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気ままに生きます

【考察】『かくしごと』~飽和した日常系に新たな風を吹きこむか~ 後編

※注意※ こちらは後編です。より詳しく知りたい方は、是非前編をご覧ください。

yururiyuruyuru.hatenablog.jp 

 前編では、日常系の違和感について説明した。

  『かくしごと』は、娘・姫(ひめ)に自身が漫画家であることを隠す可久士(かくし)の話だ。前回に引き続き、今回もこの作品の特性をまとめた。

 

 極力ネタバレは控えますが、未視聴の方はご注意ください。

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出典: https://kakushigoto-anime.com

 

公私の視点で見るアニメ

 このアニメは、父親としての可久士を中心に描かれているが、漫画家としての可久士という側面も持ち合わせている。だが、仕事系のアニメは数多く、漫画家に焦点を当てた『バクマン。』、さらに職種の範囲を広げれば、『NEW GAME!』や『WORKING!!』等が例として挙げられる。

 

 しかし、かくしごと』の本質は漫画家という仕事ではない。漫画家という職業は単に付随したものにすぎず、本質はやはり家庭なのだ。その点でこれらの作品との差別化は可能であり、ジャンルすらも違ってくるかもしれない。

 なので、今回私は「」・家庭に着目して、日常系のと比較し、まとめていこうと思う。 

 

父親という新たな視点

 前編でも述べた通り『かくしごと』はどこか「日常系らしくない日常系」なのだ。

 まず、本作は日常系に分類して差し支えないだろう。ストーリーよりキャラが中心であるし、dアニメストアではギャグとしていたが、(少なくとも私は)「滑稽さ」より「癒し」を求めた。

 では、本作は他の日常系作品とどこが違うのだろうか。

 これは主題が家庭家族であり、中高生という溢れかえった設定とは似て非なるものだ。

 さらに、これだけでない。日常系では往々にして、現実に即したイベントが起こり、この作品も例外ではない。しかし、父親・可久士の視点で、頑張る娘を見守るという構図であり、これまた他の日常系と一線を画す。

  日常系の新味のなさは、視点の違いで解消できるのかもしれない。

 

会話で構築される信頼関係

 前編で、私は「コミュニケーションが自己目的化している」と述べた。本来、コミュニケーションは他者と関係を築くための手段にすぎないのだが、日常系とはこの関係が逆転し、関係ありきのコミュニケーションとなってしまっている。

 一方で、『かくしごと』はその日常系の特性を打破している。親子の近くて遠い関係性は多かれ少なかれ現実でも同じはずだ。仕事と家庭の両立に奮闘する父、それを心配する娘。しかし、彼らは本質的に理解し合うことはない。

 完璧な親子関係は存在しない。二人の微妙なすれ違いや共感を、会話を通じて絶妙に描くことで、二人の親子関係はより深いものになっている。これこそ、本来のコミュニケーションのあるべき姿なのではないだろうか。

 

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着眼点の相違

 前と似たようなものになるが、子どもには独特の感性があり、これを大人が理解するのは困難だ。だからこそ会話は必要であり、それによって子どもの感性を少しでも理解することができる。

 本作でも可久士は娘の姫ちゃんを溺愛するも、彼女に完全な理解を示せていない。そして時には娘の感性に驚き、感心する。このやりとりもまた、二人の関係を深めるものになるだろう。

 

風景に溶け込む人間

 本作の表現の特徴は、氷菓』や新海誠氏の作品のそれと似ていると感じられた。

 というのも、加藤幹郎氏曰く「主体と風景はあくまでも切り離しえないものとして一体論的に創造されるのが新海誠のアニメーションの特徴である」としている。アニメを含む多くの映像作品は登場人物を中心としており、風景は無視される傾向にある一方で、新海氏の作品はこの二つを一体化している。

 つまり、これは私が勝手に定義した言葉であるが、多くのアニメの表現は「風景から浮き出る人間」であるのに対し、新海氏の作品の表現は「風景に溶け込む人間」のような特徴がある。

 しかし、この表現方法をとっているのは新海氏だけではない。例えば『氷菓』もその一つだ。とはいえ、この表現方法を用いているのは稀であり、多くの作品は風景と人間を分離する。しかし、この『かくしごと』、キャラを主体にした日常系であるのにも関わらず、特に序盤・終盤での鎌倉の情景描写は、この特徴と似ているようだ。

