『イヴの時間 Are you enjoying the time of EVE?』は、2008年にインターネット公開、2010年には映画化されたアニメ作品である。今回は、この作品についての考察を書きたい。
ネタバレを多く含むため、未視聴の方はご注意ください。
あらすじ
舞台は近未来の日本であり、人間とロボットが共存している社会だ。家事や農業などをロボットが担い、人間の仕事をロボットが代替するようになった。しかしそれに伴う社会問題を懸念し、「倫理委員会」は人間とロボットの共存社会を否定している。
主人公のリクオは家庭用アンドロイド「サミィ」を所持していたが、そこに覚えのない記録を発見、友人のマサキとともに追跡すると、カフェ「イヴの時間」に到着した。
そこは「人間とロボットの区別をしません」という規則の下で運営され、多くのロボットが入店していた……
考察
ロボットへのステレオタイプ
多くの人が考えるロボットへの価値観とは、多分こんなものだろう。
①人間が主、ロボットが従。
②ロボットに感情移入してはならない。
現代でロボットやAIが使われる理由として、人間社会をより便利なものにするためであろう。人間の仕事の一部をロボットに任せることで、面倒な仕事を短時間で正確にできる。これは、あくまで人間が主、ロボットは従という関係性でもある。それは、本作でも同様だ。
しかし、本作では「ドリ系」と呼ばれる社会問題が存在する。それは、ロボットに対して感情移入をしてしまう病気や、それを発症した者のことであり、恋愛にまで発展してしまうケースもある。
つまりそれは、かつての人間とロボットの関係を忘れ、ロボットを人間と対等の立場に置いているのだ。また、それを「病気」・「社会問題」と認識されている時点で、この世界の大多数もまだ「人間が主、ロボットは従」という価値観のままだと言える。
その理由の一つとして、ロボットには感情がないということだろう。ロボットは、ただ命令に従って淡々と仕事をこなすだけの存在だ。そんなものに感情移入してはならないのだ。
心の問題
しかし、「イヴの時間」は違っていた。そこでは人間もロボットも対等に接し、ロボットも悩み、泣き、笑っている。心がないはずのロボットに、なぜそんなことが起こりえるのか。作中の台詞を引用する。
生まれたばっかりだと、こころの中は何にもないんだって。空っぽ。
でもね、いろんな人と話して、いろんなものを見て、感じて、そうすると心が出来てくるんだって。
でもまだまだ、これからもっといろんな心が出てくるんだって。
『イヴの時間』劇場版
人間が産まれた直後、赤ちゃんは無の状態であり、様々な物や人に触れて、心が出来上がる。
つまり、本作の世界において、ロボットが感情を持つ方法は、人間と同じなのだ。
また、「ドリ系」が社会問題化し、特に幼少期はロボットに対してなついてしまう例が多い。マサキもその一人である。彼は幼少期、ロボットの「テックス」になついていたが、現倫理委員会の職員である父にテックスを改良され、テックスは一切口を利かなくなった。その影響で、マサキは今ではロボットは物と捉え、「ドリ系」には否定的な立場である。
しかし、「イヴの時間」に現れたテックスはマサキへの気持ちを吐露し、マサキは涙を流す。彼は心のどこかで、テックスに対する未練があった。涙はその発露であり、彼もまたロボットに感情を捨てられなかった。
この作品は、本来人間に従うだけのはずのロボットに感情を与え、人間と対等に描くことで、我々もどこかロボットに感情移入をしてしまう。しかしそれを本作は悪とせず、むしろ美しく描いている。
『イヴの時間』は、我々の固定概念に一石を投じる作品だと考える。
ナギと「トキサカ事件」
「イヴの時間」のオーナーであるナギは、人間とロボットを分け隔てなく扱い、感情移入をする、一般的に「ドリ系」と呼ばれる人だ。しかしそれには、彼女の壮絶な過去があった。
