ねたのだろう。
所詮、自分は誰かの言いなりなのだ
皆にいい顔しないと、生きていけない
我々はカメラの外側は見えないけれど、そこでは誰かが涙を流しているのかもしれない。

終わりに
今監督の作品は、現実と虚構の往来を描いているものが多い。現実と虚構のどちらも対等に描くスタイルで、国内外問わず、様々な人にその世界観を魅了させ続けた。ここに、今監督の功績があるに違いない。『パプリカ』や『妄想代理人』も今後紹介しようと思う。
あと、かなりエロかったので、もう一周します。
あと、EDでルミの声優が松本梨香さんだと分かった時は、かなり驚いた。
ポケ○ン、ゲットだぜ!!
『果てしなきスカーレット』、これは……

何かに駆られるように、『果てしなきスカーレット』をレイトショーで観てきました。自分の住む町唯一の映画館だからかもしれませんが、平日のレイトショーの割にはそこそこの客入りで、何組かの若いカップルが仲睦まじそうにポップコーンをつついていました。
ただ、二人きりの夜に引き込む前戯として観るには、あまりにも酷な映画です。三文ロマンス映画とは訳が違う、おぞましさと難解さが押し寄せてきて、せっかくの雰囲気を完膚なきまでにぶち壊すでしょう。この映画は、さしずめパンドラの箱なのです。
⚠ ネタバレ注意です ⚠
1.良い所
映像芸術
では、映画料金を無駄にしたかと問われれば、自分はそうは思いません!
天下一品の映像芸術を観ただけでも、十二分に価値がありました。特に雷鳴轟くシーンは、映画館の音響技術も相俟って圧巻でした。見晴るかす広大な大地も、モンゴルかどこかの現実の風景かと見紛うほどに美しく、大地の冷たい空気がスクリーンを通じて自分の肺に入ってくるかのようでした。
また、芦田愛菜さんも個人的には良かったです。マルマルモリモリをいじらしく踊っていた愛菜ちゃんが、こんな大人の女性の役をするようになったのか、と自分の中にないはずの母性が働いたのが最初の感想でした。
2.良い所はそれくらいで…
映像芸術は確かに鳥肌ものなのですが、そのシーンをストーリーに盛り込む必要性を見出せません。
ドラゴン、夢、東京、民衆の反逆、噴火……。鮮烈なシーンは数あれど、それぞれに意義はなく、伏線だと思ってもそのまま通り過ぎてしまいます。そのためにストーリーも単調で、そこまでの刺激がありません。
なんというか、「見た目だけが豪華なコース料理」を食べているようでした。
料理の盛付や装飾は一級品なので、それだけに期待値はぐんと高まります。しかし、フランス料理を食べていたら、スープに味噌汁、メインディッシュにハンバーガーといったように、それぞれの料理に統一性がまるでないため脳が置いてけぼりです。さらにどれも薄味ときたものだから、結局あまり印象に残りません。
その薄味を誤魔化すためなのか、何度も何度も主人公を叫ばせて、愛菜さんの喉を潰しにかかります。どのシーンでも基本的に叫びまくっているので、正直くどく感じます。いわば、せっかくの料理に焼き肉のたれをぶっかけてるようなものです。
心理描写
前作『竜とそばかすの姫』にもあてはまるのですが、細田氏は「心理描写」の詰めが甘いと感じています。心情の変化や背景でしっかり裏付けされていないために、登場人物が唐突に行動を起こしたと感じてしまうことが多々あります。
⚠ 以下ネタバレ注意! ⚠
序盤のスカーレットが聖と出会うシーン、彼女の旅になぜか聖が随行するのですが、その理由が「お前が人の命を奪わないように」と、よく分からないことをほざきます。「命を救った恩人だから」だとしても、スカーレットの戦闘に巻き込まれただけであり、何より彼は看護師として、「要請に向かわなければならない」という使命があったはずなのに……。
また聖は、たとえ敵であっても、命を奪うことを頑なに拒否していたのに、「自分が死んだ」と自認した途端、敵を弓矢で打ち抜き、刀で刺し違えるのです。前世の最期を思い出して、「自分の命を賭してでも大切なものを守る」と決めたことは理解できるのですが、「大切なものを守るために、相手の命を奪う」となぜ決心できたのでしょうか。彼にとっての一大決心だと思うのですが……。
結末
本作は、おそらくシェイクスピアの『ハムレット』をオマージュして作られています。
(名前や復讐に苦悩する姿、死者の国もおそらく「to be or not to be, that is the question」の世界観だと思います。)
しかし、本作は『ハムレット』とは異なる結末で結んでいます。ただ、その結末がどうも"お利口さん"というか、絵本のような終わり方というか……、お利口さんエンドが悪いわけではないのですが、とにかく荒廃した世紀末の世界観にあまりにも似つかないのです。
世界観や戦闘描写から人を選ぶ作品なのは明白なのに、結末はまさかの子ども向け。淡白な味のコース料理を頑張って食べ進めたのに、最後に出てきたのがただの"水"。もはや乾いた笑いしか出ませんでした。
奇妙奇天烈な精神世界で自問自答に苦悶する点は今敏監督作品のようではありますが、その結論が純粋無垢な絵空事。でも、子どもに見せるにはあまりにも難解すぎる。日テレなどからの外圧もあったのかもしれませんが、虻蜂取らずの作品であることが低評価の要因の一つだと推察されます。
まとめ
劇場の明かりがふんわりと灯ると、男が女を引っ張ってそそくさと外に出ていくのが見えました。二人の表情は曇り、少しも口を開くことさえせずに、まるで死者の国から逃げるように。きっと今夜のピロートークはこの映画の愚痴で溢れ返るのかなと思うと、細田監督も罪な男だ。そして自分も、人前では決してするまいと堪えていた溜め息を、車の中で一気に放出したのです。
確かに決して面白いとは言い難い作品でしたが、『未来のミライ』や『竜とそばかすの姫』よりは好きです。(個人的に『未来のミライ』を上回る駄作はないと思う……)
細田守監督は新海誠監督とともに、現代日本アニメ映画の双璧だと考えていたのですが……。シリーズもののアニメ映画が大盛況の中、単発作品は鳴りを潜めている気がするので、頑張ってほしいと思っています。

