ゆるりゆるゆるブログを書く

気ままに生きます

オタクもフェミも的外れ ~爆乳ポスターと性規制~

 お久しぶりです。

 今期絶賛放送中の『宇崎ちゃんは遊びたい!』。

 しかし、私はどうもこの作品を見ると、「例の献血のポスター問題」を思い出してならない。

 そこで、(遅ればせながら)今回はこのポスターの撤廃の正当性と様々な界隈の意見を述べようと思う。

 水を差すようで申し訳ないが、それでも表現の自由・性表現・ジェンダーを巻き込んだ騒動が今でも発生している以上、最も表面化したこの問題を触れないわけにはいかないのだ。

 今回は書きたいことが多く、冗長な文章になってしまったが、最後までお付き合いいただけたら嬉しい限りだ。

 

f:id:yururiyuruyuru:20200812190739j:plain

丈 KADOKAWA 日本赤十字社

 

 

 結論から言うと、このポスターの撤去は妥当であると、私は考えている。

 このポスターのキャラクターは明らかに胸が大きく、そしてこの煽り文句。これは人によっては性表現と捉えられても仕方がない。

 だが、批判派も擁護派も、大きなおっぱいに気を取られて、本来の問題の本質と乖離してしまっていた。胸の大きさとか二次元だとかいうより、公共でこれを掲載したこと、これこそが問題の本質ではないか。

 

ポスターの撤廃の正攻法

 日本国憲法二一条一項において、日本国民は表現の自由が保障されている。これは単に表現物を発信する自由だけでなく、その表現物を受け取る自由もある訳だ

(現に、情報を自由に受け取れる権利として「知る権利」がある。)

 一方で、情報の受信を選択できる表現の自由が存在するならば、受け取らない自由「見たくない自由」も存在する。この問題は、ここに焦点を当てるべきではないか。

 

 勿論、ポスターを掲載した側にも表現の自由があり、それに則りこのポスターを作成・公然に掲示し、献血を行うよう宣伝する。それゆえ、このポスターは多くの人の目に止まる。しかし、中にはこれに不快感を抱く者も少なからず存在するだろう。

 R-18の暖簾の中とは、状況が全く異なるのだ。店内は入らなけばいい話だが、公共であればそうはいかない。性表現に不快感を抱く者も、ふとそれが目に入る可能性が高いのだ。となれば、彼らの「見たくない自由」を侵害していることになる。

 

 これこそ、性的なものを含むポスターの表現の自由を規制できる正攻法である。

 単に性表現だからではなく、「大人数が見られる状態で流通している性表現」だからこそ、このポスターは不適切であり、撤廃は妥当なのだ。

 

f:id:yururiyuruyuru:20200811091531j:plain

 

オタクたちの反論

 一方で、このポスターの撤廃に対し、異議を唱えるオタクたちが一定数存在した。しかし、その反論はどれもナンセンスで的外れなものばかりなのだ。

 よく耳にする反論は、こんなものだろうか。

 

① これは性表現ではない

 

② 二次元と三次元を区別せよ

 

③ アニメを嫌悪・排斥するな

 

④ これだから三次元はクソ

 

 まず①についてだが、 表現物に対して抱く感情は人それぞれなのだ。これが性表現と捉え、不快に思うのも人それぞれであり、これが多くの共感を得ていることは、性表現と捉えられても仕方ないのではないか。

 次に②、二次元は今や三次元と同様の社会的地位を築き、経済効果を生み出すと考えられ、今回のようなポスターの広報にまで抜擢された。二次元の絵も実際に生きる三次元も、一緒くたに考える必要がある。

 「二次元と三次元を区別せよ」というのはオタクの中での常識なのであり、一般的社会では通用しない。二次元であれ三次元であれ、性表現を不快に感じる人が一定数存在することを忘れてはならない。