  電車に乗り、坂道を登り、一つの家を訪ねた姫ちゃんは、そこで父のかくしごとを知る。真実を知った彼女はその家の中を見回り、寄せては返す波のように、彼女の心は移ろいゆく。

 彼女は、風景とともにある。

 美しき鎌倉。ぜひ一度、行ってみたい。

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七里ヶ浜の坂道と江ノ電

出典: https://www.trip-kamakura.com/feature/4106.html

 

まとめ

 この作品を通して見ても、親子二人の会話や空気感を消費しているという点で、日常系という定義もやはり間違っていないのではないか、と個人的にはそう思っている。けれども、それは決して視聴者にとって都合のいいものではない、一つの家族の生活を我々は見ていたのだ。

 ここまで冗長になってしまったが、以上の説明が、本作が「日常系らしくない日常系」であると感じた所以である。

 

おわりに

 『かくしごと』は、先日最終回を迎えた。終始心温まるファミリー劇場であった。

 ここでは書かなかったが、漫画家としての可久士はコミカルに描かれているので、非常に面白かった。

 リアルタイムでこの作品に出会えてたことに感謝したいと思う。

 

 ご指摘やご感想がございましたら、何なりとコメントでお書きください。

 それでは!

 

【考察】『かくしごと』~飽和した日常系に新たな風を吹き込むか~ 前編

 『かくしごと』は2020年春アニメの一つである。一人娘の姫(ひめ)に自身の職種である漫画家を隠し通す父親可久士(かくし)の話だ。ギャグ要素が多く、非常にテンポよく見ることができる、日常系のアニメ作品だ。

  とは言うものの、私はあまり日常系のアニメを見ない。もちろん『けいおん!』『らき☆すた』など大好きな日常系の作品はあるけれども、大抵の作品は私はどうしてか途中で飽きてしまう。

 しかし、私はこの作品に夢中になった。ではなぜ、日常系に飽きる私がこの作品の虜になったのか。きっとそこには、他の日常系の作品とは一線を画す特徴があるからに違いない。

 

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出典: https://kakushigoto-anime.com

 

 今回初の試みとして、前編と後編で記事を分けようと思う。こちら前編では主に「日常系」について考えていきたい。

 

日常系とは

 まず、日常系(空気系とも)を私なりに定義してみようと思う。様々な方が様々な形でこれを定義しているが、私はこう定義する。

登場人物の余計な関係性・緻密な設定・ストーリー性・メッセージ性・伏線などを排除し、時間や空間のような最低限の舞台に登場人物がコミュニケーションをとる作品

  いわば、必要最低限の世界観のなかで、登場人物が中心となって展開される系統のアニメだ。

 例えば、『けいおん!』『ご注文はうさぎですか?』のように、多くは複数の未成年の女性が登場するが、最近では男性が登場する作品(ハーレム作品等)や、逆に男性だけが登場するものも多くある。

 また、日常系はギャグ作品との線引きが難しいと言われるが、主に視聴の目的だろう。ギャグ作品の場合、視聴者は「笑い滑稽さ」を求めるが、一方で日常系では「癒しかわいらしさ」を求める。

 故に、日常系は「萌え要素」が必要不可欠なものとなってくる。

 

日常系とキャラ文化

 私は、日常系は「キャラ文化の極地」であると考えている。私がよく言う「キャラ文化」を、ここで簡単に話しておこうと思う。

 キャラ文化とは、ストーリーやその裏にあるメッセージ性より、キャラクター(あるいは声優)にスポットライトを当てる文化だ。

 この文化の浸透は、消費者と生産者の二つの側面で説明する必要がある。

 消費者は、二次創作にその原点がある。80~90年代の同人誌の発展により、本来のストーリーを度外視し、キャラに焦点を当てたオリジナルストーリーが展開されることがある。

 00年代、ニコニコ動画YouTubeMAD動画が流行する。これもまたキャラクターが重要視され、その作品のストーリーは無視されがちだ。

 10年代、誰もがスマホを持ち、ネットがより身近なものとなった。これによりTwitterやpixivでキャラクターの二次創作や画像がより多く拡散されるようになった。ここでも、ストーリーの居場所はない。

