はじめに
お久しぶりです!そして、2023年も10%が過ぎてからの、あけましておめでとうございます。🌅
またまた更新が途絶えてしまったことをお詫びします🙏
近況報告はまた次の記事で書こうと思いますので、さっそく本題に入りましょう。
前回は、アニメーションの隆盛を、コマーシャルと『おかあさんといっしょ』の観点から考察しました。詳しく知りたい方は、こちらもご覧いただくと嬉しいです。
yururiyuruyuru.hatenablog.jp
今回は、アニメーションの作品にそれぞれ焦点を当てて、アニメーション黎明期にどう評価されていたのかを講じていきたい所存です。10000字に及ぶ冗長な文章となってしまいましたが、分けてご覧になるなどで最後までお付き合いいただけたら幸いです。
なお、引用文における色・線は、すべて私自身の判断で着色したものです。
アニメーション作品の個別的研究
1963年1月から手塚治虫原作『鉄腕アトム』が放送され、一大ブームを巻き起こした。手塚氏がこの際用いた資本主義的な制作手法には賛否両論あるものの、現在のテレビアニメの基礎を築いた点は誰もが認める功績である。放送当時の『読売新聞』および『朝日新聞』の主張を取り上げたい。
読売新聞
『鉄腕アトム』が放送されて約1年半が経った1964年6月17日『読売新聞』朝刊では、次のように述べている。
アトムはロボットだが、人格化されていて、見る人に親しみを与える。一種のSF物だが、かなりファンタジーゆたかで、おとなの夢もかなえてくれる。
同じロボットでもフジの「鉄人28号」は、非人格の機械だが、いかにも一昔前のロボットといったやぼったいグロテスクな姿がごあいきょうだ。アトムの十万馬力が人格の中にかくれているのに対し、28号はその強さがナマに出ている。(中略)この「鉄人28号」とか「狼少年ケン」のように、即物的な方が小学生前の子どもにはわかりやすくて喜ばれるのではなかろうか。
(中略)
アメリカ製の漫画では「トムとジェリー」などいずれも主人公が暴力で相手をこてんぱんにのしてしまういささかの悲壮感もなく、そう快でさえある。おとなのストレス解消にももってこいだ。
総じてテレビの漫画はおもしろい。俗物なものはなにもない。しかし、ストーリーを絵で追ういまの段階から脱却して、純粋に絵の動きだけで笑えるものが出てきてもいいのではないか。
「そう快なテレビ漫画 絵だけで笑えるものほしい」、『読売新聞』、1964年6月17日付朝刊、p11。
『読売新聞』は、強大な能力を持ち合わせているとは思えないアトムのかわいらしい姿が「親しみを与える」としながらも、無機質で武骨な『鉄人28号』と比較して、強さが全面的に出ている方が子どもにとって分かりやすいのではないか、と主張している。かわいさの中に秘めた強さというギャップか、強さを身にまとうありのままの姿か、むしろ『鉄腕アトム』はギャップという革新性があったからこそ人気を博したと自分は考えるが、当時の新聞ではそれに疑問を呈していた。少なくともこの主張は、子どもの頃にピカチュウとガンダムを両方受け入れてきた自分にとっては思いもよらなかった。
また、『読売新聞』は「総じてテレビの漫画はおもしろい。」と前置きをしつつも、『トムとジェリー』のように純粋に笑えるアニメ作品を期待している。この主張も意外なものであった。現在ではストーリーなき作品を批判する某映画監督もいるというのに*1。当時の『読売新聞』は、ストーリー重視のアニメをあまり評価していなかったようである。
以上の資料から、『読売新聞』は『鉄腕アトム』をおおむね好意的に評しているものの、キャラクターやストーリーの分かりやすさを重視していることが分かる。
『朝日新聞』は、『鉄腕アトム』について、当時京都大学人文科学研究所講師の多田道太郎氏による評論を記載している。