 ③の嫌悪・排斥したいという主張も、排斥の対象が「一般公衆の面前にある性表現」なので、二次元やアニメだからだという問題ではない。

 ④を主張する人、一瞬ネタかと思うが、これが案外多い。我々が生きる世界は三次元なのだから、それを否定すれば、二次元も生まれない。なぜなら、二次元を創造する作家や絵師は、三次元に生きているのだから。本気で言っていないことを願う。

 

フェミニズム的観点からの性表現規制

 しかし、このポスター撤廃の根拠として、「性表現は女性差別を助長する」という意見が多く見られた(正直、見たくない自由よりも遥かに多く)。今回のポスターに限らず、性表現は女性差別を助長するから規制すべきだという主張が、今でも存在する。

 では、性表現は本当に女性差別を助長するのか。今回のポスターに限定せず、二次元・三次元の境界線を超えた全ての性表現について、できるだけ中立に、慎重に検証しようと思う。

 

  よく性差別が女性差別に繋がるとして、二つの理由が挙げられる。

 

① 性表現は女性を侮辱するもの

 

② 性表現による女性の価値観の固定化

 

 どちらの意見も、フェミニズムの観点からよく唱えられる。①は女性を侮辱する性表現は女性差別を促す。②は、今回の場合では「女性=豊満な胸」と女性に対しての間違った認識が当たり前になり、そうでない女性に対しての差別に繋がる恐れがあるという考えがある。

 

性表現と行動の関係性

 まず、①からまとめよう。確かに、女性の尊厳を蹂躙する性表現は少なからず存在する。しかし、性表現全てがそうであるとは限らず、仮にそうであったとしても、そのような表現に触れた人に女性に対する差別を本当に植えつけるだろうか。

 たとえそのような表現であっても、現実に対して強制しているものではない。「性表現」と「実際に女性を害する行為」は分けて考えるべきではないか。それでも感化されて実行に移すのを危惧するのであれば、凌辱系の作品には「※この物語はフィクションです。実際に行うことは犯罪です」というような注意書きを添付することで、予め阻止することができるはずだ。

  公共で掲示されたものであったり、現実に対し教唆・強要しているものであったり、実在の人物を明らかに連想させるような性表現であれば、特定の人物に精神的苦痛・実害をもたらしうるとして、規制は適切な処置であるといえよう。しかし、そのような性表現でなければ、女性差別の生産という因果関係が確認できず、規制は不当であると考えるべきだ。

 公権力は因果関係の不明瞭な性表現の規制より、実際に女性の権利を侵害する行為を取り締まる方を優先すべきではないか。

 

固定化された価値観か、個性か

 次に、②だ。「豊満な胸でない女性も存在するのにも関わらず、女性への価値観を固定化させる性表現は規制すべきだ」という。しかしこの理屈が通用すれば、貧乳の女性を描いても、「女性=貧乳」という固定化が発生してしまう。

 これは男性にも同じことが言える。マッチョな男性を描いても、「男性=筋肉質」という男性への認識の固定化が発生する。マッチョじゃない男性も沢山いるのに、だ。そして、逆も然りだ。そして、「男性=同性愛者」と固定化させるBLも当然規制の対象となる。

 また、「女性への価値観の固定化」を懸念するのであれば、規制は性表現だけにとどまらなくなる。 服装や顔立ち、髪形等にもその理屈は適用され、規制される。さらに、例えば西野○ナのような女性の気持ちを歌ったラブソングだって、「女性の気持ち=歌詞」と女性への間違った価値観ができあがってしまうではないか。彼女の歌詞に共感できない女性だって、大勢いるのに。

 

 この理屈が罷り通れば、際限なく規制がかかってしまい、いずれ何も表現できなくなるだろう。これはもはや規制ではなく、「弾圧」だ。こんなものは、憲法が保障する表現の自由を侵害しているどころの話ではない。

 

f:id:yururiyuruyuru:20200811080854j:plain

 