 一方、生産者側もこの文化に火をつけた張本人である。東浩紀氏は、『新世紀エヴァンゲリオン』の制作会社が『綾波育成計画』を発売したことを皮切りに、生産者も本編のパロディのような作品を販売しているという。(例えば、『進撃の巨人』のパロディ作品『進撃! 巨人中学校』が公式に販売されている。)

 

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出典: https://www.broccoli.co.jp

 また、前回の私のブログ*1にもあるように、アニメ制作は資金がかかるためキャラクターのグッズで資金を回収する。無断転載の横行もあり、制作会社はこの方法で利益を得ている。その影響で、ストーリーの面白さよりキャラのかわいさ・カッコよさが優先されてしまった。

 このキャラ文化の浸透は、ストーリーの衰退を呼んだ。映画・アニメ監督の押井守氏は「物語の退潮が著しい」と危惧した。*2 そして衰退が加速したストーリーが、とうとう無になった。これが、「日常系」として落ち着いたのではないのだろうか。

 

ここが変だよ、日常系

 ここで、私が覚える日常系の違和感について、いくつか書こうと思う。

 

 倒錯したコミュニケーション

 まずそもそも、我々人間はどのようにして他人を理解していくのか。それは、紛れもなく「コミュニケーション」である。我々はコミュニケーションを行うことで、人の意見や性格を知り、他人のブラックボックスな心を少しでも理解し、徐々に関係を築き上げていく。

 しかし、日常系はどうか。登場人物は互いにコミュニケーションをとるけれども、それは他人を理解するためではない。むしろ、完璧な関係が成立した上で会話が行われている。もちろん、現実では「完璧な関係」などありえない。(アニメの世界に現実を持ってくるのはナンセンスだと言われればそれまでだが)

 本来「人と関係を築くため」の手段にすぎないコミュニケーションが自己目的化していて、なんだか変な気分になる。

 すなわち、彼女たちが行っているのは倒錯したコミュニケーションでしかなく、その意義はただ一つ、視聴者が求める「萌え要素」の一環でしかないのだ。

 

時間・空間の固定化

 日常アニメといっても、時間や空間の設定は現実に依存しがちだ。登場人物は中・高校生、場所は学校やバイト先が多い。そして時間や季節に応じて行われるイベントも、入学式・夏冬休み・文化祭・ハロウィン・クリスマスなど、現実に即する。いわば現実のコピーだ。

 だから、作品ごとに設定が被る。もちろん作品それぞれに違った展開が工夫されているが、如何せんストーリーがないので、結局どれも似た色になる。これが新味のない原因なのかもしれない。

 

心のない思春期少女達

 日常系の多くは「思春期の少女たち」が多く登場する。特に思春期という多感な時期なので、外見だけなく内面も書く必要がある。思春期で発生する将来の不安や人間関係の悩みなど、慎重に書かなければならない。

  だが、日常系において「思春期の子にしては不自然だ」と思う節がある。例えば「勉強を忘れてのうのうと生きる」であったり、「将来を案ずることなくのうのうと生きる」であったり、ハーレム作品に限定すれば、「経緯を省略して唐突に主人公に好意を寄せる」であったり。ロボットじゃないんだから。

 私は、これはかなり危険なことに思える。思春期特有の不安や悩みを無理やり喪失させ、あたかも自分の人生を何も考えずのらりくらりと過ごしている。

 これは思春期少年少女の本来の姿ではない。

 「アニメにリアルを持ち込むな」という意見はごもっともだ。しかし、思春期の人間の日常を模している以上、現実の人間を投影する必要がある。彼女たちの行動に因果関係を設けるためには、心情描写にも注目するべきである。ただ起こったことを会話だけで成立させては駄目なのだ。

 男の妄想垂れ流しは、抜きアニメだけにしろ!