アメリカの漫画映画は、(中略)記録映画から出発している。動物の生態を写真にとって、その動作をいちいち分解して絵にかきかえる。そこにディズニーなどの動物マンガの迫真性・客観性がでてくる。日本の紙芝居、そして『鉄腕アトム』は劇映画から出発し、したがって主情的・虚構的である。
手法としては劇的主情的だが、『鉄腕アトム』のえがく世界、対象はロボットのとびかう宇宙であり、金属音のうなりをたてる未来社会であり、人類絶滅の危機とのたたかいである。サイエンス・フィクションの領域なのだ。それにひきかえアメリカ製の『ヘッケル・ジャッケル』(中略)などは、手法は記録的・客観的だが、えがく世界はむしろカラスが笑いネズミが怒る原始的なアニミズムの世界なのである。
「テレビ時評 紙芝居風なマンガ」、『朝日新聞』、1963年6月23日付朝刊、p11。
多田氏は、アメリカのアニメには動物の生態に基づいた「迫真性・客観性」があるが、その世界観は「原始的なアニミズム」だとしている。例えば、ドナルド・○ックはアヒル、ミッキ○マウスはネズミなどディズニーのキャラクターの多くは、実在する動物をモチーフにしている。その点では、現実に即した本物らしいキャラクターである。しかし、ネズミが喜怒哀楽を表し、口笛を吹くディズニーの世界観は、全く現実的ではない。したがって、写実的な自然ドキュメンタリー映画とは違って、魂を宿った動物が人間のように振舞うことが、アメリカのアニメの特徴なのである。
一方で、『鉄腕アトム』は劇映画に基づいた「主情的・虚構的」であるが、その世界観は「サイエンス・フィクションの領域」だと分析する。アトムは劇中、敵と闘う正義感の強さや弱い者に手を差し伸べる献身の心をたびたび見せる。また、アトムは空を飛ぶ・10万馬力など現実ではありえない能力を有する。現実離れした能力をもってして、感情を中心に物語が展開される点が、「主情的・虚構的」である。ところが、『鉄腕アトム』の世界観は、現実の科学技術が格段に進歩した「サイエンス・フィクション」だ。街並みや人々は、どこか現実味を感じさせる。
つまり、実在する動物が人間のように振舞うアメリカのアニメと、仮構のキャラが現実感のある世界で生きる『鉄腕アトム』とで、それぞれ正反対の性質を持ち合わせており、当時の人々から見たSFアニメの異質性がうかがえる。
続けて、多田氏は次のように主張する。
『鉄腕アトム』はアメリカへも輸出されるそうだが、アメリカでどう受けとられるか、いささか興味がある。「ロボットが悪いことをするはずがない、悪いことをするのは人間だ」と鉄腕アトムは言う。こういう手放しの技術信仰、科学信仰が主情的に深くくいいっているのが、日本少年の現状なのであろうか。
(中略)
日本の少年は『鉄腕アトム』にうっとりし、けなげで盲目的な科学信仰にとらわれるのであろうか。あまたの放送局、あるいはスポンサーは、なぜこの一つの創作マンガで満足しているのか。(中略)マンガが新しい神話であるとすれば、いまは神々の競うべきときである。
「テレビ時評 紙芝居風なマンガ」、『朝日新聞』、1963年6月23日付朝刊、p11。
ここで意外なことに多田氏は、『鉄腕アトム』によって日本の少年が「手放しの技術信仰」、「けなげで盲目的な科学信仰」に囚われているのではないか、と懸念している。「盲目的な科学信仰」だとの批判があまり見受けられない現代アニメと比べて、当時のこの指摘は興味深い。
また、前半の『鉄腕アトム』に対するアメリカの評価について、実際『鉄腕アトム』はアメリカでも大きな反響を呼び、ニューヨークにおける同時間帯で視聴率第1位を記録し、アメリカのみならずメキシコ・カナダ・オーストラリアなどにも配給された*2。この大成功は、ジャパニメーション第一号といって差し支えないだろう。