 そもそも、価値観の固定化なんてあり得るのか。二次元・三次元や性別、年代を問わず、現在世間に流通する無数の表現物の中には無数のキャラクターが存在し、その多種多様な性格・身体的特徴・メッセージ性を我々は享受している。それらの特徴は、(いくら非現実的なものであっても) 固定化された価値観というより、個性として捉える方がよっぽど賢明ではないか。

 

 爆乳も同性愛も恋の気持ちもすべて個性の一つであるため、現実の人々にそれを強制しない。また、個性は特定の誰かを差別する道具でもない。十人十色で多種多様な個性の流通は、現実世界の個性を認めることと同じではないか。(なお、レイプや殺人のような犯罪行為は例外であり、創作と現実を分けて考えなければならない)

 例えば、同性愛を扱った表現物は、三島由紀夫の『仮面の告白』に端を発する。そこから徐々に同性愛の存在が認知され、近年では性表現を含んだBL作品の隆盛や『おっさんずラブ』の流行が訪れた。その読者や視聴者は、「男性=同性愛」という間違った認識を持っているだろうか。むしろ、「同性愛=個性」と認められ始めているという方が辻褄が合う。

 

  我々は表現物で描かれたある特徴だけに絞り込むよう強要されるのではなく、マジョリティもマイノリティも非現実的なものも個性として総じて受け入れる。これは、差別意識の助長というより、多様性の容認に繋がるのではないか。

 

性表現が悪になる

 「女性に対する間違った価値観を固定化しうる表現を排斥すべき」として性表現を規制すれば、固定化されるとして槍玉に挙げられた特徴は、差別の象徴である「悪」と見なされ、必ず忌避される。

 しかし、これもまた女性に対する間違った認識であることは、無視できない。これこそ、かえって価値観の固定化に繋がり、市民の差別意識を助長しうる。

 

(なぜそれが分かるかというのは、歴史を見れば一目瞭然だ。戦前に弾圧された社会主義自由主義は悪という風潮が、一般社会に流布した。そこで生き残るには、転向して体裁上でも悪から脱却するしかなかった。公権力が規制したものは、無条件に「悪」というレッテルを張られることが、歴史で既に証明済みだ。)

 

 例えば、「豊満な胸」があたかも悪だと決めつけてこれを公権力が規制すれば、豊満な胸を持つ女性の差別が広がる。そして、前述のように性表現だけでなくあらゆる表現物が規制され、さらなる差別意識を植えつけるだろう。

 

 前述のように、表現物に対して抱く感情は人それぞれなのだ。ある作品を拒否する者がいれば、共感する者もいる。両者とも思想・良心の自由に基づいて、何人たりとも侵してはならないはずだ(十九条)。だから、拒否したい人は「見たくない自由」が、見たい人はそれを追求できる「幸福追求権(十三条)」がそれぞれ保障されているのだ。

(幸福追求権は、必ず公共の福祉に沿わなければない。例のポスターの掲載は見たくない自由を侵害しており、公共の福祉に反したため幸福追求権は認められない。)

 ある表現に共感できないからといってそれを一方的に弾圧するのは、戦前への回帰のような気がして、何だかきな臭い・・・・

 

 多角的・多様な表現を流通させてこそ、多くの個性を認めることに繋がるのだ。

 

 女性の多様性を認めようとして性表現を規制すれば、かえって自縄自縛に陥るのは火を見るよりも明らかだ。性表現の規制の根拠を女性差別に求めるのは、あまりにも飛躍した論理ではないか。

 

容姿罵倒と性表現

 また、他の記事では「女性は男性に容姿を罵られるが、それは性表現に起因するから、規制すべき」といった批判も存在した。これは、①でまとめた女性差別が身近で発生している問題である。

 勿論、他人の容姿を嘲笑するのはもっての外であり、絶対にやってはならない行為だということは当然である。

 しかし、容姿の罵倒と性表現には、一体どのような因果関係があるのか。性表現を閲覧している人全員が女性の容姿を罵倒しているのであれば、双方の因果関係を確認し、規制の余地はあるが、そうではない。では、性表現は覚醒剤のように判断力を鈍らせるものなのか。いや、違う。①でも述べたように「性表現」と「実際に女性を害する行為」は分けて考えるべきである。