 

 終わりに

 これは一般論で話しているので、個々の作品を批判しているわけではない。

 そして冒頭にも述べた通り、『けいおん!』などは大好きなので一概に日常系が嫌いとはいえない。ただ、苦手なだけなのだ。

 

 だが、『かくしごと』は日常系であるが、その特質を維持しながらもこれらの違和感を解消した唯一無二の作品だと感じた。

 

 では、どの点でそう感じたのだろうか。

 それはまた後編で。(近いうちに出します。ご覧になってくれたら幸いです。)

 ご指摘やご質問がございましたら、ご遠慮なくコメントください。

 それでは。

『鬼滅の刃』が遺した貢献と課題

 5月25日、『鬼滅の刃』が華々しくクライマックスを遂げた。昨今ジャンプ作品の人気が久しく燻っていた中、これほど売れた作品は珍しい。

 オリエンタルラジオ中田敦彦氏など、多くの方々が「なぜ『鬼滅の刃』は売れたのか」について分析しているので、今回私は「『鬼滅の刃』が遺したもの」について語ろうと思う。

 

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出典: https://www.aniplex.co.jp

 

アニメへの認識の変化

 大衆は、特に深夜アニメをどこか色眼鏡で見ていたはずだ。メディアも、ある事件の犯人とアニメを関係性を執拗に強調していたことがある。

 しかし、今回の一大ムーブメントは、メディアも積極的に取り上げた。その影響で、アニメ・漫画オタクでない人にもこの作品が普及した。本作はグロテスクな描写もあるが、女性や子どもまでもが、この世界観に魅了された。

 やはりネットの台頭によって、ネットの文化が普及したのだ。『鬼滅の刃』の人気は、それを完全に具現したものであるといえる。

 ネット文化の浸透はこちらでまとめているので、是非ご覧ください。

 

yururiyuruyuru.hatenablog.jp

 

キャラ文化の再確認

 アニメは専ら、キャラを中心として放映されることが多い。要因は様々あるが、ドラマのような実写と比べて、アニメ制作は資金や労力、時間がかかる。その資金をキャラクターグッズや声優のイベント等で回収する。昨今は違法アップロードもあるため、制作会社はこのような方法で利益を得ることが往々にしてある。

 これが、キャラ文化の始まりだった。ストーリーよりもキャラを重視したことで、興業化は成功し、世界的に日本のアニメは人気を博した。

 そして今回の『鬼滅の刃』の流行も、やはりキャラクターを中心としている点もある。

 以前にも『進撃の巨人』のリヴァイ兵長や『ヒロアカ』の爆豪のような、比較的ストーリー性のある作品でも圧倒的に人気なキャラが際立って存在していた。そして、『鬼滅の刃』にも同じ現象が起こっている。(善逸など)

 ネットの登場で、Twitterやpixivでそのキャラを描いた画像が拡散される。それがより一層キャラ文化を浸透させ、ついに大衆にまで行き渡ったのだ。

 (とはいっても、大衆文化であるテレビドラマも、ストーリーよりキャスト目当てで視聴する人も多いので、大衆も潜在的にキャラ文化と似た性質を持ってはいたが)

 

違法アップロードの横行

 勿論、これは『鬼滅の刃』だけの問題ではなく、全ての作品に通じるものだ。しかし、『鬼滅の刃』は需要が高いためか、無断転載の数はより多く見受けられた。

 

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2020年5月27日現在のYouTubeの検索予測結果 赤枠が漫画の無断転載を表している

 

 YouTubeではアニメより漫画の無断転載が多かったが、いずれにせよ無断転載や海賊版著作権法に違反しているので、いずれ出版社が何らかの処置を行うだろうが、今後も付きまとう課題となるだろう。

 というより、検索候補に出るほど無断転載の漫画を視聴していたことに驚愕した。

 

 民度

  さて、人気になればなるほど付随される問題。それは「民度」だ。

 よく、「『鬼滅の刃』のファンは民度が悪い」と耳にする。他の作品を排斥し、『鬼滅の刃』を一番だと豪語しているという。

 確かに全ての作品のファンに秩序を乱すものは一定数存在し、分母が多ければそれもおのずと増える。しかし全体から見れば彼らはマイノリティであり、悪目立ちしているだけなので、彼らを批判するならまだしも、『鬼滅の刃』を批判するのはお門違いだ。

 これは正直どうしようもないが、実際作品の評判を落としかねないので、ファン同士で注意し合うことが重要である。

 すなわち、我々ファンの態度も改めるべき時なのかもしれない。

 