以上の『朝日新聞』の主張はいささか難癖のようで、いかにも朝日らしいと感じるかもしれない。しかし、『鉄腕アトム』の科学礼賛に不満を示したのは、『朝日新聞』だけではない。それは、原作者の手塚治虫氏まさにその人なのである。
原作者の手塚氏は自身の著書『ぼくはマンガ家』で、『鉄腕アトム』の基礎となる『アトム大使』は、クリスマス島における水爆実験を想起して*3「ああ、この科学技術を平和利用できたらいいなと憂い、原子力を平和に使う架空の国の話を描こうと思っ」たところから着想を得たという*4。
『鉄腕アトム』のアニメが開始した際も、手塚氏は自身の作品に愛着を感じていた。『鉄腕アトム』第一話を、彼は「わが子がテレビに出演しているのを、ハラハラと見守る気持ち」で視聴していた*5。
ただ、『鉄腕アトム』のアニメが、次第に単なる科学技術礼賛・勧善懲悪に陥ったことに手塚氏は不満を表した。手塚氏は自身の著書で、アニメの『鉄腕アトム』に対して次のように述べている。
いちばんかんたんなのは、アトムをなにかと戦わせることだ。だんだんアトムの対決の相手が怪物になっていき、それにつれてアトムも可愛らしさがとれて、忍者みたいなスーパーマンになってしまい、現実離れがしてきた。なによりも漫画映画の楽しさがなくなってきた。漫画独特のギャグやユーモラスな画面が消え、やたらに正義や、カッコよさをふりかざした作品が生まれた。
(中略)
実際、終わりのころのアトムは、アトムの顔つきはしているが、ぼくのむすこのアトムではなかった。
手塚治虫『ぼくはマンガ家』(毎日ワンズ、2009年。)、p244。
すなわちアニメの『鉄腕アトム』は、アトムを何かと戦わせるという最も単純な構図に陥ってしまった影響で、本来のかわいらしさやユーモラスさが失われ、「やたらに正義や、カッコよさをふりかざ」すようになった、という。そのアトムに対して手塚氏は「ぼくのむすこのアトムではなかった」と、最初期の心象と比べて大きな心境の変化があり、科学の象徴であるアトムが敵を打ち倒すという科学主義的な勧善懲悪を憂慮していることがうかがえる。
このような現象に陥ってしまったのは、アニメ制作に伴って生じた「低予算・低賃金・殺人的スケジュール」という問題が原因であろう*6。忙殺される現場が、「主人公(善)vs敵(悪)」という単純構造に頼らざるをえなかったことが推察される。『鉄腕アトム』によって日本のアニメーション制作は花開いたと同時に、その制作手法に多くの功罪を残したのは、後世のアニメーターや知識人が指摘するところである。
以上のことから、アニメ『鉄腕アトム』を『朝日新聞』は科学礼賛だと懸念を表したが、それは意外にも手塚氏の意見と軌を一にしていたことが分かる。
現代人でも知らぬ者はいないであろう『サザエさん』は、長谷川町子氏によって『朝日新聞』で連載されていた作品である。1969年10月5日にアニメ第一回が放送され*7、現在に至るまで約半世紀以上も愛され続け、2013年には「最も長く放映されているテレビアニメ番組」としてギネス記録に認定された*8。
さて、そんな『サザエさん』の初回放送はどのように評価されていたのだろうか。原作が掲載されていた『朝日新聞』を見ていく。ちなみに初回の『サザエさん』は、「75点の天才!」「押売りよこんにちは!!」「お父さんはノイローゼ」の三本です。
期待していた「サザエさん」(フジ、日曜夜六時三十分)が五日その日第一回。
どうだろう、現代っ子にはあれで面白かったのだろうか。はじめてのホームマンガのうたい文句が泣いて逃げ出す改悪テレビ漫画と化けていたのは驚いた。
(中略)
まず、いその一家の人物たちが、サザエさんをはじめ、長谷川町子の原画に似ていない。そのうえ、テレビ漫画というものが動画であることはわかっているが、めまぐるしくとんだりはねたり、やたらと動きすぎる。しかも、声を聞いて完全にゲンメツ。マンガでおなじみの声優たちが、またまた同じ調子のやかましい発声法で、どなり合っている。“狼少年ケン”のボスの声、“ハリスの旋風”の国松少年、“おそ松くん” “オバQ”いずれもそのイメージそのままむき出しの声。声優はこれしかいないのか。