アンチ・MBTI
最近よく耳にする「MBTI」。人の性格を16に分類したもので、世間話の延長で「あなたのMBTIは何?」と問われる機会もそこそこあります。私も昔に元恋人の影響で診断したことがあるのですが、その結果を伝えて「ぽいね!」とか言われると、「お前には何が分かるんだよ」と私の内に住まう天邪鬼が囁いてしまいます。
私自身、このような「大枠で囲って人の性格や価値観を評価する」行為が、あまり好きではありません。血液型や県民性も同様、乱暴に心理を決めつけているだけで、人間の本質には一切到達していないからです。
本記事を執筆する上で再度試してみました。確かに詳細を見ると自分に即する部分も多くあるのですが、鏡を見るように寸分違わず私を映してはくれません。むしろ私を徹底的に美化して映す、自惚れ鏡だとさえ感じます。
人間の奥底には、理論や科学では証明できない矛盾が孕んでいます。
私は、一人旅や一人焼肉など単独行動することを厭いません。誰かといると気を遣って疲れるから、一人の方が気が楽なのです。でも、ずっと一人でいたい訳ではなく、ふとした時に一人が「独り」に変わって、異様に誰かと話したくて堪らなくなります。そしていざ誰かと一緒に旅に行ってみると、「ああ、やっぱり一人の方がいいなあ」と後悔するのがオチなのです。
この堂々巡りする起承転結に、我ながら身勝手な人だとため息が出ます。でも、この自己矛盾が、感情を持つ人間の真髄なのではないでしょうか。一人を愛する内向的な自分、時には誰かと一緒にいたい外向的な自分、相反する自分が同じ心の中に居座わっている。嚙み合わない二つの歯車は人間を動かす原動力であり、その葛藤があるからこそ美しい芸術が生まれるのです。

MBTIは、そんな人間の心理の一面的な部分しか映してくれません。「あなたのMBTIは××××だから○○だね」と複雑怪奇な心理を大雑把に決めつけて、すべてを理解した気でいるのです。人の性格なんて16種に区切れるほど、機械的であるはずがないのに。
自分のMBTIを旗印にして、それを誇示したり振り回されたりしている人も見かけますが、それは単に自分のほんの一部にスポットライトを当てただけにすぎず、それを基に相性だの人生観だのを語るのは荒唐無稽も甚だしいです。
あなたは赤の他人に見透かされるほど、単純な人間なのか。
ここまでMBTIが隆盛を極めたのは、「他人を知りたい欲求」が根底にあるのだと思います。誰にも知り得ない人間の心理を、強引にまとめるための格好の枠組だったのが、一昔前の血液型であり、今のMBTIなのでしょう。言葉でいくら取り繕っても、MBTIは嘘を付かないよ、と。
人間は、4つのアルファベットでプログラムされてる訳ではありません。様々な矛盾が織りなして作られたのが、人間です。それをまるっきり無視して、人間の本質を分かろうとする行為は、無意味だと私は思います。
心理の深淵を理解するには、結局芸術に触れて、少しずつ紐解いていくしかないのでしょう。それだけ、清濁併せ吞む覚悟が必要なのです。
即身仏ってやったことある?
山形県の人口が100万人を割ったそう。私も地方在住として、他人事ではないなあ、と思いつつ。
正直日本全体の人口が減ってるんだから、地方はそのゼロサムゲームに勝つ術がないのでは、というのは置いておいて。
実は私、五本指に入るほど山形は好きな場所なんです。山寺、銀山温泉、御釜、龍上海ラーメン、人面魚、加茂水族館……。今まで色々な名所に訪れましたし、今後行ってみたい場所も山ほどあります。このニュースが入ってきた時も、直近で庄内地方を回っていました。そこで今回は、先日訪れたとある観光名所をご紹介いたします。
山形といえば、何を思い浮かべますか? さくらんぼ、ラ・フランス、米沢牛、あき竹城、ウド鈴木……。
いえ、即身仏ですよね! 当然ですよね!?

