「新参は語るな!」
「これ知らないやつはにわか」
これらの言葉、ネットでよく見かける方も多いと思う。「新参」・「にわか」とは、とある分野に興味を持ってから日が浅い人及び知識の薄い人の総称(蔑称)である。その分野とは、アニメ・アイドル・音楽のような大きな枠組みから、作品や歌手のような個別的なものまで至る。
「新参」と「にわか」の違いとして、小新井涼氏の解釈によると、新参は「単純に新規参入したばかり」であるのに対し、にわかは「知ったかぶりに近い」ニュアンスとする*1が、どちらも蔑称として使われることも多く、明確な使い分けはないように思える。
特に、著名人(一般人でも頻発する)がその作品について興味を示した時、その作品に対して意見したり間違いを言ったりした時に、この言葉はよく使われる。
自分は、この言葉が非常に嫌いである。なぜ歓迎せずに、マウントを取ろうとするのか。歴が長いだけで、知識があるだけで、なぜ「古参様」はそんなに偉そうなのか。
(今回は特筆しない限り、「にわか」も「新参」も同義として扱う。)
(また、自分がアニメ好きのため、主にアニメを例にしてまとめる。)
〇〇が好きな自分が好き
にわかや新参を嫌う人がいるのはなぜだろう。それは、自分がアニメファン・○○(作品)のファンであるという「ブランド」・「価値」が低下するのが嫌なのだ。
自分がいるテリトリーにプライドを持ってしまい、後から無知がずけずけと入るのは、その価値が下がったような気がして癪に障る。だから、新参(特に影響力の大きい著名人)を排除し、その価値の維持を図るのではないか。
ただ、その排斥運動が自らのブランドを貶めていることは言うまでもない。本来趣味は誰もがアクセスできて然るべきだし、誰かにその趣味を咎められる筋合いはないはずだ。しかし、世界観や細かな設定を知らないだけで糾弾するのは、その界隈の印象を下げることになりかねない。
オタクを自身にラベリングしてアイデンティティを確立する。それだけなら何ら問題もないのだが、そのラベルをブランドやプライドと錯覚し、排他的な風潮が完成してしまう。これは非常にもったいないことである。
新参の獲得は、「排除の対象」ではなく「布教の功績」として、諸手を挙げて歓迎すべきだ。
新参も積極的に
古参から威圧的に言われると、やはり新参は萎縮してしまう。
新参は、特段慎ましくなくてもよい。日が浅くても批判や意見や考察をガンガン主張してよいし、むしろ盲目的なマニアとは違う視点を与えてくれることもある。それに、間違えを恐れる必要はない。学問においても、間違いは罪ではない。ましてや趣味の範疇ではなおさらだ。間違えたら、訂正するだけでよい。
(ただし、批判は新参関係なくファンの反論を買うので、その覚悟を要する…)
ファンに上下なし
「古参が偉い!」
「このアニメのファンなら、この裏設定は知らないとダメ!」
「お金をかけた方が、ファン愛が深い!」
日数や知識やお金は、確かに愛を測る物差しの一つではある。だが、それは絶対的なものではなく、そもそもその優劣で上下関係は決定しない。
愛は様々な形で体現され、正解はない。その一つに、お金や知識があるに過ぎない。それをする者しない者双方ともを否定することはできないはずだ。
(自分は作品の考察が好きだから、それを深掘りすることでその愛を示しています。)
ファンの間にヒエラルキーはない。比べること自体が間違いである。
『鬼滅の刃』が流行って深夜アニメがより大衆化したが、この現象でアニメファンが増えたことは、大変喜ばしいことだ。我々既存のファンは彼らを安易に切り捨てるのではなく、寛容に布教をすることで、個々の作品ひいてはアニメ業界の発展に寄与するに違いない。
ファンは誰もがにわかであり、マニアになる途中である。
おわりに
と偉そうに書き綴ったが、私も実際、潜在的にこのように思っていた一人であった。
しかし、新参を排斥することは、デメリットはあっても何のメリットもない。作品に携わっている方々にとってみれば、この風潮は百害あって一利なし。 失礼極まりない行為である。
反省や自己批判の意味を込めて、今回の記事を書き上げた次第だ。
まあ、もちろんすごいファンもいて、彼らに尊敬の念も自分は持っています…笑
忌憚のない意見を是非ともお寄せください。
それでは。