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【考察】『かくしごと』~飽和した日常系に新たな風を吹き込むか~ 前編

 『かくしごと』は2020年春アニメの一つである。一人娘の姫(ひめ)に自身の職種である漫画家を隠し通す父親可久士(かくし)の話だ。ギャグ要素が多く、非常にテンポよく見ることができる、日常系のアニメ作品だ。

  とは言うものの、私はあまり日常系のアニメを見ない。もちろん『けいおん!』『のんのんびより』など大好きな日常系の作品はあるけれども、大抵の作品は私はどうしてか途中で飽きてしまう。

 しかし、私はこの作品に夢中になった。ではなぜ、日常系に飽きる私がこの作品の虜になったのか。きっとそこには、他の日常系の作品とは一線を画す特徴があるからに違いない。

 

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出典: https://kakushigoto-anime.com

 

 今回初の試みとして、前編と後編で記事を分けようと思う。こちら前編では主に「日常系」について考えていきたい。

 

日常系とは

 まず、日常系(空気系とも)を私なりに定義してみようと思う。様々な方が様々な形でこれを定義しているが、私はこう定義する。

登場人物の余計な関係性・緻密な設定・ストーリー性・メッセージ性・伏線などを排除し、時間や空間のような最低限の舞台に登場人物がコミュニケーションをとる作品

  いわば、必要最低限の世界観のなかで、登場人物が中心となって展開される系統のアニメだ。

 例えば、『けいおん!』『ご注文はうさぎですか?』のように、多くは複数の未成年の女性が登場するが、最近では男性が登場する作品(ハーレム作品等)や、逆に男性だけが登場するものも多くある。

 また、日常系はギャグ作品との線引きが難しいと言われるが、主に視聴の目的だろう。ギャグ作品の場合、視聴者は「笑い滑稽さ」を求めるが、一方で日常系では「癒しかわいらしさ」を求める。

 故に、日常系は「萌え要素」が必要不可欠なものとなってくる。

 

日常系とキャラ文化

 私は、日常系は「キャラ文化の極地」であると考えている。私がよく言う「キャラ文化」を、ここで簡単に話しておこうと思う。

 キャラ文化とは、ストーリーやその裏にあるメッセージ性より、キャラクター(あるいは声優)にスポットライトを当てる文化だ。

 この文化の浸透は、消費者と生産者の二つの側面で説明する必要がある。

 消費者は、二次創作にその原点がある。80~90年代の同人誌の発展により、本来のストーリーを度外視し、キャラに焦点を当てたオリジナルストーリーが展開されることがある。

 00年代、ニコニコ動画YouTubeMAD動画が流行する。これもまたキャラクターが重要視され、その作品のストーリーは無視されがちだ。

 10年代、誰もがスマホを持ち、ネットがより身近なものとなった。これによりTwitterやpixivでキャラクターの二次創作や画像がより多く拡散されるようになった。ここでも、ストーリーの居場所はない。

 一方、生産者側もこの文化に火をつけた張本人である。東浩紀氏は、『新世紀エヴァンゲリオン』の制作会社が『綾波育成計画』を発売したことを皮切りに、生産者も本編のパロディのような作品を販売しているという。(例えば、『進撃の巨人』のパロディ作品『進撃! 巨人中学校』が公式に販売されている。)

 

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出典: https://www.broccoli.co.jp

 また、前回の私のブログ*1にもあるように、アニメ制作は資金がかかるためキャラクターのグッズで資金を回収する。無断転載の横行もあり、制作会社はこの方法で利益を得ている。その影響で、ストーリーの面白さよりキャラのかわいさ・カッコよさが優先されてしまった。

 このキャラ文化の浸透は、ストーリーの衰退を呼んだ。映画・アニメ監督の押井守氏は「物語の退潮が著しい」と危惧した。*2 そして衰退が加速したストーリーが、とうとう無になった。これが、「日常系」として落ち着いたのではないのだろうか。

 

ここが変だよ、日常系

 ここで、私が覚える日常系の違和感について、いくつか書こうと思う。

 

 倒錯したコミュニケーション

 まずそもそも、我々人間はどのようにして他人を理解していくのか。それは、紛れもなく「コミュニケーション」である。我々はコミュニケーションを行うことで、人の意見や性格を知り、他人のブラックボックスな心を少しでも理解し、徐々に関係を築き上げていく。

 しかし、日常系はどうか。登場人物は互いにコミュニケーションをとるけれども、それは他人を理解するためではない。むしろ、完璧な関係が成立した上で会話が行われている。もちろん、現実では「完璧な関係」などありえない。(アニメの世界に現実を持ってくるのはナンセンスだと言われればそれまでだが)

 本来「人と関係を築くため」の手段にすぎないコミュニケーションが自己目的化していて、なんだか変な気分になる。

 すなわち、彼女たちが行っているのは倒錯したコミュニケーションでしかなく、その意義はただ一つ、視聴者が求める「萌え要素」の一環でしかないのだ。

 

時間・空間の固定化

 日常アニメといっても、時間や空間の設定は現実に依存しがちだ。登場人物は中・高校生、場所は学校やバイト先が多い。そして時間や季節に応じて行われるイベントも、入学式・夏冬休み・文化祭・ハロウィン・クリスマスなど、現実に即する。いわば現実のコピーだ。

 だから、作品ごとに設定が被る。もちろん作品それぞれに違った展開が工夫されているが、如何せんストーリーがないので、結局どれも似た色になる。これが新味のない原因なのかもしれない。

 

心のない思春期少女達

 日常系の多くは「思春期の少女たち」が多く登場する。特に思春期という多感な時期なので、外見だけなく内面も書く必要がある。思春期で発生する将来の不安や人間関係の悩みなど、慎重に書かなければならない。

  だが、日常系において「思春期の子にしては不自然だ」と思う節がある。例えば「勉強を忘れてのうのうと生きる」であったり、「将来を案ずることなくのうのうと生きる」であったり、ハーレム作品に限定すれば、「経緯を省略して唐突に主人公に好意を寄せる」であったり。ロボットじゃないんだから。

 私は、これはかなり危険なことに思える。思春期特有の不安や悩みを無理やり喪失させ、あたかも自分の人生を何も考えずのらりくらりと過ごしている。

 これは思春期少年少女の本来の姿ではない。

 「アニメにリアルを持ち込むな」という意見はごもっともだ。しかし、思春期の人間の日常を模している以上、現実の人間を投影する必要がある。彼女たちの行動に因果関係を設けるためには、心情描写にも注目するべきである。ただ起こったことを会話だけで成立させては駄目なのだ。

 男の妄想垂れ流しは、抜きアニメだけにしろ!

 

 終わりに

 これは一般論で話しているので、個々の作品を批判しているわけではない。

 そして冒頭にも述べた通り、『けいおん!』などは大好きなので一概に日常系が嫌いとはいえない。ただ、苦手なだけなのだ。

 

 だが、『かくしごと』は日常系であるが、その特質を維持しながらもこれらの違和感を解消した唯一無二の作品だと感じた。

 

 では、どの点でそう感じたのだろうか。

 それはまた後編で。(近いうちに出します。ご覧になってくれたら幸いです。)

 ご指摘やご質問がございましたら、ご遠慮なくコメントください。

 それでは。

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