即身仏とは、 いわばミイラ化した仏。現存するもののうち半数は山形県に鎮座しています。言うなれば、山形は即身仏のメッカ。(宗教が違う……。)ミイラというと、やはり古代エジプトを思い出します。包帯で全身をグルグル巻きにした、真っ白な物体。でも、日本のミイラはあまり想像がつきません。
そんな即身仏をお目にかかれる名刹、山形県酒田市の「海向寺」。細い路地の坂を登ると、突然古き良き木造建築が現れるから少し驚きます。せせこましい住宅街に紛れて佇む、一見何の変哲もなさそうな寺院。人の好さそうな住職に案内されて、仏堂の中に失礼します。薄暗くしんとした仏間、ほのかな蠟燭の火が灯す”モノ”を見つけた瞬間、私は思わず立ちすくんで動けなくなりました。
そこには、2体の即身仏が、こちらを見定めるかの如く鎮座しておりました。黒茶色の肌は人の形を完全に保っていて、法衣を身に纏う彼らの姿は、修行中さながらであります。ミイラであるはずなのに、不思議なことに現世に生きる誰よりも生命力が満ち満ちているように見えます。重い瞼は未だ瞬きを続け、歯抜けた口は呼吸を止めず、瘦せこけた頬で安らかな表情を覗かせます。まるで、サバンナのステップのような力強さ。これほどまでの畏敬の念に、私は支配されたことがありませんでした。
即身仏とは、修行の一環なのだそう。死後の腐敗を防ぐために、山の中で草木や木の実を食べて露命をつなぎます。その後、土中に潜って鈴を鳴らしながらひたすら読経を繰り返します。鈴の音が止まったら、入定の合図です。すなわち、彼らは決して誰かから強制されたのではなく、入定してもなお現世にとどまり続けることを自ら望んで、世の安寧を今でも願っているのです。
では、なぜあえてミイラになるという手法を用いたのか。それはおそらく、その願いを最も分かりやすく人々に示すことができるからだと思います。経典や仏法やらを見たところで、私たち素人にとってその真髄は到底理解できませんが、彼らの優しくつむった瞼を見つめていると、ただならぬ信念と献身をまざまざと見せつけられます。先人たちも仏のオーラに圧倒されたであろうし、未来の人もきっと同じに違いありません。まさに「そこにいること」で、平穏無事の願いをあまねく伝えることができるのです。
最後の修行に旅立つ道中、彼らは何を思ったのでしょう。ふとした後悔や不安に、足を取られることはなかったのでしょうか。私なら、怖くなって逃げ出すだろうに。命を賭してまで何かに傾倒したことのない私には、決して共感できない彼らの精神の奥底。漫然と生きてきた者は、それを覗くことさえおこがましい。それでも、彼らはそんな私を包み込むように微笑みくれた気がした。数百年消えることのなかった情熱の火を、そっと私の心に移して。
一つの大作映画を見終えた後のような陶酔感と疲労感を背負って、仏堂を後にします。日本海側特有の鋭い夕陽に突き刺されて、思わず目を細めます。琥珀色に照らされた本堂は、やはり街並みに溶け込んでしまって威厳がありません。でも、その地域との調和こそが、垣根なしに人々に寄り添う何よりの証なのでしょう。

真言宗智山派 砂高山海向寺
・4月~11月 9~17時
・11月~3月 9~16時
(毎週火曜定休日)
・拝観料 大人400円 小人200円
日本テレビ版『ドラえもん』を、新聞はどう報じた?

皆さんは、日テレ版『ドラえもん』をご存じでしょうか? 『ドラえもん』といえばテレ朝のイメージが強く、日テレで放送されたことをご存じでない方も多いでしょう。
といっても、私も存在しか知らず、詳細な事情はよく分かっていませんでした……。しかし、いつものように何気なく開いたYouTubeで、次の動画を見つけました。
三部作とかなりの大作ですが、当時の制作陣の裏事情を詳らかにする、大変分かりやすい動画でした。これに感銘を受けて、私も当時の新聞を利用して日テレ版『ドラえもん』について考察してみようと考え、調査・執筆いたしました。この分野における研究発展の一助になれば、幸いです。
引用文における色・線は、すべて私自身の判断で編集したものです。

資料①『朝日新聞』大阪版、1973年4月1日付朝刊、22p。
1 強力な裏番組
日テレ版『ドラえもん』は、1973年4/1(日)の午後7時より放送開始予定でした。4/1の番組表を参照すると、"新"と書かれていることが分かります。