 性表現がそのような行為を誘発しているとは、とても言えない。性表現と容姿の罵倒の因果関係が確実でないなら、性表現の規制は、明らかに不当な表現の自由の侵害だ。

(むしろ、他人の容姿をいじって笑いをとるコンテンツを規制した方がよっぽど有用だ)

 

 こればっかりは、本人の意識の問題である。なお、中立性をもたせるために言及するが、女性も男性の容姿をそしることもある(筋肉とか体臭とか)。性別を問わず容姿の罵倒をなくすためには、性表現の規制では全くの無意味だ。それよりも、個人の意識の改革ではないだろうか。「この発言は、セクハラになる」、「この発言は相手が傷つく」など各々が意識してブレーキをかければ、このような行為は減少していくだろう。この改革を、フェミニストの方々が率先して行うことが、解決の糸口になりうる。

 だから、安易に性表現を規制すれば解決する問題ではないそれこそ、木に縁りて魚を求める空論ではなかろうか。

 

ジェンダーフリー社会における性表現

  ただ、フェミニストの主張も分からなくはない。男性中心社会の現状が、女性のエロで溢れる原因である、と。確かに未だ社会は男性が優位であり、女性はあらゆる点で不利になる場合が多い。この差を是正し、ジェンダーフリーな社会を目標とすることに、私は全面的に賛成である。

 しかし、今では、市場規模や数はまだまだ小さいけれど、女性対象の性表現作品も普及し、性表現を描く女性も増加している。女性自らが性を発現できる機会が、ようやく出来上がったのだ。けれどその性表現を規制しては、その芽を摘むことになるのではないか。

 女性の権利を主張し、女性の社会進出を目指すのであれば、性表現の規制は時代の逆コースを辿るものであると言わざるを得ない。

f:id:yururiyuruyuru:20200813103944j:plain

 

 以上の点から、フェミニズムの観点から性表現の規制を考えるのは、非常に困難が生じるのだ。

 ただ、今回のポスターの場合は「一般公衆の面前にある性表現」だから撤廃は妥当であり、購入・レンタルしないと見れない性表現については、それが不快で見たくない人は「見たくない自由」を発動し、それを見ないと選択すればいい話だ。

 

 このようなことを言及すれば、「冷たい」「差別主義者」などと貶められることがある。もちろん、表現の自由は無制限ではない。実害が及んだ『宴のあと』事件のようなプライバシーを侵害した表現・ヘイトスピーチの規制は、私も賛同できる。

 ただ、猥褻物について扱ったチャタレイ事件の判決に関して、私は疑問を呈しているし、表現の自由は例外を最小限に抑え、最大限に認められるべきだと考えている。

 憲法で保障された表現の自由不当に侵害されるようなことがあれば、一介の表現者として声を上げないわけにはいかない。

(そもそも、性表現の規制反対が差別になるのかが、いたって謎だが)

 

終わりに

 オタクとフェミニストの論争は今回に限った話ではない。しかし、どちらも論点が的外れで議論が全く進展せず、水掛け論ばかりなので着地点が一向に決まらない。

 私はどちらかと言えば「性表現賛成派」なのでオタクの立場になるのだが、彼らの意見も上記のものばかりで完全には首肯しかねる。

 どちらも自分の立場に閉じこもるのではなく、事実に基づく大局的見地に立った建設的な議論を望む。

 

yururiyuruyuru.hatenablog.jp

 

/*目次のデザイン変更*/ .table-of-contents { padding: 15px 10px 15px 35px; /* 枠内の余白(上右下左) */ font-size: 100%; /* 文字サイズ */ border:dotted 1px #777; /* 線の種類と色 */ background:#f7f7f7; /* 背景 */ } .table-of-contents:before { content: "目次"; font-size: 110%; font-weight:bold; /* 文字の太さ 通常はnormal */ color:#000; /* 文字の色 */ }