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バカッターは令和の暴走族?

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はじめに

 昨今、バカッターなる"ならず者"が雨後の筍のように現れ、我が物顔で世間の話題をほしいままにしています。それを見て、何かの正義感に駆られた見ず知らずの人が、個人情報や経歴を文字通り丸裸にして、表に出ることさえ許さないと鼻息を荒くしています。

 「マッチ一本火事の元」、たった一回の醬油ナメナメで、人生のゲームオーバーを迎えてしまうのです。おバカさんを次々とネットで炙り出し、ろ過を繰り返してクリーンを求める時代は、便利でもあり残酷でもあります。

 バカッターを「今どきの若者はバカだ」と一刀両断することは簡単です。でも、人間だって地球上に住む立派な生き物、そんな数世代で根源的な部分が極端に劣化する訳がありません。どの時代にも賢いヤツは一定数いるし、バカなヤツも一定数いると思うのです。

 だから、私はこう思いました。バカッターは、令和の「暴走族」なんじゃないかと。

 

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否定的同一性・承認欲求・集団心理

 今ではめっきり見なくなった暴走族。「つっぱることが男の〜♪」みたいなリーゼント姿で、「夜露死苦」と刺繍された特攻服を着て、竹槍マフラー&出っ歯エアロで爆走する集団は、もはや絶滅危惧種として認定されています。それでもたまに空ぶかしやマフラーの爆音が夜の静寂を切り裂くこともありますが、恐怖や威圧感というより虚しさや滑稽さを感じてしまいます。

 彼らは周囲の迷惑を承知で練り歩く、いや練り走っています。彼らが暴走する目的は、初日の出や抗争に行くこともありますが、周囲からの視線を集めることもその一つです。わざわざマフラーの消音器を外して爆音を出すのも、無意味な違法改造や装飾にお金をかけるのも、周囲の目線を引くという目的があるような気がします。

 故に彼らが一番忌避するのは、自分達に気づいてくれないこと、無関心です。白けた目で見られるのは、彼らにとってはむしろご褒美です。

 「社会的に逸脱した行為をすることで、自身の存在をアピールする」という否定的同一性が、彼らの奥底にある飽くなき承認欲求を満たすのに繋がっているのです。そして、それは「集団心理」によって責任の所在が霞み、暴走という非行に拍車をかけているのです。

 バカッターにも、おそらく同じ心理が働いているでしょう。共有の醤油をナメナメ、カラオケで火炎放射する反社会的行為が、集団心理によって容易に可能です。それを内輪だけにとどめておくならいざ知らず、Twitterやストーリー、TikTokでネットの海に流して承認欲求を満たしてしまいます。暴走族とバカッターは、その意味で紙一重の存在だといえます。

 

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道具が変わっただけ?

 一時期の暴走族は、車やバイクに乗って公道を支配していました。言い換えれば、なるべく広範囲に自身の存在を知らしめるために、車やバイクはおあつらえ向きの道具でした。

 しかし、それらは日に日に値段が高騰して若くして買うことが難しくなり、代わりに"スマートフォン"という新たな道具が誕生しました。

 スマホはより安価な上に、インターネットを通じて自身の存在を全世界にアピールできます。その力は、車やバイクとは比になりません。

 ですので、現代に蔓延るバカッターは、スマホに"乗って"世論を支配する、ネット暴走族といえます。

 

衝動的か計画的か

 ただ、バカッターと暴走族は全くの同一ではありません。暴走族には怖い兄ちゃんがバックにいる、旧車會のようなグループを組織して喧嘩や抗争を繰り返します。さらに暴走族には、その肩書を誇って鼻にかける人が多く存在します。バカッターには背景の政治力やグループ同士の抗争はなく、「映る人―撮る人」と言う単純な構造で完結しますし、バズった直後は有名になって得意になる人もいますが、数日して後悔と恐怖に苛まれて憔悴しきっている場合がほとんどです。

 また、バカッターは衝動に駆られている、いわゆる「その場のノリ」でやってしまします。一方で、暴走族はむしろ計画的に非行に及びます。特攻服の準備や車体の違法改造は、「その場のノリ」ではできないのです。

 しかし、衝動的であれ計画的であれ、根源的には悪い自分を見てほしい「否定的同一性」が、「集団心理」によって増幅してることには変わりありません。

 

特定班も同じ ~歴史は繰り返す~

 「歴史は繰り返す」という格言がありますが、それは過去がそっくりそのまま現在に再現されるのではなく、本質は変わらずに違った形で発現するものだと思うのです

 今のバカッターが過去に暴走族であったとは限らないし、昔の暴走族が現在バカッターになっているとは言えません。ただ、暴走族もバカッターも時代の変化に適応した産物であって、人間の奥底にある心理は普遍的なものでありましょう。

 暴走族もバカッターも時代を象徴する顔としてあまねく報道され、大多数は彼らを他人事のように冷たくあしらっています。

 ただ、悪さをしたい「否定的同一性」、誰かに見られたい「承認欲求」、集団において無敵感が増す「集団心理」は、僕も含めて誰しもが持ち合わせています。その証拠に、一罰百戒と称して、個人情報特定など度の過ぎた私刑に躍起になっている人たちも、バカッターと同じ心理に駆られていると言わざるを得ません。

(むしろ正義を盾にしている分、その行為に対する後ろめたさを認識しにくいでしょう)

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 私刑を行うネット民のように、暴走族やバカッターとはまた異なる形態で、僕らもそれに陥る可能性が十分にありうるのです。それを憐れな行為だと一蹴するのではなく、自分はするまいと反面教師とすべきです。特にスマホが「第三の手」になっている今日は、みんながカメラマンなのですから…

 

おわりに

 とはいっても、品行方正のいい子ちゃんはこの世にはいないと思います。少なくとも僕は、人の手本になるほど素晴らしい人生を歩んではいません。

(思えば、色々やらかした黒歴史もありますよ… 先生ゴメンネ)

 しかし、醤油ペロペロはあまりにも企業側の損害が大きすぎました。そして、結果的にWikiが作られ*1、ひいては世界デビューを飾るなど*2、若気の至りの一言で片付けられないほどに、手痛い祝福を受けることになりました…。交通規則の遵守やネットリテラシーが大切なのは、「自分がミスをしない」ためではなく、「人様に、そして自分に損失を与えない」ためなのかなあ…。

 さらにその動画は社会に衝撃をもって受け止められ、飲食店の清潔と安全性、寿司文化の崩壊を懸念しました。ですから、ある程度の社会的制裁は致し方ない所はあるでしょう。ただ、若新雄純氏のように*3「清廉潔白な人だけが石を投げるべき」というキリスト的意見にも一概に同調はできませんが、将来のある少年に更生の機会すら許さず、一生の十字架を背負わせる必要はないのではないのでしょうか。正当な批判ならまだしも、大義名分を口実に過剰に袋叩きしている人も、動画拡散の片棒を担いでいる人も、個人情報特定する人も、結局バカッターと同じ穴の狢であることを自覚すべきです。

 

 ??「地球にはこんな言葉がある、『人のふり見て我がふり直せ』」

 

 てか、ネットに乗っける勇気がすごいですよ… 一応Z世代の端くれとして、その勇気だけは感服します…

 ネットを舐めて醤油舐めたら、辛酸をなめたんですね… ハイ…

 

 

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