『読売新聞』1973年4月1日付朝刊、p11。
しかし、日曜のゴールデンタイムは他局も視聴率を確保したい時間帯。当時は、フジテレビとNETテレビが双璧でした。フジには『マジンガーZ』、NETには『アップダウンクイズ』という強力な裏番組が存在しており、とりわけフジは『ガッチャマン』→『サザエさん』→『マジンガーZ』という当時の子どもたちに人気を博した番組が、連続で放映されていました。
他のテレビ局でも、TBSでは『アイアンキング』、NHK教育テレビでは『セサミストリート』の再放送と、子ども番組が軒を連ねました。日曜夜7時は、子ども番組の群雄割拠の時代だったのです。
『オバQ』や『パーマン』のヒットで売れっ子作家となった藤子不二雄氏の作品とはいえ、日テレがこの「子ども番組戦争」を制することはおろか、そもそも見向きもされない可能性さえあるのです。
そこで、日テレは番宣に力を入れました。しかし、ただのCMや広告ではなく、子どもたちに見てもらえるよう創意工夫を凝らしたのです。
2 日光写真
PRとしての「日光写真」
テレビは新番組シーズンとあって、各局とも子供向けにワッペンやシールを作り、盛んに番組宣伝合戦をやっているが、日本テレビが作った日光写真が、中でも爆発的人気。
ところで、日光写真、といっても、今の子供はほとんど知らないようだ。印画紙の上にネガティブの種紙(たねがみ)をのせ、太陽光線で焼きつける、という昔懐かしい子供のオモチャである。
(中略)
種紙は、新番組の「ドラえもん」や「流星人間ゾーン」など五種類作り、印画紙を二十枚つけ、これが一組。原価は三十四円。全部で十万組作った。
先月下旬から東京都内の団地を宣伝キャラバンが配って歩いている。今月下旬まで七十五団地を回る。
日光写真を手にしても子供はわからないが、一緒の父親がまず目を輝かす。「なつかしいねえ」。さっそく包みを開いて子供に手ほどきを始める。子供より大人に人気なのだ。
欲しい人は、日本テレビのPR室まで来てくれれば、一人につき一組くれる。郵送お断りだそうだ。
「人気、昔懐かしの日光写真 日本テレビがPR用に作る」、『読売新聞』、1973年4月19日付朝刊、p13。
日テレは『ドラえもん』を含む新番組の宣伝のため、そのキャラの絵を施した特製の「日光写真」を作成したそうです。
お恥ずかしながら、私その「日光写真」というものを見たことも聞いたこともなく(最初はドラえもんが日光東照宮にいる写真かと思った…笑)、一体どんなものなのか調べてみると……。
原版(種紙)と感光紙(印画紙)を重ねて光に当てて、光に晒された部分が青色に発色して画像を写すそうです(ネガの場合。ポジは彩色が逆になる)*1。どうやら大正時代に初めて写真を取り入れたおもちゃとして子ども達の間で流行したようでして*2、記事のように当時の親世代がノスタルジーにひたるのも理解できます。

私の画力の精一杯です、分かりにくくてすみません…
なるほど、ドラえもんも青色だから、日光写真の特性を上手く活用した訳ですね!
日テレPR室は、「今の子供が知らないものを出そうと考えた。今のオモチャはあまりにも完成されすぎていて、子供が手を加えて遊ぶ余地が全然ない。(中略)これなら、陽に当てる時間のコツでうまい、へたができ、競争もできるのです」と話します*3。
現代でも日光写真を試した方がいらっしゃいましたが、やはり時間の調整が難しい印象です*4。面倒さは逆に子どもたちの印象に残りやすく、親子で教えたり友人と競争したりしてコミュニケーションすることで、『ドラえもん』の話題を増やせます。日光写真は緻密な計算が生み出した、日テレ渾身の番宣と言えるでしょう。

分かりにくいですが、ドラえもんの絵が見えます。
資料③「人気、昔懐かしの日光写真 日本テレビがPR用に作る」、『読売新聞』、1973年4月19日付朝刊、p13。
種紙5枚と印画紙20枚で原価34円。それを10万組用意していたようですので、単純計算で約340万円も費やしたことになります。さらに人件費や輸送費なども含めると、日テレ側の負担は相当なものと推察できます。
カメラ技術の発達で、当時でさえ日光写真を製造する業者がなく、一か月かけてようやく見本を作ることができたという苦労話が、同記事で語られています*5。番宣のためだけに、これだけのお金と時間と労力をかけていたことが理解できます。
そして、これを「宣伝キャラバンが配って歩いている」、「一人につき一組くれる」とあるように、無料で配布していたことがうかがえます。随分と大盤振る舞いですが、それだけ日テレは『ドラえもん』に威信をかけていたのでしょう。
※ 消費者物価指数を基準にすると、2022年の物価は1973年の約2.65倍(=102.3÷38.6)であるため、当時の340万円は現在の約884万円に値します。正確ではありませんが、ご参考までに…*6。
団地をまわる
日テレは、日光写真の配布案内を次の新聞広告で喧伝しています。

これは、高度経済成長で林立した”団地”の住人を対象とした広告です。「こどもたちの新しいアイドルがオミヤゲを持って急いでいます!」と、新番組の宣伝で各団地を毎日来訪していたようです。「オミヤゲ」とは言わずもがな、日光写真でしょう。
賑やかな列車の車両を一つ拡大してみると…