庶民の生活をふまえた、痛烈な風刺に思わずふき出さざるを得ないサザエさんの四コマ漫画の面白さは影もかたちもなくなってしまった。もともとサザエさんの笑いは、ストーリー漫画には不適だったのかもしれぬが原作の心を忘れた無神経なつくり方に、テレビ漫画不信の思いをますます強くした。大人も子供も面白がる「巨人の星」(日本テレビ、土曜夜七時)のような制作法もあったのに。さて、現代っ子はこんな漫画のほうを面白がるのだろうか。
「ひどい改悪『サザエさん』」、『朝日新聞』、1969年10月7日付朝刊、p9。
ご覧いただくと分かるように、手厳しいほどの酷評である。『朝日新聞』の論調として、「原作の絵と似ていない」、「動きが激しすぎる」、「イメージそのままの声」の主に3点が改悪であるとしている。論より証拠、YouTubeにある本作の初回放送を見てみよう。
(無断転載ですので、著作権的に何かあれば引用を取り下げます)
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ご覧の通り、空中を走り回ったりタマやネズミが人間のように動いたりと、なんだか『トムとジェリー』のドタバタ劇を彷彿とさせる。明らかに大袈裟な描写が多く、確かに長谷川町子氏の描く原画と離れ、原作本来のリアルな家庭観や知的な社会風刺を感じることはできない。
さらに、『朝日新聞』が指摘する声優にも注目したい。例えば、初代カツオくんを演じた大山のぶ代氏は当時35歳であり、小学生のキャラとは程遠い年代だ。そのため、カツオくんの声はハスキーで甲高く、少年感はあるが少年ではない。その露骨に少年の声を出している演技が、『朝日新聞』にはよく思われなかったようだ。それは、『狼少年ケン』のボス(演:八奈見乗児)*9や『ハリスの旋風』の国松少年(演:大山のぶ代)*10にも当てはまる。どのキャラも子どもや年寄りであり、演じた声優の年齢とはかけ離れている。
現代の感覚では、声優がキャラの年齢に合わせて演技をすることに抵抗を感じることはないだろう。しかし、アニメ黎明期における声優の価値観は、大人の声優が無理に子どもや老人の演技をすることに違和感があったようだ。
以上のような原作無視のやり方に、『朝日新聞』は「テレビ漫画不信の思いをますます強くした」という。アニメへの信頼が揺らぐほど、『サザエさん』の失敗は大きいものであった。
このような不評を、もちろん制作陣も認識していたに違いない。彼らは、アニメを原作に準拠したものに一新した。ドタバタ劇から落ち着きを取り戻し、日常を切り取ったホームドラマに変更した。内容も長谷川町子氏の原作を使用し、オリジナル脚本をなるべく回避した。放送開始から約3年経って、大幅に方針転換した『サザエさん』を『朝日新聞』は次のように評した。
好評の秘けつは、徹底して原作に忠実であることだ、と制作しているTJC動画センターの堀越唯義取締役はいう。
(中略)
ひところ、長谷川さんの原作を離れて、オリジナルのシナリオで数本製作したところ、顔や形は「サザエさん」でも、中身はまったく違っていることに気づき、あわててやめたこともあった。
視聴者は気づいていないようだが、絵もずいぶん変ってきている。だが、いま心配し、注意しているのは、マンガの主人公は年をとらないが、世相や考え方が時とともに変ってきていることだ。四年目を期して、スタッフも新たに気を引きしめているこのごろだ。
「テレビマンガ『サザエさん』満3歳 “原作に忠実”で好評」、『朝日新聞』、1972年9月25日付夕刊、p9。