おわりに

 民度の問題も、逆に考えれば、新規のアニメファンが増えたといえる。

 『鬼滅の刃』の流行で、アニメの大衆への浸透は明白となった。アニメは今重要な局面に立たされているのかもしれない。

 今後これらの課題を解決しながら、新規のアニメファンを取り込むか否かが、命運を左右しうる。

 私は、アニメがより良いものになることを切に願う。

 

 間違いがございましたら、何なりとご指摘ください。

 それでは。

 

『生徒会役員共』~私の下ネタの根源~

先日、あるアニメが公式に投稿された。

 

www.youtube.com

 本作は、ボケ役の会長天草シノ・書記七条アリアとツッコミ役の副会長津田タカトシ・会計萩村スズの4人を中心に繰り広げられるギャグアニメです。もちろん色々なキャラクターが登場しますが、そのどれもが個性的で津田を苦しめます。

 このアニメ、恐ろしいほどの中毒性。なぜか何度も見てしまう。

 驚異的な下ネタを早いテンポで畳みかけ、的確な津田のツッコミが本当に癖になる。

 

 私が中学生の時に漫画を初めて読み、次にアニメに入り、だんだんと私の下ネタは培われてきた。当時は何言ってるのか分からなかったけど、今では分かる。

 今はこんなんになってしまったよ、お母さん。

 

 ラジオも聞いてみたのですが、ツッコミ役2人の中の人の方が実はやばいんですよね。アニメ以上にはっちゃけちゃってます。

 コロナで予定通り公開されるのかは不明ですが、今年は二度目の劇場版も公開されます。下ネタが苦手でなければ、本当に爆笑必至の作品なので是非ご覧ください。

 

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出典: http://king-cr.jp

  

 

 

 

 ↓この辺にスズ

 

【考察】『妄想代理人』~現実逃避とデータベース消費~

  『妄想代理人』は2004年に放送されたテレビアニメで、今敏監督が手掛けた初めてのテレビアニメです。

 今監督は平沢進さんのファン(通称馬の骨)としても有名で、平沢進さんのOP曲「夢の島思念公園」に加え、不気味に笑う登場人物が印象的です。

 今回はこの作品を自分なりに考察してみました。

 ネタバレを多く含みますので、未視聴の方はご注意ください。

 

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出典: https://anime.dmkt-sp.jp

あらすじ

 大人気キャラクター「まろみ」を生み出したデザイナー鷺月子は、スランプに陥っていた。その帰路彼女は通り魔「少年バット」に襲われ、怪我を負ってしまう。それから「少年バット」に襲われる事件が多発し、世間を恐怖に陥れていく。

少年バットの正体

 「少年バット」は現実に疲れ切った人を次々と襲う。被害者は怪我を負うものの、どこか晴れ晴れした顔をしている。

 そして、「少年バット」の模倣犯として留置されていた偽少年バットも、「少年バット」によって殺される。そこから連続通り魔事件を追っていた元刑事馬庭は、「少年バット」を幻想妄想と定義した。

 結局彼の正体は、馬庭の言う通り月子が生み出した幻想だった。幼い頃、彼女は愛犬を自身の不注意で亡くしてしまう。自身の過失で起こったもののはずなのに、彼女は内気な性格のせいで父親に真実を言えず、「少年バット」に殺されたとでっちあげた。

 ここに、妄想の「少年バット」は現れたのだ。

 「少年バット」は初めは普通の大きさだったものの、市民の噂や妄言でどんどん肥大化し、最終的に手が付けられなくなるほど大きくなってしまう。ここからも、「少年バット」は単なる幻想にすぎないことが分かる。

 

「まろみ」と「少年バット」の関係性

 そして、もう一つ忘れてはならないのが、「まろみ」だ。「まろみ」は月子が生み出したキャラクターで、世間を大席巻している。

 「まろみ」には元になったものがある。それは、彼女が幼い時に飼っていた愛犬の名前だ。前述の通り彼女はその愛犬を亡くし、その責任逃れのために「少年バット」を作り上げた。

 最後、月子が幼少期の事件を自身の過失と受け入れることで、「少年バット」も「まろみ」も消滅する。つまり、「まろみ」も「少年バット」も同時に生まれ、同時に消えたのだ。