ドラえも~~~ん!!😭
ドラえもん何食べているんだ? 四次元ポケットはどうした?? そして右のやつは誰だ?? くちばしのあるネコか?? 日テレ版にはガチャ子というキャラがいたらしいけど、あまりにも似て非なるもの……。
また、右下のスケジュールでは、75団地のうち23団地が予告されています。地図に当てはめると、次のようになります。
※ 4/1 ⇒ 4/2 ⇒ 4/3 ⇒ 4/4 ⇒ 4/5 ⇒ 4/6 ⇒ 4/7 ⇒ 4/8
地図を参照すると、ほとんどが都心からやや離れた郊外に集中しており、見事なまでに「ドーナツ化」です。そこにわざわざ配布しに向かう訳ですから、それほど団地の年少人口が多かったのでしょう。ドラえもんから、当時のニュータウン事情がうかがえます。
他に子どもが集まる場所として、遊園地や野球場が挙げられます。特に読売グループであれば、おひざ元である東京ドームやよみうりランド*7、ドーム周辺の後楽園ゆうえんち*8で配ることも候補としてあるはずです。
それでもあえて団地を選んだ理由としては、「来てくれる」ことで、子どもの親近感を縮められるからだと考えられます。サンタさんも然りですが、「自分の住んでる所に遊びに来てくれた!」という世界観が、子どもにとって重要です。
そして何より、「親子や友人と共有させる」という日テレの意義に反します。遊園地や野球場で配ると、必ず持ってる人持ってない人が出てきます。友人と競わせるためにも、団地っ子のコミュニティで配った方が効果的だったと推察できます。
ドラえもんマニアの方々に敬意をこめて
正直この記事を読んだとき、ほんとに配ったのかよ、と真っ先に疑いました。番宣だからお金がかかるのは分かりますが、これだけの時間と労力を費やすのは割に合わないだろうと……。同グループの『読売新聞』が美談として誇張したのだろうと、この日光写真の存在を眉唾物で見ていました。
しかし! ネットをあさっていたら、日光写真の現物を実際に持っている人がいたのです!
これはすごい! 資料②におけるイラストと構図がそっくりなので、おそらく当時配布されたものでしょう。
ネットで現物の写真を載せている方が、この方以外にいらっしゃらなかったので、めちゃ貴重です! 藤子・F・不二雄ミュージアムにもないと思います多分!(見てないので分かりませんが……。今度確認してみようかな……。)
あと、あらかた資料探索して執筆した後に、以下のサイトを見つけました。
そこに前述の新聞記事があるではないですか! まさか既出だったとは……。しかも2000年前半の段階で見つけていたとは、熱意がすごい!!
なので、ここではパクリにならないよう、先駆者様が言及していない箇所に触れ、自身の考察もまじえて執筆した次第です。
先駆者様には、改めて敬意を表します🙇🙇
3 声優交代の評価
ドラえもんの声優は、当初男性の富田耕生氏が務めていました。しかし、これが不評だったのか、制作陣は7/1の14回より野沢雅子氏に途中交代するという抜本的な改革に打ち出たのです。声優の途中交代は長寿アニメの宿命とはよく言ったものですが、わずか3ヶ月で、主役が、しかも後任が異性の声優という、あまりにもイレギュラーな采配でした。
その証拠に、資料③にもある『ドラえもん』と同時期に放送開始した4作品を調べましたが、レギュラー陣のキャスト変更は一切ありませんでした。
声優交代の経緯は先駆者様の動画をご覧いただくとして、ここでは交代後の評価について追究していきます。といっても、視聴者が直接これに言及している投稿が一つしか発見できず、多角的に分析することは難しいですが、紹介いたします。
▶︎日本テレビ「ドラえもん」は好きなマンガだったが、一日から声が女性に変わった。ドラえもんはユニークな声の魅力に負うところが大だった。どういう事情で変わったのか知らないが、声変わりしたドラえもんは魅力がなくなった。(浦和市・無職・○○○○49)
「声変わりで魅力半減」、『読売新聞』、1973年7月15日付朝刊、p13。
※ 本名が掲載されているため、一部"○"で伏せています。
個人的に女性の声の方が親近感、かわいらしい印象を受け、男性の声だとどうしてもお節介なおじさん、説教くささが拭えません。 現代の自分達は親父くさいドラえもんの声は考えられないですが、当時の視聴者には「女性に変わって魅力がなくなった」と落胆した人がいたことに驚きを隠せません。
もちろん、「慣れ」が占める部分は大きいと思います。現代でも、後任の声優を批判する原理主義的な人を多く見かけます。しかし、それは男声のドラえもんに違和感がなかったことの裏返しになります。男声のドラえもんに一定の評価を下していた視聴者が存在したことが理解できます。
また、日テレやアニメ会社の采配を批判する投稿を、系列会社の『読売新聞』が掲載している点にも着目すべきでしょう。なぜ評価する投稿を紹介しなかったのでしょうか。『読売新聞』の本心か、あるいは、そもそも応援する投稿がなかったのか……その意図は不明です……。
まとめ・感想
日テレ版『ドラえもん』は、現在「失敗作」や「黒歴史」と散々酷評されています。確かに結果的に見ればその通りなのですが、当時は日テレが日曜のゴールデンタイムにあえてぶつけるほど、『ドラえもん』に期待していたことが分かります。
そして、番宣として『ドラえもん』を含む新番組の日光写真を作成し、各団地に配布する戦略をとりました。これは、子どもとの親近感を縮める、親子や友達と共有するという二つの目的が推察できます。
しかし、日テレは男声であったドラえもんを、女声に急遽変更するという大改革を打ち出します。それに対して、『読売新聞』は女声のドラえもんを公然と批判する投稿を紹介しました。
ただ、強力な裏番組や一貫性の欠けたキャストなど原因は多く推測できますが、結果的に『ドラえもん』は半年で終了してしまいます。1979年よりテレ朝やシンエイ動画が一から制作し直したアニメが奏功し、日テレでは成し得なかった『ドラえもん』を国民的作品に押し上げることに成功しました。しかし、その栄華の中で辛酸をなめ続けた過去は忘れ去られ、はなから順風満帆なエリートであるかのように、今日も子どもたちを笑顔にし続けているのです……。