倫理委員会の職員がロボットを制止しようと振りかざした警棒が、少女に当たり、重傷を負わせた事件、いわゆる「トキサカ事件」が起こり、彼女はその被害者だった。EDでは、幼いナギはロボットと仲良く接していたが、そのロボットが破壊され、彼女自身もけがを負っていた。
この出来事が、倫理委員会に対する反発を生み、大人になった今でも「人間とロボットは対等」という考えを持っているのだろう。
『イヴの時間』の由来
イヴ(エバ)とは、『旧約聖書』に出てくる女性で、夫アダムの骨で作られた。神に禁じられた「善悪を知る樹の実」を食べ、アダムに勧めてしまったことで、2人は神によって楽園を追放された。この罪のために女性は夫に仕え、産みの苦しみを受けるようなってしまった。
私は、本作は「アダム=人間」、「イヴ=ロボット」と定義していると考える。
ロボットは人間によって作られ、人間に従って作業している。ロボットは前述の通り、人間社会を便利にするために生まれてきた、いわば人間の従者だ。
カフェ「イヴの時間」は、ロボットにとって楽園の場所だ。人間もロボットも区別しない、楽園だ。しかし、そこから出ると元の人間に従うロボットになる。私は、それが『旧約聖書』のイヴと重ねて見える。
つまり、ロボットがロボットでなくなる、いわば楽園の時間として、「イヴの時間」をタイトルにしたのではないだろうか。
将来の人間
この話はフィクションではあるが、近い将来、このようなことが起こりうるかもしれない。ではその場合、我々人間はどうするべきなのか。本作にもたびたび登場する言葉、「人間性」について絞って考えてみる。
まずは、筑波大学准教授の落合陽一氏の著書、『超AI時代の生存戦略』を引用する。
「人間は本当に思考しているんだろうか? 人間が思考しているというのは、実はプロセスで書けるのではないのか?」
そういうような議論がある中で、人間性の定義というのは現在進行形で変わっており、これからも変わってくるはずだ。昨今の機械学習手法の一つディープラーニングの発展とともに人間のように思考する知性は生まれつつある。
たとえば、「心身がある」ということが人間性の定義だったとしたら、人間じゃないものも人間性を帯びてきてしまう。近代に私たちが獲得した人間性というものをアップデートしないと、人間性という残骸の内側は、どこにもたどり着かなくなる。もしくは人間性そのものを諦めなければならなくなるはずだ。
私たちは、今、人間が人間らしく生きなくてはならないという自己矛盾を抱えたままユビキタス時代、およびデジタルネイチャーの時代に突入したのだ。
(中略)
主体的であるという人間性、自ら思考するゆえに人間であるという考え方は、近代以降に獲得されたものなので、今、次の主体なき人類の時代に移ってきているともいえるわけだ。
そもそも人間性とは何であるかが分からない。それなのに人間らしく生きることを求められ、現代の人は苦悩する。
だから、「我思う、故に我在り」と近代にデカルトが定義した人間性を更新し、新しいデカルト以後の定義にシフトするべきだと述べている。
その上で、私は何かを創造し、それに順応するのが人間なのかなあ、とふと思った。
動物は環境に適応するだけだが、人間は歴史の中で無数の道具を創造した。
そして、鉄道や自動車、携帯電話を開発した人間は、それに適応するかのように生きてきた。また、時には改良して、人間に都合のいいように道具を使いこなした。
中には、倫理委員会のような批判もあったかもしれない。しかし時代が進むにつれて、それらの意見はマイノリティとして淘汰され、結局は適応していった。
私はAIもそうなると考えているし、人間に欠かせない存在になっていくとさえ考えている。
もちろん個人的見解なので、正解とは思わない。ただ、一意見として受け取っていただけたら幸いだ。
おわりに
ロボットや近未来と聞くとSFを思い浮かべる人も多いと思うが、本作はより人間やロボットの心情に焦点を当てた、一風変わった作品だった。
コミック版もあるらしいので、読んでみたい。
サリィちゃん、うちにも欲しいなあ。
それでは。