 

 私は、この「少年バット」と「まろみ」の関係性は、「暴力」と「癒し」の関係性と同義であると考えている。

 「少年バット」によって暴力をもたらされた者は、心地よさそうな表情を浮かべている。暴力は、辛い現実から解放できるのだ。

 一方で、「まろみ」もまた同義だ。癒しキャラとして、「まろみ」は爆発的なブームになった。しかし、結局それは辛い現実を覆いかぶせるだけの存在であり、「まろみ」が一斉に世界から消えてしまうと、現実に直面せざるを得なくなり、「まろみ」欲しさに街や人は混乱状態になってしまう。

 一見、「暴力」と「癒し」は正反対の意義として捉えられる。しかし、「暴力」も「癒し」も現実逃避させるものとしては同義であり、「暴力」は時には人を癒し、「癒し」は時には暴力になりうる。

 つまり、それらは表裏一体な関係なのだ。「暴力」も「癒し」も、現実から妄想へ逃げるための橋渡しのような役目をしている。

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今敏マッドハウス妄想代理人」製作委員会

 

黒い塊

 最終回、黒い塊が街を襲い、市民を飲み込む。私は黒い塊は「少年バット」と捉え、「まろみ」を失い現実に直面した市民を襲撃したと考える。

 そして、最後には「まろみ」と混濁し、街ごと飲み込んでしまう。しかし、月子は愛犬を自身の不注意で亡くした現実を受け入れ、黒い塊は消滅し、そこには廃墟と化した街と人だけが残った。

 荒廃した街の様子を、元刑事の猪狩はこう言った。

「まるで、戦後じゃあねえか」

妄想代理人』 第十三話「最終回。」 

  彼の台詞は、廃墟と化した街だけを言っているわけではない。戦前の日本は、困難な現実を、神国思想のような無根拠な理想で覆い隠ししていた。しかし玉音放送の後、終戦という現実を突き付けられた市民は、すがるものが何もないまま彼らは生き続けなければならない。このような人の精神的な面も含めて、彼はそう言い放ったのかもしれない。

 

繰り返す現実

 街はすぐに復興したものの、そこは元と変わらず、人々は責任逃れや言い訳をしながら生きていた。そして「まろみ」に代わる新たな癒しキャラも登場し、人々を現実逃避へ誘い込む。

 結局、人間は何かにすがって生きなければならないのかもしれない。

 

データベース消費

  この作品を考察していて、どこか東浩紀氏の『動物化するポストモダン』に酷似している点が多いと思った。

 

 東氏は90年代後半以降の人々、特にオタクの消費を「データベース消費」と定義した。我々現代の消費者は、作品(小さな物語)やその背後にある世界観(大きな物語)を消費しているのではなく、キャラクター(大きな非物語)のさらに背後にあるデータベースを消費しているのだという。

 例えば、萌え要素(メイド服・猫耳アホ毛etc)は単に情報であって、それらを組み合わせることで、我々は初めてそのキャラに「萌える」のだ。

 そして、作家のメッセージ性より萌え要素の嗜好や相性で判断され、即物的で単純に(本文では薬物依存と比喩している)消費するようになったことを、「動物化」とも定義した。

 しかし、それはオタクだけにとどまらず、娯楽全般にも適用されると東氏は言う。

 今回の「まろみ」にも当てはめることができると私は考える。様々な構成要素で癒し系「まろみ」を作りだし、人々はそれを受容し、欲望する。『妄想代理人』は、このような薬物依存的な消費をする現代の人々を表したのではないのだろうか。

 『動物化するポストモダン』の初版は2001年、『妄想代理人』が放送された2004年と比較的年代が近い。やはり、どちらも90年代~ゼロ年代の世相を反映しているといえよう。

 『動物化するポストモダン』はサブカル論として、今でもかなり参考になる点が多いので、まとめられたらまとめます。(多分無理

 

 

おわりに

 いかがでしたか? 15年以上前の作品なのに、結構現代にも通ずる皮肉や風刺が効いてますよね。

 偉そうに考察してますが、お爺さんとか正直まだまだ分からないことだらけです。

 でも、あえて謎を残して視聴者に判断を委ねているのも、今監督の作品の特徴と言えるかもしれません。

 平沢進さんのOPは、やっぱり頭に残りますねえ……

 ほかにも今監督の作品を考察をしているので、ぜひご覧ください!