『読売新聞』1973年9月30日付朝刊、p11。
日テレ版『ドラえもん』の資料少なすぎるだろ! そりゃ闇に葬られるわ!笑
参考文献
・『朝日新聞』
・『読売新聞』
*1:
*2:斎藤良輔「日光写真」、『日本大百科全書(ニッポニカ)』
*3:「人気、昔懐かしの日光写真 日本テレビがPR用に作る」、『読売新聞』、1973年4月19日付朝刊、p13。
*4:
覚えてる? 懐かしの「日光写真」で自撮りに挑戦してみました! - 価格.comマガジン
*5:「だが、業者に大量発注という段になってハタと困った。今、このオモチャは市販されていず、作る工場がない。戦後のカメラの発達で、こんな子供だましはもう古いと、業者も作らなくなってしまったのだ。
『作る工場がなけりゃ、どこか作れそうなところを探せ』で、手分けして業者をあたり、一か月がかりで、やっと見本を作ったものだ。」、
前掲「人気、昔懐かしの日光写真 日本テレビがPR用に作る」、『読売新聞』、1973年4月19日付朝刊、p13。
*6:
昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか? : 日本銀行 Bank of Japan
*7:1964年開業。
ブログで見つけた、小さな発見
特別お題「わたしがブログを書く理由」
私はなぜブログを書くのでしょうか……。
不思議なもので、散々ブログを書いておきながら、改めてその理由を問われると、なかなか答えに渋ってしまいます。締め切りという銃口を向けられている訳でも、豊かな知識を披露したい訳でもないです。野球選手が手術目前の少年と交わしたあの約束のように、誰かを励ましたいとか、そう高尚なものもありません。
ひとしきり考えて、極めて明快な答えが見つかりました。それは、「誰かに見てほしいから」「文章を書くのが好きだから」でありました。
自分が見た一瞬の風景、自分が感じた一時の感情、そんなくだらない日常を大事にしたためて、ネットにアップする。茫洋たるネットの大海原に小さな小さな帆を立てて、自分の存在をアピールしています。誰かに見てもらえたらいいな。たった一瞥でもいい。その一瞥が、私がブログを書くエネルギーになっています。
そして、ここまで失踪せずに続けているのは、単純に物書きが好きだからなんです。「下手の横好き」とは言いますが、下手は下手なりに、悪戦苦闘しながら文章を紡いでいきます。どういう表現がいいのか、もっと適切な言葉はないか、誤字脱字がないか、文章を書く上で億劫なことも、私にはあまり苦ではないのです。
でも、ネットに文章を書いて承認欲求を満たせるのなら、例えばXのようなSNSでもできることです。むしろそっちの方が手軽で、より多くの人に見てもらえるでしょう。ブログなんて正直煩雑で、手軽なSNSとの人口の差は歴然です。
しかし、私はそんなブログにも、いい所はあると思うのです。
自分の感情や記憶は、意外と自分でも分からなくなるものです。ふと何か思い立ったり、面白い出来事が起こったりしても、ちょっとご飯やお風呂を挟んでしまうと、途端に忘れてしまうことがよくあります。人間が進化の過程で得た、悲しい能力です。
手軽なSNSであれば、それが起こった瞬間にアプリを開いて、目にもとまらぬ指さばきで文字を入力して投稿できます。時間にしてたった数分、数秒です。
一方で、ブログはそうはいきません。書き始めから投稿するまでが、果てしなく長い。調べる。悩む。調べる。推敲する。推敲する。指がいちいち止まる。これだけ時間がかかると、その記憶はすっかり忘却の果てへ消えてしまうのです。そして何日もかかって、ようやく書き終えます。
一見途方もない時間がかかって面倒なブログ。しかし、この「途方もない時間」に、ブログの良さが詰まっていると思うのです。
ブログを書く上で、失くした感情や記憶を思い出す作業は避けられません。
この前どんなこと考えたんだろう、あの時どんなことやったっけ、脳内タイムラプスでくまなく掘り起こします。あれでもない、これでもないと書いては消して、書いては消して。見つかるかも分からない記憶を、必死に思い起こします。時にはクマのようにウロウロと歩いてみたりして。気づけば1時間経っていて、1文字も進んでいないときもザラです。
すると突然、失くした記憶とは全く違う別の発見をすることがあります。誰もが気づかず、思い出すこともないであろう小さな心の機微や出来事が、突如として湧き出てきます。
あの時すれ違ったおじいちゃんの腰の角度。コンビニの明かりに集まっていた虫の動き。大きなトラックを追い抜かしたときのちょっぴりとした恐怖……。
本当に本当に、取るに足らない発見。それでもこれは、ブログを書いていないと見つからなかった、大切なモノ。
結局目的の感情や記憶は見つかることもあるし、泣く泣く諦めることも山ほどあります。でも、甲斐甲斐しく忘れ物を探していると、思わぬところでちっぽけな宝物を見つけることができます。
それに対して手軽なSNSは、投稿まで一直線です。何かを発見する暇もなく、ひたすらに指をスマホに滑らせます。
まるで新幹線です。あっという間に「投稿」という終着駅に到着するけれど、途中駅や通過駅には見向きもしません。
新幹線が手軽なSNSなら、ブログは鈍行列車です。不便で面倒だし、効率もタイパも悪い。でも、駅に着いたら必ずドアが開く。たとえそこが目的地じゃなくても、そこには必ず発見があるはずです。誰も目もくれない、自分だけの宝物が。
行こう、この鈍行列車で。新幹線の窓からでは流れていたあの景色を、今こそゆっくりとじっくりと見てみよう。
夏風邪を引いたら、極寒に襲われた
37.8℃……。
「僕、平熱高めだから」という、いつもの言い訳はもはや通用しない体温。
こう三つの数字を見ると、途端に体のあちらこちらが重くなっていく気がする。さっきまでのんきだった頭も、何だか現実にぶたれたように痛み始めた。
僕は観念して、生活のすべてを諦めた。平日昼間なのに、お構いなくベッドに飛び込む。
9/11、9月の3週目は最悪の幕開けとなった。
熱、あり。頭痛、あり。鼻水、あり、のどの痛み、なし。咳、なし。味覚障害、ないけど食欲もなし。
特に頭痛はだんだん強くなってきて、僕の頭をガンガンと打ち鳴らす。脳みそのシワを隅から隅までほじくって、掃除をしたくなってくる。
ただ、横になってればある程度直るでしょう。そう高を括った僕に、"ソイツ"はひたひたと近づいてくるのだった。
夏がうっかり忘れ物をしたそうで、蒸し暑さは依然として9月の昼間を支配している。冷房の残業は、まだまだ終わりそうにない。
それなのに、僕はTシャツの上に長袖のスウェットを着て、長ズボンと靴下を履き、冷房もつけずにタオルケットにくるまっていた。その様は、もはや冬であった。
何十分か横になっていると、突然寒気が襲ってきた。夏用パジャマでは、とてもじゃないがこの寒さに耐えられない。タンスの奥から厚めの服を何とか引っ張り出してきて、まるで雨ざらしの捨て猫のようにプルプルと震えていた。
「寒いよう……、寒いよう……」と声にならない声で、誰もいない誰かに呟く。布団の上の小さな埃にも、どうにかしてこの震えを止めてくれと必死に願う。止めてくれたら何だっていい、何だってする。
溺れる者は藁をもつかむ、凍える者は埃にも祈るのである。
狭い狭いベッドの上で、小刻みに震える男がただ一人。大の大人が、なんて情けない! 今のうちに天井に這う小さなクモも、憐れな男を見てきっと同情と軽蔑をくれるはずだ。
誰も手を差し伸べることのない、絶望的なこの状況。所詮一人ぽっちの僕は、ただただ冬の終わりを待ち続けていた。