『朝日新聞』は評価を一転させて、「徹底して原作に忠実である」として歓迎している。オリジナルを避けて原作のシナリオに徹し、キャラデザも大きく変更して現行のものに近くなった。3年という年月をかけて、長年愛されるアニメの礎を築くことができたのである。
しかし、『朝日新聞』はさらに「マンガの主人公は年をとらないが、世相や考え方が時とともに変ってきている」と心配する。すなわち、年を取らない登場人物が、だんだんと現実世界の変化に即することができないのではないか、ということだ。いわゆる「サザエさん時空」と呼ばれるそうだが*11、現在でもこの現象にツッコミを入れる者も多い。現実世界のモノや出来事を挿入すれば、1960~70年代という作品の世界観と矛盾するが、延々と同じ世界観を繰り返せば話が単調になってつまらない。この板挟みにあうことを、『朝日新聞』は早くから懸念していたのだ。
この現象は『サザエさん』に限らず長寿アニメの宿命ではあるが、『サザエさん』はその先例を開く作品と言って差し支えない。当時からこの現象に注目していたことは、とても興味深い。少なくとも『朝日新聞』は、『サザエさん』がこれからも長く愛される作品になることを確信していたことが分かる。
3.『決断』の場合
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1971年4月から日本テレビ系列で放送されたタツノコプロ制作『決断』は、太平洋開戦から敗戦までの日本軍の戦局を描いたノンフィクションアニメである。子ども向けのアニメが主流だった時代に、本作は大人の鑑賞を意識した本格的な大人向けに製作された。空母や戦闘機、軍服、艦橋の細部や陰影を緻密に描かれており、音楽や効果音も本物の軍歌、爆発音やエンジン音を使用する*12など、戦争のリアリティに注力した作品である。
今回『決断』を取り上げた理由として、自分が調べた中で「初めて社会で物議を醸したテレビアニメ」であるからだ。もちろん賛否両論を呼んだ作品は以前から存在するが、それはあくまで「批評」という性質が強い。つまり、「つまらない・絵が下手くそ」のように作品の内容に対する批判が多くを占めていた。
しかし、『決断』の場合は作品の危険性、「作品が公開されることで与えうる社会的悪影響」を懸念し、世の中を巻き込んで論争が起こった。社会の神経が鋭敏になった今でこそポリティカル・コネクトネスや『鬼滅の刃』遊廓問題など度々噴出する論争ではあるが、『決断』はその端緒なのである。
本作の争点は、ひとえに「太平洋戦争」だ。太平洋戦争はたいへんセンシティブな問題であり、ましてや戦争が終わって四半世紀ほどしか経っていないのだから、なおのことだ。繊細な問題を孕んでいた本作は、必然的に多方面から非難を受けることになった。
土曜の夜七時半のテレビ視聴者は、30%が17歳以下の子どもたちである。しかも日ごろ"ヘビー・ドリンカー"といわれる父親群もこの日は家に帰り、子どもとテレビを見る。その時間帯に四月から、日本テレビが太平洋戦記を素材にしたアニメーション「決断」を放送するというので、いまからさまざまな論議を呼んでいる。
(中略)
同局労組、民放労連は「軍国主義を美化し、判断力のない子どもたちにカッコいい戦争の勝負だけを見せるもの」とさっそくかみついた。(中略)それにしても、父が子どもに戦争の側面、裏面まで語ってきかせられればよいが、ただ勝った負けたのスリルに終わったら――という声や、テレビでの"慣れ"が子どもに与える影響への心配が出るのも無理ないことだろう。このテレビ局とスポンサーの"決断"に世間がどう反応するか、興味深い問題だ。
「世間はどう“決断”する?」、『読売新聞』、1971年3月25日付夕刊、p7。