 それでは

 

yururiyuruyuru.hatenablog.jp

 

やっぱ、杉田智和ってすげえや 

 2020年4月26日、ある一本の動画が投稿された。

 


『ハレ晴レユカイ』踊ってみた?【杉田智和/AGRSチャンネル】

 

 私はあまり声優には詳しくないのだが、杉田智和さんなら知ってる。

 もちろんハルヒに彼が出演したことも知ってるし、『ハレ晴レユカイ』も知ってる。

 あれから三日経ち、再生回数は460万回、高評価は31万と、驚異的な数字をたたき出している。

 ただ動画の内容としては、ダンスは上手いわけでもない。

 これは『杉田智和』が踊っていることに意義があるのだ。

 

アニメ文化の普及

※今回は、テレビを大衆的なものと定義します。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』は爆発的に売れ、深夜アニメのパイオニアと呼ぶにふさわしいが、その人気はネットやアニメオタクなど限定的なもので、それほど大衆にまで浸透したとは感じない。

 当時はニコニコ動画黎明期であったものの、大衆向けのコンテンツかと言われればそうではない。一部の地下活動的なムーブメントだった。

 しかし、今はスマホを誰もが所有し、老若男女誰もが手軽にネットに繋がる時代だ。

 さらに、鬼滅の刃など大衆にもアニメが普及し、徐々にアニメに対する理解も深まってきた気がする。

 サブスク(Netflix・U-NEXT)やYouTubeの流通、もしくは皮肉にもアニメの違法アップロードのおかげでその人気は日本を超え、世界中に広まっていった。その証拠に、この動画のコメント欄には外国語も多く見受けられる。

 YouTubeなどネットが盤石な地位を築いたからこそ、このようなことが起こり得たのだ。

テレビに映るネット文化

  2000年代は、まだまだ主流だったテレビでは、なかなか声優にスポットライトを当てることはあまりなかった。(野沢雅子氏や山寺宏一氏など、決していないわけではない)

 しかし、今はネットがテレビと対等にいる時代。声優やYouTuberが様々なテレビ番組に出演し、テレビで活躍した芸人や俳優がネットで配信できる。

 ネットの色が比較的強い声優もテレビに顔出しし、認識も広まっていった。

 

 こういった声優やアニメに対する大衆の評価が変化し、浸透した。

 特にネットで人気の杉田氏は、アニメオタクでない人でも知っている人は多い。それはネットが身近にある今だからこそ起こる。

 この動画の人気は、ニコニコ動画の時のようなアングラ的なものではない。ネットの活躍で大衆にも浸透した、時代の産物と言えよう。

 

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出典: https://anime.dmkt-sp.jp

おわりに

 本当にこの動画は癖になる。何度もループして見ちゃう。

 約1分の動画でこれだけ癖の強い動画だからこそ、こんなにも集客力があるのかもしれない。

 そして、この動画にここまでの付加価値が付いたのも、ひとえに彼の長年の努力と人気によるものだ。これは、本当にすごいことだと思う。(小並感)

 さらっとまとめたので、間違えがあれば何なりとご指摘ください。

 それでは。

【感想】『すかすか』、見終えた

 今日、終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』を見終えた。皆さんは「すかすか」と呼んでいるようなので、私もそう呼びたい。

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出典: https://anime.dmkt-sp.jp

 

 果たしてこの『すかすか』、ごりごりのセカイ系だなあ。

 まあ、私はすごく好きなのだが。

  

 最終回は感動したし、ちょっとうるっときた。

 

 ただ、色々疑問に残る点は数多くあった。

 例えば、赤髪メイドやしゃべる骸骨は一体なんだったのだろうか。

 

 

 それは原作を読めってことなのかしら。

 

 

 正直セカイ系なので、周囲のモブの伏線は、いらないといえばいらない。

 モブが出しゃばってきても困る。

 だから、これでよかったのかもしれない。

 

 

 二人の世界に、邪魔者は不要だもの。