2,3日経った。
風邪は、1日もしたらほとんど収まっていた。(おそらく567とかインフルではないと思う……)
あれだけ僕を蝕んでいた寒気というヤツも、半日ほどでどこかへ消えてしまった。むしろ春を寝過ごして、人並みに夏の残暑に苦しんでいる。
ただ一つ、全く治ってないものがある。
鼻水だ!
出せども出せども、とめどなく供給してくれる。体のどこにこんな量溜めているのか……。
おかげで、いつ何時もティッシュが手放せない。部屋の一角には、真っ白なティッシュの山が一つ、大きくそびえ立っていた。僕の部屋に到来した厳冬が残した、立派な雪山にも見えてくる。
鼻水のせいか、脳に酸素がいかず、頭がぼーっとする。ただでさえ遅筆なのに、これを書くのも輪をかけて時間がかかった気がする……。
春日部防衛隊の"あの子"みたいに鼻を垂らしながら、筆をおこうと思います。
季節の変わり目で、体調を崩す人も多いみたいです。みなさんもご自愛くださいませ……🙇
~P.S.~
僭越ながら、本記事を執筆中に聴いた3曲ピックアップして、ご紹介させていただきます!
なぜこんなことやってるかはこちらをご参照ください!
① OKAMOTO'S『Phantom(By Lipstick)』
マイナーな曲だけど、オカモトズの中で一番好きな曲♡
オアシスは高校の時に、アルバムあさってヘビロテしてました……笑
③ SUPER BELL"Z『あずさ2号』
まさかのカバーの方笑 でもスーパーベルズのアルバム、なぜか一枚持ってます笑
ぜひ皆さんの執筆中に聴く"マイ音楽"も教えてください♪
【ない】真夜中のアクセル、目的はみそきん
8/10、一世を風靡したあの"みそきん"が復活するという。
我が子の誕生のように待ち望んでいる者、あえて斜に構える者、反応はさまざまだ。踊る阿呆に見る阿呆。転売するド阿呆。猫も杓子も皆みそきん。たかがカップラーメンで、日本は束の間の平和を手にすることができる。
僕は、食というものがまったく分からない。トップ○リューのカップ麺でも、うまいうまいと満足する人間だ。僕の舌は、安上がりだ。300円のカップラーメンなんて、よほどいいこと悪いことがない限り気が引ける。
でも、僕はみそきんを食べてみたいと思った。信者の狂信的なお布施でも、グルメ家気取りの味批評をしたい訳でもない。強いて言えば、衝動的な深夜テンションだろうか。どうせなら、ヒカキンの手のひらで滑稽に踊ってみよう。たまには感情のまま流されたって、いいではないか。
そう思ったからには、善は急げ。僕はさっそく運転席に乗り込んで、アクセルペダルを踏み込む。はやる気持ちが右足に伝わらないよう、理性で必死に抑えながら。
こうして8/12午前1時、世界一阿呆な旅人が一人、夜に放たれてしまった。
僕は、ある程度の推測を立てていた。
おそらく、みそきんは駅前や住宅街のセブンには既に売り切れているのではないか。人が集まる場所は、確実に売れ行きはよいはずだ。子どもが集まりやすい場所ならなおのこと。子どもの駄々に負けて、夜に最後の一仕事だと、コンビニで買い込むスーツ姿のお父さんが簡単に目に見える。
だから、僕はあえて明かりの少ない方に車を走らせる。周りが田んぼだらけで、人より稲穂の数が多い場所。そこのコンビニの方が、案外残っているに違いない。車でわざわざ"みそきん"を買いに来る、賢明で愚かな人はいないだろう。
「すなわち、目指すべきは田舎のコンビニだ!」
こういうどうでもいい時にだけ、妙に頭が働く。名推理をした名探偵の爽快感に似た感覚が、僕のぼんくら頭を駆け巡る。日々色々なことで使う妄想力が、ここでも遺憾なく発揮されたってわけだ。
真夜中のバイパスというのは、商業施設どころか街灯すらほとんどない。代わりに、地平線が分からない暗黒とした田んぼや、魔物の手を揺らす立派な木々が僕らを出迎える。地を揺らすトラック、慎重な軽自動車、何かに焦るあの車だって、夜の世界をヘッドライトで切り裂きながら進んでいく。
モノクロームの中で、異様に色を放つ看板が現れる。その正体は、「7」……。セブン・イレブンだ!