本作は大人向けに制作されたといえども、土曜夜7時半というゴールデンタイムに放送される性質上、判断力の鈍い子どもも視聴する可能性が高いため、彼らへの悪影響があるのでは、との批判が唱えられている。
戦闘のカッコよさや勝負のスリルに終始し、戦争の凄惨さや苛酷さを子どもから覆い隠す作品だとして、『決断』は社会問題化した。視聴者からは、具体的に「日本軍隊が犯した南京大虐殺も描くべきだ」であったり、「戦時中の銃後の苦しさを子どもにも教えてほしい」といった、日本の戦争犯罪や一般市民の困窮な生活に焦点を当てるべきとの要望があった*13。
ただ、当時は太平洋戦争そのものがタブー視されていた訳ではない。例えば、1967年の『日本のいちばん長い日』に端を発する東宝の「8.15シリーズ」は、1972年まで毎年公開される人気シリーズとなっている。また、戦時下の教師と生徒たちを写した『二十四の瞳』は、1974年にNHKの「少年ドラマシリーズ」において小中学生向けに放送された。つまり、太平洋戦争に触れたというより、『決断』はあくまで「太平洋戦争を美化したこと」、そして「それを子どもたちに見せること」に批判が集中した側面が強い。
『決断』は平均視聴率が8.2%と、他のタツノコプロ制作アニメと比較して芳しくない結果に甘んじた*14。しかし、そこで培われた技術は、後の『ガッチャマン』において遺憾なく発揮され、タツノコプロのさらなる躍進に大きく貢献した。
ちなみに、『決断』は最終回で読売ジャイアンツ川上哲治監督と長嶋茂雄選手・王貞治選手の活躍をまとめるという、かなり不思議な形で終わりを迎えた*15。(版権の都合上、ソフト化や再放送が不可能な幻の最終回となっている。)
おわりに
後編では、アニメーション黎明期の作品の評価を取り上げた。最後に、本稿の内容をまとめよう。
『鉄腕アトム』について、『読売新聞』はストーリーの不要を主張しながらも全体的に好印象を示していた一方、『朝日新聞』は盲目的な科学信仰に懸念を表していた。作者の手塚治虫氏もまた『鉄腕アトム』が科学技術の勧善懲悪に陥ったことに苦悩していた。
『サザエさん』について、最初期のドタバタ劇に『朝日新聞』はアニメーションに不信感を抱いたが、方針転換の結果、原作に忠実だとして歓迎した。加えて、現実世界と作品の世界観とのギャップにどう対応するかを指摘している。
『決断』について、美化した太平洋戦争を子どもたちに見せるとして、社会的な悪影響を懸念して大きな批判が巻き起こった。
個人的に意外だったのは、『鉄腕アトム』における科学技術の礼賛を批判していた点でしょうか。現在のアニメは、科学技術万歳!🙌の作品ももちろんありますが(なんか昔そんなアニメ書いた気がする…*16)、科学技術をガンガン使った作品が多くを占めていますし、それに特段僕は疑問を持ちませんでした。どっちがいいと二者択一の問題ではないですが、科学技術万歳!🙌の作品がたくさんある中、一度立ち返ってあえて科学技術を切り込むのも面白いかもしれません。
『鉄腕アトム』と言えば、2003年に放送されたアニメのOPが個人的にカッコよくて好きです。特に0:25~からのバトルシーンの画面2分割&早回しが最高にクール! CHEMISTRYの曲ともマッチしていて、かつてここまで疾走感のあるOPがあっただろうか?(いや、ない!)
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とりあえず書きたいものはたくさんあるので、ぼちぼちと投稿頻度を高くできればな、と思います。
それでは!
次もまた見てくださいね~!
じゃんけん、ポン! ✊ ウフフフフフ・・・👋
yururiyuruyuru.hatenablog.jp
https://fod.fujitv.co.jp/title/5787/
参考文献
● 手塚治虫『ぼくはマンガ家』(毎日ワンズ、2009年。)
● 『読売新聞』
● 『朝日新聞』