光に集まる虫の瞬発力でハンドルを切り、だだっ広い駐車場に車を止めてさっそく入店。冷房の効きすぎた店の中を、ウロウロとウロウロと……。
ついに見つけたカップラーメンのコーナー、そこにはみそきんが……
……ない!?
商品棚にがらんと何もない不自然な空白、そこには「みそきん、売り切れました」と店員直筆のポップが。
なるほど、一筋縄ではいかないな……。いくら田舎と言っても、ここは一応車通りはあるバイパス沿い。トラックの運ちゃんが、お盆前の御褒美で"みそきん"を奮発した可能性だってある。理由をいくら夢想しても、結局あるのは「ない」という事実だけ。
ないと分かったからには、もうここに用はない。車は暗いバイパスに戻って、再びヘッドライトの波に乗る。そして今度は、片側一車線の県道に折れる。車すらほとんど通らない県道沿いなら流石にあるだろうと高を括って、意気揚々とアクセルを踏みしめていった……。
ない……。 ない……。 どこ探しても、ない……!!
出発してから、一体どれだけの時間が経ったのだろうか。夏の夜空も、そろそろ明ける準備ができてきた頃。僕はコンビニを見つけては駐まり、発進しては駐まり、発進しては駐まり、何かに取り憑かれたように延々と繰り返していた。
おそらく5,6店舗ぐらい立ち寄っただろう。驚くほど広い駐車場に、誰一人として駐めていない所だってあった。でも、どこのコンビニも、奇妙な空間が当てつけのように期待した僕を嘲笑っていた。
これほどやって、収穫はゼロだ。やたら休憩の多い夜のドライブをしただけだった。ヒカキンの人気は僕を無意味な旅に連れ出したのに、結局僕の妄想力を木端微塵に打ちのめした。僕に残っていたのは推理が外れた敗北感と、寄ったついでに買った慰めのクーリッシュだけだった。
帰ろう。無様な旅人に、朝日を浴びる権利はない。ハンドルさばきは、ぐんと重めに。アクセルワークは、少し荒めに。
フロントガラスの左手に、白み始めた空が見える。バイパスの景色は、もう暗黒ではない。幻術を解かしていくように、田園を緑色に染め上げていた。
~P.S.~
僭越ながら、本記事を執筆中に聴いた3曲ピックアップして、ご紹介させていただきます!
なんでこんなことやってるかはこちらをご参照ください!
① Jamiroquai 『Cosmic Girl』
実は『Virtual Insanity』より曲もPVも好き…♡
② 藤井風『青春病』
「僕は自分が思うほど強くはなかった」「僕は自分が思うほど弱くはなかった」
青春時代の自分に聴かせてやりてえ…
③ Mega Shinnosuke 『桃源郷とタクシー』
サビの韻を踏んだナンセンスな歌詞が最高…!
ぜひ皆さんの執筆中に聴く”マイ音楽”も教えてください♪
